Ⅸ
「あ、きら……?」
恐る恐る名前を呼んでみると玲は、柔らかく微笑んで倒れこんだ。その身体が俺とルチに覆いかぶさる。ガクッと膝を折って、まるで糸の切れた操り人形のように。ぽたりと垂れる物があった。それが何か、理解はできない。いや、したくない。
ギリッと歯軋りをする音が聞こえた。そうして、俺たちの上に覆いかぶさったものが避けられる。そこに立っていたのは、今にも泣きそうなステッラで。ああ、泣きたいのは俺の方だよ。訳の分からない、分かりたくもない展開に吐き気が襲ってくる。
不意に鈍い痛みが頭を襲った。視界が青く瞬く。ぐにゃり、ぐにゃりと歪む世界とより一層主張をする吐き気、頭痛。グッと頭を抱えて堪えようとした。助けてくれ、そんな風に言葉が零れる。視界の端に見えたネーロは僅かに驚いたような表情をしていた。
タンッと軽やかな音。再び金属同士がぶつかるような音。ああ、ステッラが動き出したのか。
大きな音。また、どちらかが吹っ飛ばされたらしい。短い息と、高笑い。耳障りだ。騒ぐな。止めろ。これ以上は止めてくれ。そう叫ぼうとしても、酷い吐き気と頭痛に、俺は無様に喘ぐことしかできない。もう、無理だ、そう思った瞬間に俺の頭にひんやりとした手が当てられる。
ゆっくり顔を上げるとルチが悲しげに微笑んでいた。心配していてくれているのだろうか。よく分からない。
「ネーロの好きにはさせないの!」
「ふぅん……無様に吹っ飛ばされることしかできないのに?」
叫ぶステッラの声と嗤うネーロの声。次第に不自然に瞬いていた世界は、一瞬で元の姿へと戻った。熱のせいか少しぼやけて見えるけれど、もう瞬いたり青く染まったりはしていない。吐き気も、頭痛も少し治まったような気がする。
俺の方へと向けられた弱弱しくステッラの片手が光っているのが見えた。ステッラがなんらか力を使ったのだろうか? 俺にはわからない。
素早く斬り込もうとするステッラをみて、ネーロは軽くその手を振るった。不自然な突風がステッラをなぎ払い、俺達にも襲い掛かる。ステッラが壁に激突するのが見える。ああ、本気でこれ以上やると家具壊れそうなんだけど。いや、もう少なくとも一つは壊れてても可笑しくないだろうなぁ。じわり、目の前で広がっている血の海から目をそらして、俺はそんなことを考える。
しばらくして、ルチが俺から離れて立ち上がった。仕方がないとでも言うような表情をしている。一体何をするつもりなのだろうか? もしかして、ルチは悪魔を祓うべく送り込まれた天才エクソシストで、これから悪を祓うため戦います、なんて言う、少年漫画もびっくりなバトル的展開が繰り広げられるとでも言うのだろうか? ……何言ってんだろう、俺。自分で言っておいてなんだが、全く意味が分かっていなかったりする。
「そこに正座です、ネーロ、ステッラ!!」
「……は?」
ルチの口から飛び出した言葉に、俺は思わず声を上げる。ルチさん口調が完全に崩れているけどいいのかな? というか普段はふわふわしているルチのオーラが一気に刺々しくなった。……怒ってる。これは完全に怒っている。のそのそ起き上がって不満げな表情をするステッラ。まぁ俺らを守ろうとして蹴り飛ばされた上に、正座しろ、って言われてるんだから当然かもしれない。
ルチの雰囲気に戦々恐々とする俺をよそにネーロは氷の刀を軽く振り「うるせーなぁ、お嬢さんは黙ってろよ」と悪態をついている。そりゃこっちは武器を持っていないのだから、自分が武器持っているうちは優勢だもんな。従う必要もないわけだ。あれ? そう考えると今ネーロに命令して危ないのってルチや俺じゃないか? ……嫌な予感しかしない。
「いいから……正座、しろ?」
語尾に星が付いても可笑しくないような明るい爽やかな声。わざと正座を強調するかのような言い方が怖い。次に命令するときにはその声に殺気がプラスされるんだろうなぁ……。嗚呼、ルチの笑顔が醜悪なものにしか見えなくなってきた。
