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白い結婚には、腹黒い妻がお似合いでしょう?

作者: 月白ふゆ
掲載日:2026/07/13

 リディアーヌ・フォルクレールが白い結婚を言い渡されたのは、婚礼を終えた、その日の夜だった。


 薄絹の寝衣をまとい、白い薔薇の花弁が散らされた寝台の端に座っていると、夫となったアルベルト・グランシェ侯爵が扉を開けた。


 彼は正装を解いていなかった。


 上着も、金糸の刺繍が施された胴衣も、式のときのままである。


 ただし、胸元に挿していた白い花だけがなかった。


 婚礼のあと、それを誰に渡してきたのか。


 リディアーヌは一度だけ、空になった胸元へ視線を落とした。


 すぐに瞳を上げる。


 尋ねはしなかった。


「先に伝えておくことがある」


 アルベルトは寝室へ入ったものの、扉のそばから動かなかった。


 妻の隣へ座るつもりも、手を取るつもりもないらしい。


 暖炉の上の置き時計へ目をやり、早く話を終えたいというように指先で袖口を整えている。


「私は君を愛するつもりはない」


 リディアーヌの睫毛が、ごくわずかに伏せられた。


 膝の上で重ねた手にも、力は入らなかった。


 ただ、右手の親指が左手の指輪へ触れ、冷たい金属の縁を一度なぞった。


 覚悟していなかったわけではない。


 両家の利益を優先した政略結婚である。甘い恋情など、最初から期待していなかった。


 それでも互いに敬意を払い、時間をかけて夫婦になっていけると思っていた。


 アルベルトは、そんな淡い期待さえ切り捨てるように続けた。


「私には昔から愛している女性がいる。家柄の違いから結婚は許されなかったが、彼女への気持ちを捨てるつもりはない」


「その方は、ミレーヌ・オルディス男爵令嬢ですか」


 アルベルトの眉がわずかに動いた。


「知っていたのか」


「お名前だけは」


 知らないはずがなかった。


 婚約が決まった直後から、社交界では囁かれていた。


 グランシェ侯爵は、幼馴染の男爵令嬢を愛している。


 だが、傾きかけた侯爵家を支えるには、富裕なフォルクレール伯爵家の娘を娶るしかない。


 誰もリディアーヌ本人には言わなかった。


 言わなければ、知らないことになるとでも思っていたのだろう。


「この婚姻は家同士を結ぶためのものだ。侯爵夫人として相応の生活は保証する。社交界でも、君の名誉を傷つけるつもりはない」


 アルベルトの声には、妙な寛大さが滲んでいた。


 愛は与えない。


 寝室も共にしない。


 その代わり、衣食住と侯爵夫人の地位を与える。


 それで十分だろう、と。


「領地の管理や屋敷の差配については、君にも協力してもらいたい。先代の頃から滞っていることが多くてね。君は商家との折衝に長けていると聞いている」


「私はあなたの妻としての務めを果たす。しかし、あなたは夫としての務めを果たさない」


 アルベルトの顔に、わずかな不快感が浮かんだ。


「そういう言い方をする必要はないだろう。無理に抱かれるより、よほど誠実だと思わないか」


「ええ。確かに」


 リディアーヌは指輪から手を離した。


「つまり、白い結婚をお望みなのですね」


「そうだ」


「今後、私に後継者を求めることもない」


「当然だ」


「互いの私生活には干渉しない」


「君が節度を守るなら、私も口を出さない」


 最後の一言だけが、いかにもアルベルトらしかった。


 自分は愛人のもとへ通う。


 妻は侯爵家の名誉を守りながら、目立たぬように生きろ。


 それを公平と呼ぶつもりなのだ。


 リディアーヌはしばらく夫を見つめた。


 怒りも悲しみも浮かべず、どこか遠いものを見るような静かな瞳だった。


