二話
高郷法介はベッドの上で目を開けた。ぼんやりと天井の木目を眺め、まず覚えたのは自分がいる場所への疑問だった。が、すぐに自分の部屋だという事に気付く。上半身を起こし部屋を見回すと、見慣れた机や本棚が目に入った。飾り気の無い宿屋の内装は影も形も無い。法介はガッカリしてため息を吐いた。
「なんだ、夢か……ん? いや、夢でいいんだ。違う、夢じゃな……ああそうか、違わないんだ。夢だったんだ」
自分の体験を思い返し、なんとも言えないモヤモヤした気分になる。夢だけど、夢じゃなかった。
夢の中で法介が食べた肉串も読んだ本も現実には無いが、確かに記憶の中には残っている。しかし目が覚めた途端その記憶に自信が無くなってくる。記憶など所詮脳神経の回路に過ぎない。どうして記憶にある出来事が確かに起きたと言えるだろう?
しばらくベッドの上で夢現の間を彷徨っていると、部屋のドアがノックされた。
「にーさん、朝食。起きてる?」
「あー……起きてる起きてる。今行く」
法介はノロノロと布団から這い出ると、部屋を出て階段を下りた。
ダイニングキッチンに入り、母と妹におはよう、と声をかけ、椅子に座りながらトースターにパンを入れる。テーブルには空の皿とコーヒーカップが一組あり、父がもう出かけている事を示している。法介はいつも通りに政治家の汚職について報道しているTVを一瞥し、リモコンをとってチャンネルを変えた。数秒ごとにチャンネルを変えて一巡させ、元のチャンネルに戻す。それから普段テレビ欄しか見ない新聞を手に取り、丁寧に捲り始める。妹は目玉焼きを箸でつつきながら珍しそうに視線を寄越したが、法介と目が合うと興味を無くしたように皿に顔を戻した。法介の行動に勝手に何かしらの自己解釈をしたようだった。
法介はDream Worldのニュースを探していた。
Dream Worldのプレイヤーは日本人の中から抽選されたという。何人が抽選されたかは分からないが、数百万人規模で法介と同じような招待が行われていればそれなりにニュースになっていてもおかしくはない。
法介は今後もプレイを続ける気であるため、Dream Worldに対する社会の反応を知っておく必要があった。プレイヤー人数が噂にも上らない程度の少数であり、騒ぎになるどころか話題にもなっていなければ特に何もしなくて良い。しかし政府がDream Worldを違法と見なして禁止令を出したり、根拠のある有害性が発見され公表されたり、運営が名乗り出たり、Dream Worldに使われている技術が発表されたりすれば法介も身の振り方を考えなければならない。
しかし特にニュースにDream Worldについての情報は流れていなかった。
サービス開始が六月一日午前零時だとすると、まだ七時間しか経っていない。プレイヤー人数は一夜にして大騒ぎになるほどではなく、まだ情報が出回っていないという事だろう。災害や大規模な事件・事故のような分かり易いものではないから、自然、情報の広がりは口コミになる。だが数時間で騒ぎになっていないからといってこれからもそうであるという保証はない。法介は数日は様子見をする事にした。
法介は新聞をたたみ、チンと音を立てたトースターからこんがり焼けたパンを取り出しマーガリンを塗る。妹が聞いてきた。
「何か面白いニュースあった?」
「いや、日本の未来が心配になるニュースばっか」
「私の老後まで日本崩壊しないといいんだけどなー」
「そこまではいかんだろ……多分」
「や、もう革新的で清廉潔白な政治家が百人ぐらい一度に当選しないとダメじゃないかな。まずは国会で野次飛ばすのと居眠りするのを禁止にするべきだと思うね私は。小学生の方がまだ行儀いいよ」
知ったような口で政治を語り始めた妹を無視してパンを口に押し込み、目玉焼きを牛乳で流し込んで法介は席を立った。学校に行く前に調べたい事がある。
「法介、もういいの?」
「ほががが」
キッチンでフライパンを洗っている母にもがもがと答え、法介は自室に戻った。
パソコンの電源を入れ、パジャマを脱ぎ捨てハンガーにかけていた制服を取る。Yシャツを着てズボンと靴下をはき、ベルトをした所で起動したパソコンの椅子に座ってインターネットを開く。
法介は「Dream World」と打ち込んで検索した。信頼性はともかくテレビや新聞よりもインターネットの方が情報は早い。誰かがブログにでも書いていれば、とページを捲っていったが、法介が求めているものは見つからなかった。音楽グループのアルバムやらリサイクルショップやらで一致した名前は見つかったが、その内容は夢世界で行われたゲームとは似ても似つかない。
片手で頬杖を突いてマウスを操作しながら考える。Dream Worldのプレイヤーがいたとして、彼ら彼女らはそれを現実で公言するだろうか?