ステッラはその笑みに含まれているものを感じ取ったかのようにルチの前に正座。きちっと背筋まで正して、ガタガタと震えている。ネーロの氷の刀が、ルチの首に掛けるためのチェーン付き十字架がぶつかった瞬間に砕けたのを見て、その震えをより一層大きくしていた。言わなくても分かるだろうが、十字架を投げたのはルチである。……普段はステッラに苛立ちを覚えることも多い俺だが今回は流石に同情するしかない。
ちなみに氷の刀が壊されてもなお悪態をついていたネーロは、フォークと果物ナイフを装備して、にっこりと笑うルチを見た途端にその表情を凍りつかせた。そして数秒後にはステッラの横で正座。……ルチは本気で何者なのだろうか? 悪魔を祓う人たちのことは聞いたことがあっても、悪魔を実際に正座させる人なんて聞いたことない。
「人様の家で暴れちゃ駄目です。物が壊れちゃったらどうするんですか? それがその人の大切なものだったら……もう大変ですよ?」
「人間が慌てふためくざまは面白いから、俺からすれば万々歳だがな」
いきなり優しい口調に戻ったルチが、諭すように言うと、ネーロがポツリと呟いた。口調は戻ったものの刺々しい雰囲気を漂わせたままのルチの前でそこまで言えれば俺は十分だと思う。俺なら怖くて無理だ。……だってルチ、まだフォークと果物ナイフ装備したままだし。
「……つか、お前も思いっきりフォークとか投げてたよな」
俺が言うとルチはシュン、と眉を下げて謝ってきた。どうやら怒るだけではないらしい。シュンとして謝る人物と、その前でガクガクと震えて正座している人外二人……なんとも奇想天外な光景である。つか、ネーロ、散々悪態ついていたくせにステッラ並みに震えてんじゃねーか。気持ちは分からなくはないが、もう少し頑張って欲しいものである。
俺が投げやりにもういいと言うと、ルチは泣きそうになりながらも、ステッラとネーロを再び諭し始める。ただ、いまだに漂う刺々しい雰囲気はどうにかならないものか。後で何かされるんじゃないかと怯える自分がいる。……なんかもう頭痛が酷くなった気がする。早く帰ってくんねーかな、コイツら。
つか玲どうしよう。絶対死んだよね、これ。だって目を開けたままピクリとも動かないし。って、あれ? そう思って見直してみてようやく、俺は玲の手に見慣れない腕輪が付けられていることに気づいた。自らの尻尾を咥えた蛇に一本の蔦が巻きついていて、それに蝶が止まっていると言うものだ。
変わったデザインだな、そんな風に考える。でも玲ってあんな趣味してたかなぁ? そんな風に考えて俺は首を振る。そうじゃないだろう? 考える事はおそらく死んでしまったであろう玲をどうするかであるんだから。天使って人生き返らせれるのかなぁ、なんて考え始めた自分に反吐が出る。
ルチが、分かりましたね? なんてやや強い口調で言のが聞こえた。ステッラは凄い勢いで頷いている。早く恐怖から開放されたいとでも言うかのように。逆にネーロはうるせーよなんていう風に悪態をついている。悪態をつくのは構わんが、その前にガタガタと震えるのを何とかしてはいかがだろうか。それだけを言うのも億劫になってきた。
「おや……返事は、はいかイエス、ですよ?」
「……それ、結局は選択肢一つしかねぇじゃねぇか」
「当たり前です。一つしか選択肢を与えてないんですから」
ナイフを構えていい笑顔を浮べるルチに向かって俺は言う。するとルチは悪びれもせずにそう返してきた。駄目だこりゃ、そう考えてネーロに視線を移せば、汗をダラダラと垂らしながら震えている。だから悪態つくならもっと頑張れって。そんなに震えていたらカッコつかないだろうが。……むしろ笑い話になってしまいそうだ。