 アルベルトの方が先に視線を外した。


 彼はまた、暖炉の上の時計を見た。


 リディアーヌは立ち上がり、壁際の書き物机へ向かった。


「何をしている」


「書面に残します」


「書面?」


「あなたが白い結婚を望み、私に後継者を求めず、互いの私生活に干渉しないと約束なさったことを」


 アルベルトは呆れたように笑った。


「そんなものが必要か?」


「必要です。今夜のことを、私が都合よく作り上げたと言われては困りますから」


「君は随分と用心深い女だな」


「父によく言われました。契約のない好意は、相手の気分ひとつでなかったことにされる、と」


 リディアーヌが文面を書き上げる間、アルベルトは窓の外を眺めていた。


 庭の門の向こうに、何か待たせているものでもあるのだろうか。


 差し出された書面へ目を落としても、読むためではなかった。


 署名欄の位置を確かめると、羽根ペンを取る。


 ペン先から落ちたインクが、文面の端に黒い点を作った。


 アルベルトは気にも留めず、乱雑に名前を書いた。


 妻が自分へ不利益をもたらすはずがない。


 妻とは夫に従い、家へ財産を差し出し、夫の都合に合わせるものだ。


 彼にとって、その前提は契約書の文面よりも確かなものだった。


「これで満足か」


 羽根ペンが机の上へ放られ、乾いた音を立てた。


「はい」


「では、私は別室で休む」


 扉が閉じる。


 一人残された寝室には、白い薔薇の香りだけが満ちていた。


 リディアーヌは署名された書面を持ち上げた。


 紙の端についた黒いインクの染みを、親指でなぞる。


 それから丁寧に折り、鍵のかかる文箱へしまった。


 泣くのは、今夜だけにしようと思った。


 明日からは、夫の望む侯爵夫人になる。


 従順で、物分かりがよく、家のために尽くす妻に。


 ただし。


 何も考えず、すべてを差し出す女にはならない。


 グランシェ侯爵家の財政は、傾いているどころではなかった。


 婚礼から三日後、家令から渡された帳簿を見たリディアーヌは、しばらく声を失った。


 先代侯爵が催した豪奢な夜会。


 アルベルトが購入した競走馬。


 収穫量に見合わない徴税。


 修繕されない水路。


 利息だけが膨らみ続ける借入金。


 帳簿の数字を目で追ううちに、リディアーヌの瞳からわずかな温度が消えていった。


「今まで、どのようにして屋敷を維持していたのですか」


 老家令は視線を落とした。


「奥様のご持参金が入るまで、返済を猶予していただいておりました」


 つまり、リディアーヌの金を当てにして、問題を先送りにしていたのだ。


 その日の夕食で、彼女はアルベルトへ帳簿を差し出した。


「領地の水路を修繕しなければ、来年も収穫は減ります。先にこちらへ資金を回すべきです」


「君に任せる」


「競走馬を何頭か売却する必要があります」


「それは困る」


 アルベルトは皿の上の肉から目を上げなかった。


「では、別の支出を削らなければなりません」


「君の持参金があるだろう」


「ありますが、無限ではございません」


「侯爵家のために持ってきた金ではないのか」


「私の生活と将来を保証するため、実家から預けられた財産です」


「夫婦になった以上、同じことだろう」


 リディアーヌは夫の横顔を見た。


 アルベルトは肉を切ることに集中しており、妻の表情など見ようともしない。


 そこで初めて、彼女は理解した。


 この男は、妻を愛していないのではない。


 妻というものを、自分の所有物だと思っているのだ。


 妻の金も、妻の知識も、妻の労働も、婚姻と同時に自分のものになる。


 だから、感謝する必要さえない。


「分かりました」


 リディアーヌは微笑んだ。


「私の持参金を使い、領地を立て直します」