法介はしない。Dream Worldの話をしたところでその凄さや現実性が伝わるとは思えない。どれだけ言葉を尽くしても変わった夢を見たんだねと思われるか、あまりの詳細さにかえって嘘だと思われるかだ。法介の場合はまた厨二病が再発したかと思われる可能性もある。
それに現実での情報のやりとりに意味があるとも思えない。ゲームの情報交換はゲーム内のBBSですれば良いし、運営の正体を探るのも無意味だ。運営が自らの正体を隠しているのには何か理由があるのだろう。物的証拠が無い以上正体を探るのは極めて難しい。何かが間違って正体を突き止めてしまったら、事情によってはサービス停止になる事も有り得るだろう。
一方で話しても信じられない事を承知で、単なる夢の話としてブログや掲示板に書き込むというのは考えられるし、興味本位で運営の正体を探る者もいるかも知れない。運営は自分達の正体を探るなと言っていないのだ。探られても辿りつく事は有り得ないと高をくくっているだけかも知れないが。
そして何の情報も得られず時間は過ぎ、登校しなければならない時刻になったので、法介はパソコンの電源を落とした。
法介が教室の戸を開けると入り口近くでたむろしていた女子グループが一瞬目線を寄越し、すぐにまたきゃあきゃあとお喋りに戻った。小学校の頃は教室の入り口でクラスメイト全員に朝の挨拶が義務であるかのようにされていたが、高校二年生にもなるとむしろそれは恥のようで、親しい友人と会話の前置き程度に交わされるのが常だ。
「おはよノリスケ」
「はよ」
法介が席にどっかりと腰を下ろすと、友人の倉本が寄ってきた。
「朝っぱらからびみょ~な顔してるねえ」
「いや変な夢みてさ」
「へえ? どんな?」
「あー、細かい内容忘れた」
法介はしれっと嘘を吐いた。倉本の顔を観察したが、特に動揺や強い興味はなさそうだった。先ほどからクラスの会話を拾っているが夢の話はチラリとも出ていない。クラスで何人もプレイヤーがいれば話題になっているだろうから、クラスにプレイヤーは法介一人と考えて良い。
「なんだつまらん。MHどこまで行った? 村卒業した? まだ薬草集めてんの?」
「今日物理小テストあるからやらんかった。範囲広いし」
「うっ!」
「はーん、忘れてたな? 悪あがきしてこい」
「……いやもう諦めるわ。物理一限じゃん」
ぐだぐだ喋っている内に予鈴が鳴り、倉本は憂鬱そうに自分の席に戻って行った。
授業はつつがなく進行した。テロリストが乗り込んできて生徒を人質に取る事もなければ、地震が起こる事もなく、殺し合いが始まる事もない。昼休みに学食でカレーを食べ、持ち込んだ携帯ゲーム機で倉本と通信し、五限の現国を眠気を堪えながら乗り越える。
六限は担当教師が出張で自習だった。教室では素直に自習する生徒が半数、残り半数は寝ているかヒソヒソとお喋りをしているか携帯を弄っているかだ。法介は英語と化学のノートを広げ、せっせとシャーペンを動かしていた。ログイン時間を考えると最低でも一日六時間の睡眠は欲しい。提出期限ギリギリで夜更かしして課題を仕上げるハメにならないよう、先取りして課題をこなしているのだ。
六限が終わり、生徒達は三々五々部室へ向かったり帰途へ着いたり委員会の仕事をしたりし始める。この日はいつも一緒に帰る倉本が体調を崩して保健室で休むと言っていたので一人で帰る。倉本は体が弱く、よく保健室でお世話になっていた。