「そうしてくれ」


「ただし、侯爵家の負債を増やさないため、投資した事業は私個人の管理資産といたします。形式上の処理ですので、ご署名を」


「細かいことは君に任せる」


 アルベルトは、今回も書類を読まなかった。


 リディアーヌは父の商会と連絡を取り、最初に水路を修繕した。


 次に、領内の古い製粉所を建て直した。


 街道沿いに倉庫を設け、収穫物を腐らせず保管できるようにした。


 商会の荷馬車を定期的に走らせ、農民たちが王都まで作物を運ばずとも売れる仕組みを整えた。


 ただ施設を建てたのではない。


 北の穀倉地帯から王都へ抜ける街道。


 川舟が荷を下ろす船着場。


 収穫物を加工する製粉所。


 それらを結ぶ倉庫と輸送契約を、フォルクレール商会が一つずつ押さえていった。


 グランシェ領の作物は、リディアーヌの設備を通さなければ、効率よく市場へ届かない。


 反対に、彼女の流通網へ乗せれば、農民たちは以前より早く、高く作物を売ることができた。


 資金はすべてリディアーヌの持参財産、またはフォルクレール商会からの融資で賄った。


 土地そのものは侯爵領にある。


 だが、設備と運営権、輸送契約はリディアーヌが所有する。


 契約書には、そのことが明確に記されていた。


 アルベルトは、どれにも署名した。


 一度も中身を読まずに。


 妻が整えた仕組みは、いずれ自分が受け継ぐ。


 彼は疑うことすらしなかった。


 一年が経つ頃には、領地の収穫量は大きく増えた。


 滞っていた税も集まり、使用人へ遅れなく給金を支払えるようになった。


 王都では、グランシェ侯爵家が見事に立ち直ったと評判になった。


「アルベルト様は、奥方選びまでお見事ですな」


 夜会でそう褒められると、アルベルトは満足げに笑った。


「妻は数字に強くてね。私は細かなことを任せているだけだよ」


 その言い方では、能力ある妻を見抜き、自由に働かせている賢明な夫に聞こえる。


 リディアーヌは夫の隣で微笑んだ。


 口元には柔らかな弧を描きながら、瞳だけは笑っていなかった。


 反論はしない。


 まだ、そのときではない。


 夜会を終えると、アルベルトは妻と同じ馬車には乗らなかった。


「今夜は友人のところへ寄る」


 誰のもとへ行くのか、口にすることさえなくなっていた。


「承知いたしました」


「先に帰っていてくれ」


「お気をつけて」


 馬車が遠ざかる。


 リディアーヌは屋敷へ戻り、帳簿を開いた。


 ミレーヌのために用意された別邸の賃料。


 新しい家具。


 宝石商への支払い。


 旅行用の馬車。


 すべて、侯爵家の会計から出ていた。


 アルベルトは、妻の持参金で愛人を養っていたのである。


 リディアーヌは一枚ずつ証票を揃え、日付と金額を記録した。


 銀の燭台に揺れる炎が、彼女の瞳へ細く映る。


 夫の不貞に傷つかなくなったわけではない。


 ただ、痛みをそのまま抱えるのをやめただけだ。


 涙は乾けば消える。


 数字は残る。


 結婚から二年が過ぎた春。


 ミレーヌ・オルディスから、茶会の招待状が届いた。


 白い封筒には、侯爵家の別邸の住所が記されていた。


 夫の愛人が、正妻を自分の住まいへ招く。


 あまりに無礼で、かえって感心するほどだった。


 侍女は顔を曇らせた。


「お断りになりますよね」


「いいえ。伺います」


「奥様」


「どのようなお話か、興味がありますもの」


 リディアーヌは招待状を閉じた。


 口元は微笑んでいたが、紙面を見る目は静かに冷えていた。


 別邸は、王都の静かな一角に建っていた。


 庭には季節の花が咲き、応接室には質のよい家具が並んでいる。


 見覚えのある意匠ばかりだった。


 リディアーヌが懇意にしている商会から購入された品である。


 もちろん、代金は侯爵家が支払っていた。


「来てくださって嬉しいわ」


 ミレーヌは淡い桃色のドレスをまとっていた。


 アルベルトが好む色だ。


「お招きいただき、ありがとうございます」


「もっと堅苦しくない話し方でいいのよ。私たちは、同じ方を支える者同士でしょう?」


 ミレーヌは勝者の余裕を見せるように笑った。


 リディアーヌは黙って席についた。


 出された紅茶は、侯爵家で使っているものより上等だった。


「今日お呼びしたのは、お知らせしたいことがあったからなの」


 ミレーヌは腹へ手を添えた。


 衣服の上からでは、まだ変化はほとんど分からない。


「子どもを授かったの」


「まあ」


「アルベルト様も、とても喜んでくださったわ」


「それは、おめでとうございます」


 リディアーヌが穏やかに祝うと、ミレーヌは少し拍子抜けしたようだった。


 泣くか、怒るか、せめて顔色を変えると期待していたのだろう。


「男の子なら、グランシェ侯爵家の跡継ぎになるの」


「そうですか」


「あなたには、お子様がいないでしょう?」


「ええ」


「なら、ちょうどよいと思わない?」


 リディアーヌはカップを受け皿へ戻した。


 磁器同士が触れ合い、小さく澄んだ音を立てた。


「何がでしょう」


「あなたがこの子を養子に迎えるのよ」


 ミレーヌは、素晴らしい解決策を披露するように身を乗り出した。


「あなたは侯爵夫人として家を支える。私はアルベルト様を支える。生まれた子はあなたの子として育てれば、誰も困らないわ」


 彼女はそれを本気で、誰にとっても公平な案だと信じようとしていた。


 リディアーヌが侯爵夫人の座にいる限り、自分は愛人でしかない。


 だが、その妻に子を託し、自分は愛される女性としてそばにいれば、奪ったのではなく役割を分けただけだと思える。


 そう考えなければ、正妻の金で暮らしながら、その夫と子をもうけた自分を正当化できないのだろう。


「あなたは、そのお子様の母ではなくなるのですか」


「もちろん、私もそばにはいるわ。でも正式には、あなたが母親ということになるでしょうね」


「私が育て、教育し、侯爵家の跡継ぎにする」


「ええ。あなたはそういうことがお得意でしょう?」


 ミレーヌは微笑んでいた。


 リディアーヌが断る可能性を、ほとんど考えていない顔だった。


 妻には地位がある。


 自分には愛がある。


 子には家が与えられる。


 それで全員が幸せになるのだと、繰り返し自分へ言い聞かせてきたのかもしれない。


 あまりの身勝手さに、リディアーヌは怒りより先に可笑しくなった。


 妻としての仕事はリディアーヌにさせる。


 夫の愛はミレーヌが受け取る。


 愛人との子まで正妻に育てさせ、その子が侯爵家を継ぐ。


 そのすべてを、丸く収まると呼ぶらしい。


「私がお断りしたら?」


 ミレーヌの表情が初めて曇った。


「どうして断るの?」


「私の子ではございませんから」


「でも、あなたには一生子どもができないでしょう」


「一生とは限りません」


「アルベルト様があなたを抱くはずがないわ」


 ミレーヌは、ようやく口にした。


 その声には明確な優越感と、その優越を確かめなければ崩れてしまいそうな焦りが混じっていた。


「あなたは賢い方なのでしょう? 愛されていないことくらい、もう理解しているはずよ」


「ええ」


 リディアーヌは微笑んだ。


 細められた瞳には、もう傷ついた妻の色はなかった。


「よく理解しております」


「なら――」


「だからこそ、準備ができました」


 ミレーヌが首を傾げる。


「何の?」


「こちらの話です」


 リディアーヌは立ち上がった。


「お茶をごちそうさまでした。お体を大切になさってください」