制服のネクタイを緩め、一人でプラプラと街中を歩く。道路を走る車も、コンビニの前でたむろする不良も、吐き捨てられたガムがこびりついた側溝のドブ板も、何もかもがいつも通りだ。
漫然と歩いている内に法介は段々と不安になってきた。あまりにも見えるもの全てが普通過ぎて、昨夜の夢が夢だったように思えてくる。実際夢だったのだが、だからこそ性質が悪い。朝目が覚めてから時間が経過し、記憶が薄れるにつれて本当にそんな夢を見たのかすら自信が持てなくなってきていた。色々な意味で現実としか思えないリアルさの夢を見たというよりも寝起きに頭を打って記憶が混乱した、という方がまだ納得できる。ゲームのタイトルも既にDream WorldだったかDream World OnlineだったかDream Onlineだったかあやふやだ。宿屋の娘の名前すらケティかキティかはっきりしない。
一度疑念を抱くと止まらなかった。家を出てから玄関の鍵をかけたか気になり、何度も思い返している内に確証が持てなくなってくるのと同じで、正確に思い出そうとすればするほど曖昧になっていく。
考えすぎて何が何やら分からなくなってきた法介は考えるのを止めた。寝れば勝手にログインするというのだけははっきりと覚えている。眠ってログインできれば良し、できなければアレはいい夢だったなと思い出にしてしまえばいい。
考え事に没頭し、寄り道をしなかったので法介はいつもよりも早く家に着いた。玄関のドアを開けて靴を脱ぐと、二階からガタガタと大きな音がした。何かがぶつかる鈍い音が続いて聞こえ、呻き声が上がる。
法介が何事かと階段を駆け上がって自分の部屋のドアを開けると、開け放たれた押入れの前で妹が両手で頭を押さえ蹲っていた。
「おいおい大丈夫か、っておい! 押入れ勝手に探ってんじゃねーよ!」
「お、おかえり。早かったね? いつもはもっと遅いのに」
ハッと我にかえった妹は足の先で押入れの戸をスススと閉めたが遅すぎる。法介は妹が後ろ手に隠した本を取り上げた。『悪魔召喚呪術陣集』とかすれた赤文字で書かれた真っ黒な分厚い本だ。忌まわしい法介の黒歴史の証拠である。
兄の治癒と入れ違いに発症した妹は事あるごとにこうして傷口を抉りにくる。法介よりは格段に症状が軽かったが、それでも治りかけの瘡蓋にヤスリをかけられる方からすればたまったものではない。
「勝手に漁んなっつっただろ? なんだこれは? あ?」
「それでも私はやってない」
「黙れ。現行犯だ」
法介は問答無用で本の角を妹の頭に落とした。妹はきゃあと悲鳴を上げ、涙目で抗議する。
「なにさなにさ、ちょっとぐらい読んだっていいじゃん。そんなに読ませたくないなら売るか捨てるかすればいいのに」
「売ろうと思ったら店員の前に出さないといけないだろうが。羞恥プレイってレベルじゃねーぞ。あと5200円もした本を捨てるのは勿体無い。オラ出てけ出てけ」
法介は言い訳を並べ立てる妹を部屋から蹴り出し、本をもう一度押し入れの奥深くに封印し直した。若き日の過ちの物証は何十年かして心の傷が癒えたら老人が趣味でやっているような寂れた古本屋でマスクと帽子で顔を隠して無言で売ろうと思っていた。今はまだ早い。
イライラと押入れの戸を力任せに閉めた法介はパソコンの電源を入れた。制服をベッドの上に脱ぎ捨ててハーフパンツとTシャツのラフな格好に着替え、インターネットを開く。「Dream World」「Dream World Online」「Dream Online」と検索していくと、一件だけ朝と違うサイトが引っかかった。