「待って。養子の話は」


「アルベルト様から正式に伺います」


 別邸を出たその足で、リディアーヌは王室法務院へ向かった。


 応接室で待っていたユーグ・ランベール法務官は、机の上へ積み上げられた書類を一枚ずつ確認した。


 初夜に交わした誓約書。


 婚礼以降、夫婦の寝室が一度も使われていないことを示す使用人たちの記録。


 アルベルトの別邸通い。


 ミレーヌへ流用された金銭。


 侯爵領内に設けた事業の所有契約。


 流通経路、倉庫、製粉所、輸送事業に関する権利書。


 すべてを読み終えたユーグは、眼鏡を外した。


「ここまで揃えているとは思いませんでした」


「足りないものはございますか」


「いいえ。婚姻無効を申し立てるには十分です。夫本人が、最初から婚姻を成立させる意思がなかったと署名していますから」


「認められるでしょうか」


「教会の判断は必要ですが、三年間一度も夫婦関係がなく、夫が公然と愛人を囲い、その子を正妻へ押しつけようとしている。棄却する理由を探す方が難しいでしょう」


 リディアーヌは息を吐いた。


 安堵より、恐ろしさの方が大きかった。


 ここまで準備しても、最後の一歩を踏み出すには勇気がいる。


「いつから、この日のために?」


 ユーグが尋ねた。


「夫が私を妻にしないと決めた夜からです」


「傷つかなかったのですか」


 リディアーヌは一度、窓の外へ視線を移した。


 法務院の庭に植えられた白い花が、春の風に揺れている。


「傷ついたから、準備したのです」


 何も感じなかったわけではない。


 最初の一年は、アルベルトが帰らない夜ごとに胸が痛んだ。


 二年目には、夫が何のためらいもなく妻の金を愛人へ使うたび、自分の価値まで奪われたように感じた。


 けれど、耐えることと許すことは違う。


「申立てをお願いいたします」


「承知しました」


「ただし、公表は三週間後に」


「何かご予定が?」


「結婚三周年の晩餐会がございます」


 アルベルトが親族や重臣を招き、侯爵家の再興を祝うと言っていた。


 おそらく、その席で愛人の子について発表するつもりなのだろう。


 リディアーヌは、夫に最も相応しい舞台を譲ることにした。


 侯爵家を立て直した自分の功績を誇る、その席を。


 三度目の結婚記念日。


 グランシェ侯爵邸の大広間には、百本を超える白い薔薇が飾られていた。


 白い薔薇は、純潔な結婚を象徴する。


 皮肉にしては、よくできていた。


 リディアーヌは会場へ入る前、そのうちの一輪へ指先を触れた。


 花弁は柔らかく、染み一つない。


 彼女はすぐに手を離した。


 晩餐会には侯爵家の親族、領地の重臣、取引先の商人まで招かれている。


 アルベルトは上機嫌だった。


「皆、今日はよく集まってくれた」


 食事が一段落すると、彼は杯を手に立ち上がった。


「グランシェ家は一時、困難な時期を迎えていた。しかし今や領地は豊かになり、家の財政も安定した。これも、我々夫婦を支えてくれた皆のおかげだ」


 我々夫婦。


 リディアーヌは静かに微笑んでいた。


 膝の上に置いた指先は、ぴくりとも動かない。


 アルベルトは妻へ一度も視線を向けず、続けた。


「そして今夜、我が家の未来に関する大切な発表がある」


 広間の扉が開く。


 入ってきたのは、腹の膨らみがはっきりと分かるドレスを着たミレーヌだった。


 客たちの間に、低いざわめきが広がる。


 アルベルトは彼女の手を取った。


「ミレーヌ・オルディス嬢は、私の子を身籠もっている」


 何人かの夫人が扇で口元を隠した。


 親族の一人が顔をしかめる。


 それでも、アルベルトは堂々としていた。


「生まれる子が男子であれば、グランシェ侯爵家の跡継ぎとして迎えたいと考えている」


 そして、ようやくリディアーヌを見た。


「妻も、侯爵家の未来を思えば反対はしないだろう」


 事前に相談しなかったのは、皆の前で発表すれば断れないと思ったからだ。


 侯爵夫人として。


 賢明な妻として。


 夫を支える女として。


 リディアーヌはゆっくりと立ち上がった。


 椅子を引く音さえ、ほとんど立てなかった。


「もちろん、グランシェ侯爵家の未来は大切でございます」


 アルベルトの口元が緩んだ。


「では――」


「ですので、そのお子様を跡継ぎとして認めることはできません」


 広間から音が消えた。


 リディアーヌの声は大きくなかった。


 それでも、部屋の隅まで明瞭に届いた。


 アルベルトは、聞き間違えたような顔をした。


「何だと?」


「お断り申し上げます」


「リディアーヌ。感情的になる場面ではない」


「感情の話などしておりません」


「では、何が不満なんだ」


「契約です」


 リディアーヌは侍女から一通の書面を受け取った。


 三年前、婚礼の夜にアルベルトが署名したものだった。


 紙の端には、あの夜に落ちた黒いインクの染みが残っている。


「こちらには、あなたが白い結婚を望み、私との間に子を求めず、互いの私生活へ干渉しないと記されております」


「それがどうした」


「私は契約を守りました。あなたがミレーヌ様を愛することにも、別邸へ通うことにも、口を出しておりません」


「ならば、この子のことも――」


「そのお子様を産むことと、私が母親になることは別問題です」


 ミレーヌが腹を守るように手を置いた。


「この子を憎んでいるの?」


「いいえ。お子様に罪はございません」


「では、なぜ」


「あなたのお子様だからです」


 リディアーヌは淡々と答えた。


「あなたが産み、あなたとアルベルト様が育てればよいのです。私が母親の名義を貸す理由はございません」


「だが君には子がいない!」


 アルベルトの声が広間に響いた。


「いないのではございません。あなたが、作らないとお決めになったのです」


 客たちの視線が、一斉にアルベルトへ向いた。


 彼は初めて、自分が何を公言してしまったのかに気づいたらしい。


「夫婦のことを、人前で話すべきではない」


「皆様の前で愛人とそのお子様を紹介なさったのは、あなたでしょう」


「私は家の将来を考えている!」


「私もです」


 リディアーヌは広間の入口へ目を向けた。


「ランベール法務官。お願いいたします」


 ユーグが二人の官吏を伴って入ってくる。


 アルベルトの顔から血の気が引いた。


「なぜ王室法務官がここにいる」


「グランシェ侯爵夫妻の婚姻無効申立てについて、正式な通知をお届けに参りました」


 ユーグの声は事務的だった。


「婚姻無効?」


「はい」


 リディアーヌは夫を見つめた。


 まっすぐな視線には、怒りも嘲りもなかった。


 ただ、もう何一つ期待していない静けさだけがあった。


「私たちの婚姻は、最初から成立していなかったものとして扱っていただきます」


「そんなことが認められるはずがない!」


「あなたご自身が、初夜に婚姻を成立させる意思がないと署名しております」


「これは、互いに干渉しないための覚書にすぎない!」


「三年間、夫婦関係は一度もございませんでした」


「それは君も同意したからだ!」


「同意しなければ、無理にあなたを寝室へ引きずり込めと?」


 アルベルトは言葉を失った。


 ユーグが書面を読み上げる。


「夫側が婚礼以前から別の女性と関係を持ち、婚姻後も継続していること。妻へ後継者を求めないと明記していること。夫婦関係が三年間存在しないこと。これらを根拠として、教会へ婚姻無効の審理が申請されています」