「『L・ψ・コングルゥ』? 嫌なブログ名だ」
法介は嫌悪感を滲ませて呟いた。サイト名の下の抜粋文をつらつらと読むに法介が体験した夢と同じ夢について書かれているのは間違いなさそうだったが、その微妙にトラウマを刺激するブログ名がクリックを躊躇わせる。
法介はちょっと見るだけ、ちょっと見るだけ、と自分に言い聞かせ、サイトを開き、一秒でブラウザバックした。
「…………ないわ」
法介は両手で顔を覆った。黒い背景に白のルーン文字がずらずらと書いてある壁紙で、トピックスのタイトルが重症だった。背景のルーン文字をサラッと読めてしまったのがまた法介の心を抉る。脳みそからルーン文字の記憶をアンインストールしたくなった。
高二病、というものがある。「何事にも冷めた見方をする」 「新しい物事を否定するようになる」 「善行をするのは偽善と嫌う」「何事にも期待しなくなる 」「やってもどうせ無理だと思っている 」「過剰な中二病認定」などの基本的に中二病と逆の行動を取ろうとする者を指す言葉だ。法介はまさしくそれである。
しかし高二病と逆の行動を取ると一周回って元に戻り、今度は大二病と呼ばれるようになる。 一度中二だの高二だのと気にし始めると罹患と治癒の鼬ごっこでいつまで経っても快癒しない。
法介はそれを承知の上で厨二病に対して否定的な態度を取っていた。嫌いなものは嫌いだからだ。厨二病から高二病への移行も、トマト好きが腐ったトマトを食べて以来トマトを毛嫌いするようになった、というのと何も変わらない。良いも悪いもない。極論、人に迷惑をかけなければどのような考え方や嗜好をしていても自由なのだから、法介は自分の厨二嫌いを肯定し、馬鹿騒ぎをしなくなった分、昔よりは大人に近づいたと思っている。
そんな理論武装を執拗にしている事自体が若さ故の過ちに雁字搦めに縛られている事の証拠なのだが、法介は気付いていない。
しばらく凹んでいた法介は頭を振って気分を切り替え、携帯ゲーム機を手にとってベッドに寝転がった。課題を学校で済ませてきたので就寝まで丸々ゲームに当てる事ができる。
夕飯と風呂を挟んでゲームをし続けた法介だが、気が散ってミスを連発したので止めた。ネットの有象無象のブログとは言え客観的に自分の体験を証明する情報を見つけ、いくらか気持ちは落ち着いていたが、そうなると次のログインが待ち遠しく、法介は五分置きにそわそわと時計を見ていた。
噂の広がりやゲームでのNPCの言動からして法介がDream Worldの初プレイヤーの一人である事は間違いない。課金システムが無い以上、ほぼ全てのゲームで重要なのはプレイ時間だ。プレイヤースキルや運も絡むが、それは時間で挽回できる。そしてこのままプレイを続けた場合、法介は間違いなくプレイ時間最多のプレイヤーの一人になるだろう。効率良く事を運べば、最強、あるいは大富豪、名工プレイヤーになるのも夢ではない。
夢ではないが、「最強」という言葉の響きから厨二臭がして体が拒絶反応を示した。トッププレイヤーの座を守るために時間に追われてあくせくするのも馬鹿馬鹿しい。かと言って畑を持ってゲームの中で日がな一日鍬を振る長閑な遊び方をする気も無かったが。
Dream Worldでは職選びがプレイスタイルを決めると言って良い。法介は就職先について悶々としている内に瞼が落ち、夢の世界に旅立っていた。