「リディアーヌ」


 アルベルトは低い声で妻の名を呼んだ。


「婚姻を無効にすれば、君は侯爵夫人ではなくなるぞ」


「承知しております」


「この屋敷も、地位も、領地も失う」


「いいえ」


 リディアーヌは二通目の書類を取り出した。


「失うのは、あなたです」


「何を言っている」


「領地に新設した製粉所、倉庫、市場、輸送事業。そのすべては、私の持参財産とフォルクレール商会からの融資によって運営されています」


「侯爵領にあるものだ。侯爵家の財産に決まっている」


「土地は侯爵家のものです。設備と運営権は私のものです」


「そんなはずはない!」


「こちらも、あなたが署名なさいました」


 一通。


 二通。


 三通。


 侍女が机へ書類を並べていく。


 どれにも、アルベルト・グランシェの署名があった。


「侯爵家の負債を増やさぬため、事業は私個人の管理資産とする。そうご説明いたしました」


「形式上の処理だと言ったではないか」


「形式は大切です。侯爵様」


 夫ではなく、爵位で呼ばれたことに、アルベルトの肩が震えた。


「婚姻無効が認められた場合、私の持参財産は全額返還されます。同時に、フォルクレール商会との優先取引も終了いたします」


「勝手なことは許さない」


「私の財産を私が引き揚げるだけです」


「領地はどうなる!」


「農民の皆様とは、フォルクレール商会が直接契約いたします。作物の買い取りも、輸送も継続します」


「ならば、何も変わらないではないか」


「侯爵家へ入る手数料がなくなります」


 アルベルトの顔が固まった。


 これまで、侯爵家はリディアーヌの事業から利益を得ていた。


 何もせずとも、領地を通る商品から金が入る仕組みになっていた。


 だが、その契約相手は侯爵家ではない。


 リディアーヌだった。


「水路の維持費も、今後は侯爵家にご負担いただきます。製粉所の使用料も、適正価格をお支払いください」


「できるはずがない!」


「では、ご自身で新しい設備をお作りになればよろしいでしょう」


「君は妻だろう!」


 アルベルトが叫んだ。


「もう違います」


 たった一言だった。


 それだけで、三年間のすべてが終わった。


 アルベルトは荒い息を吐き、机の書類を睨んだ。


「最初から、私を陥れるつもりだったのか」


「いいえ」


 リディアーヌは静かに答えた。


「私は侯爵領を豊かにしました。水路を直し、農民の暮らしを安定させ、借金の返済を進め、あなたの名誉も守りました」


「なら、なぜ」


「私の財産を、あなたへ贈らなかっただけです」


「夫婦なら同じことだ!」


「白い結婚なのでしょう?」


 アルベルトの口が閉じた。


 リディアーヌは、彼が署名した最初の契約書を指先で押さえた。


 黒い染みのついた紙だった。


「あなたは、私を妻として愛さないとお決めになりました。それでも私は侯爵夫人として働きました。ですが、愛人のために私の金を使い、そのお子様まで私へ押しつけることを、夫婦の義務とは申しません」


 ユーグが別の書類を開いた。


「なお、侯爵家の事業費からオルディス嬢の別邸、宝飾品、旅行費へ流用された金額についても、返還請求が提出されています」


 ミレーヌがアルベルトを見上げた。


「流用?」


「違う。あれは私の金だ」


「私のために、ご自分のお金を使ってくださったのではないの?」


「侯爵家の金だ。いずれ私のものになる金だ!」


 アルベルトの言葉に、ミレーヌの顔が青ざめた。


 彼女が信じていた役割分担が、音を立てて崩れていく。


 自分は愛を与えられた女。


 リディアーヌは家と金を管理する女。


 そう分ければ、何も奪っていないと思うことができた。


 だが、愛を飾っていた宝石も、二人を守っていた別邸も、すべて正妻の財産から支払われていた。


「つまり、リディアーヌ様の持参金だったの?」


「夫婦なのだから同じだと言っている!」


 今度は誰も、彼の言葉に頷かなかった。


 親族たちは冷たい目でアルベルトを見ている。


 取引先の商人たちは、互いに視線を交わしていた。


 当主としての信用が、音もなく崩れていく。


「リディアーヌ」


 アルベルトは声を落とした。


「今までどおり、君が侯爵家を支えればいい」


「お断りいたします」


「ミレーヌの子を認めろと言っているのではない。話し合おう」


 つい先ほどまで、大勢の前で妻に受け入れさせるつもりだった男が、急に話し合いを求めている。


「君が望むなら、ミレーヌとは別れる」


「アルベルト様!」


 ミレーヌが叫んだ。


 アルベルトは彼女を見なかった。


「君を正式な妻として扱う。寝室も共にする。後継者も君との間に――」


「結構です」


「なぜだ!」


「あなたに愛していただく必要はございません」


 リディアーヌは、ほんの少しだけ笑った。


 その笑みを見て、アルベルトは初夜と同じように先に視線を逸らした。


「ですが、私の財産を愛している方と夫婦を続けるつもりもございません」


 婚姻無効の申立ては、三か月後に認められた。


 リディアーヌとアルベルトの婚姻は、最初から成立していなかったものとされた。


 彼女は離婚された妻ではない。


 結婚の意思を持たない男に、形式だけの婚姻を強いられた被害者となった。


 持参財産は返還され、侯爵領に築いた事業の運営権も、そのままリディアーヌのもとへ残った。


 彼女は領民との取引を打ち切らなかった。


 製粉所も倉庫も使わせた。


 荷馬車も、船着場も、市場への販路も維持した。


 ただし、侯爵家を間に挟むのをやめた。


 農民たちは以前より高い値で作物を売れるようになり、リディアーヌの商会も利益を得た。


 困窮したのは、何もせず取り分だけを受け取っていた侯爵家の中枢である。


 アルベルトは爵位を失わなかった。


 だが、親族会議によって家督を弟へ譲るよう迫られた。


 愛人のために家の金を流用し、有能な妻を失い、侯爵家の信用まで損なった当主を、誰も支えようとはしなかった。


 ミレーヌは無事に男児を産んだ。


 しかし、その子は侯爵家の正式な後継者として認められなかった。


 アルベルトと結婚すれば、借金を背負うことになる。


 結婚しなければ、子は愛人の子のままである。


 愛だけあればよいと言っていた二人は、金と地位を失った途端、互いを責め始めた。


 リディアーヌは王都に自分の商会を構えた。


 看板が掲げられた日、ユーグが祝いに訪れた。


「随分と噂になっていますよ」


「どのような?」


「賢明な女性だという者もいれば、夫を破滅させた腹黒い女だという者もいます」


「まあ」


 リディアーヌは書類へ署名しながら笑った。


「後者の方が、面白そうですわね」


「腹黒いと言われても、気になりませんか」


「夫を信じて、何も考えず、持参金も人生も差し出す妻ではございませんでしたから」


「後悔は?」


 リディアーヌは窓の外を見た。


 商会の前には荷馬車が並び、働く者たちが忙しく行き交っている。


 誰かの妻としてではなく、リディアーヌ自身の名で築いた場所だった。


「少しも」


 その日の午後、アルベルトから手紙が届いた。


 離れて初めて、リディアーヌの大切さに気づいた。


 戻ってきてほしい。


 今度こそ妻として大切にする。


 ミレーヌとはすでに別れた。


 侯爵家を再建するためにも、二人でもう一度やり直したい。


 長い手紙だった。


 リディアーヌは最後まで読み、便箋を一枚取り出した。


 窓から差す光の中で、ペン先が一瞬だけ黒く光った。


 返事は一行で済んだ。


 白い結婚には、腹黒い妻がお似合いでしょう?


 インクが乾くのを待ち、封筒へ入れる。


 白い封蝋を落とそうとして、少し考えた。


 それから、商会の印章を押すための黒い封蝋を選んだ。


 白い結婚によって空白にされた三年間。


 その空白を、これからは自分の好きな色で満たしていけばいい。


 リディアーヌは封を終えた手紙を侍女へ渡し、新しい帳簿を開いた。

これまでたくさんの悪役令嬢を書いてきましたが、そういえば「白い結婚」は、まだきちんと書いたことがなかった気がします。


今回は、白い結婚ならぬ腹黒い妻のお話です。


そうは言っても、感情だけで殴り返すのではなく、契約や制度、仕組みを使って相手を追い詰めていくあたりは、やはり私の癖なのかもしれません。


愛されないなら泣き寝入りするのではなく、きっちり自分の財産と人生を取り戻してもらいました。


少しでも楽しんでいただけましたら幸いです。

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― 新着の感想 ―
領民からの反感は買うでしょうが、税を課せば収入は補填できそうですけどね。 また、愛人さんはアルベルトが何をして得た財産で暮らしているつもりだった のだろうか。正妻が事業を取り仕切っているのは知っていた…
負債を請け負わされそうな弟君 借金はない?けど汚名は引き継がなきゃならんしなぁ
侯爵家の領地での収穫(収入)や取引である以上少なくとも領民は侯爵家に税金等を納めないといけないと思いますが?後道を整備したのが商会であっても侯爵家の土地である以上通行料なども支払わなければいけないので…
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