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通勤電車の物語

作者: クサフグ

初投稿です。宜しくお願いします。

 佐藤健一、49歳。都内の商社で課長を務めるバツイチのサラリーマンだ。

 妻と別れてから数年、子供もおらず、親しい友人は数えるほど。交友関係は狭いが、それで満足している。


 毎朝、7時15分の同じ電車に乗り、30年近く変わらない通勤路をたどる。

電車の中は、見慣れた顔と見慣れぬ顔が混在する小さな社会だ。

 名も知らぬ乗客たちの表情や仕草は、職場の同僚より妙に安心感を与えてくれる。

 転職や転勤で顔ぶれが少し変わることはあっても、大きな流れは変わらない。


 そんな日々の中で、健一にとって最も顕著な変化は、学生たちの存在だ。

 高校生たちは、3年で完全に世代が入れ替わる。春には初々しい制服姿の新入生が現れ、夏には少し慣れた顔つきになり、冬には受験や進路に思いを馳せる表情を見せる。

 そして卒業とともに、彼らの何人かはこの電車でスーツを着て「大人」の仲間入りをし、残りは別の街、別の人生へと散っていく。


 健一はそれを、桜の開花や紅葉のように、毎年繰り返される風物詩だと感じていた。

 変わらない自分の日常に、ほんの少しの彩りを与えてくれる存在だ。

 その朝も、いつも通り7時15分の電車に乗り込んだ。窓際のつり革につかまり、スマホを片手にニュースを流し読みする。いつものルーティンだ。

 電車が次の駅で停まり、人が流れ込む中、ふとした拍子に手が誰かにぶつかった。カツンと軽い音がして、健一のスマホが足元に落ちる。同時に、もう一台のスマホも床に転がった。

 見ると、目の前に立つ女子高生が慌ててしゃがみ込み、自分のスマホを拾い上げている。健一も急いで自分のスマホを拾った。


「あ、すみませんでした」


 慌てて健一が言うと、女子高生も小さく頭を下げる。


「いえ、こちらこそ…ごめんなさい」


 と小さく頭を下げる。彼女の制服は見慣れたものだ。去年からこの電車で見かける子だ。おそらく高校2年生だろう。

 ショートカットの髪に、透明なスマホケース。損傷はなさそうで、健一は軽く会釈して会話を終えた。

 彼女も小さく頷き、すぐにイヤホンを耳に戻して視線を落とした。

 ほんの一瞬の出来事。健一は特に気にも留めず、スマホの画面に戻る。

 だが、なぜかその女子高生の少し緊張した表情が、頭の片隅に残った。

 普段ならこんな小さな出来事はすぐに忘れるのに、今日は妙に印象に残る。

 電車が次の駅に着き、彼女が降りていく背中を見ながら、健一は「まぁ、こんなこともあるか」と小さく呟いた。



 葵は都内の高校に通う2年生だ。

毎朝、同じ電車で学校に通う。実家から私立高校までは電車とバスで30分ほど。

 朝の電車はいつも混んでいて、大人たちの無表情な顔に囲まれるのが少し苦手だ。

 それでも、スマホで音楽を聴きながら窓の外を眺めていれば、なんとかやり過ごせる。

 葵にとって、通勤電車は自分の世界と大人の世界が交錯する場所だ。

 大人たちは決まった時間に決まった場所へ向かい、決まった顔でそこにいる。

 時々、電車の中で見かけるスーツ姿のおじさんたちが、まるでロボットみたいだと思うことがある。


 その朝、彩花はいつものようにイヤホンで音楽を聴きながら、スマホでSNSをチェックしていた。

 電車が揺れて、少しバランスを崩した瞬間、誰かの手にぶつかった。カツンと音がして、スマホが床に落ちる。

慌てて拾おうとしゃがむと、向かいのスーツ姿の男性もスマホを拾っている。

見覚えのある顔だ。この電車で何度も見かける、40代くらいのおじさん。

 いつもスーツにネクタイ、髪は少し白髪が混じっている。

 別に悪い人ではなさそうだけど、彩花は少し緊張した。


「すみませんでした」


 そう男性が先に言った。声は落ち着いていて、どこか疲れたような響きがあった。

 彩花も「いえ、こちらこそ…ごめんなさい」と返すのが精一杯。

 スマホに傷がないことを確認し、軽く会釈して顔を上げないようにした。

 男性もそれ以上何も言わず、すぐにスマホの画面に戻った。彩花はイヤホンを耳に戻し、音楽を再生したが、なぜか心臓が少しドキドキしている。

 別に大したことじゃないのに、なんだか気まずい。電車が目的の駅に着き、彩花はいつもより少し早足で降りた。

 学校までの道を歩きながら、彩花はさっきの出来事を思い返した。


「あのスーツのおじさん、いつもいるけど、名前も知らないな」


 そう当たり前の事を、ふと思う。

 電車の中では、誰もがただの「乗客」でしかない。でも、今日の小さな出来事は、彩花にとってちょっとした波紋だった。

 駅から学校までバスに乗る。気分によっては歩く事もある。バス停で友人と合流し、会話しつつ学校に向かう。

 あのおじさんも、自分と同じように何か考えながらあの電車に乗ってるのかな。そんなことを考えながら、彩花は校門をくぐった。


 田中和彦、38歳。同じ電車に乗り、健一と同じ会社で働く後輩だ。

 健一とは部署が違い、普段はあまり話さないが、顔と名前は知っている。

 和彦は10年ほど前に結婚したが、子供はおらず、妻との関係は悪くないが平凡だ。

 毎朝、健一と同じ7時15分の電車に乗るが、いつも少し離れた場所に立つ。

 健一が窓際のつり革につかまる姿は、和彦にとって通勤風景の一部だ。課長の佐藤さんは、いつも落ち着いていて、どこか遠い目をしている。

 和彦はそんな健一を、ちょっとした憧れと、ちょっとした距離感を持って見ている。


 その朝、和彦はいつものように電車の隅で新聞アプリを読みながら時間を潰していた。

 ふと目を上げると、健一が女子高生とスマホをぶつけて落とす場面に出くわした。

 カツンと音がして、二人が慌てて拾う様子を、和彦は少し離れた場所から見ていた。

 健一は落ち着いた様子で謝り、女子高生も小さな声で何か言って、すぐに別れた。

 和彦は「ふぁ、佐藤さん、ちょっと焦ってた?」と心の中で小さく笑った。

 普段はクールな課長が、こんな小さなミスで少しバツが悪そうな顔をするなんて、ちょっと新鮮だ。


 和彦は、健一が女子高生の背中をちらっと見送る姿に気づいた。

 あの課長、普段はあんまり感情を出さないのに、今日は何か考え込んでるみたいだな。

 和彦自身、若い頃はこの電車で学生たちを見て、自分の高校時代を思い出したりしたものだ。

 今はもう、そんな感傷も薄れてきたけど、健一があの女子高生に何を思ったのか、ちょっと気になった。

 電車が会社最寄りの駅に着き、和彦は健一の少し後ろを歩きながらオフィスに向かった。健一はいつものように背筋を伸ばし、淡々と歩いている。

 和彦は「佐藤さん、なんか今日、いつもと違うな」とぼんやり考えたが、すぐに仕事のタスクに頭を切り替えた。


 小さな出来事が、健一、彩花、和彦の日常にほんの少しの波紋を広げた。

 変わらないように見える通勤電車の中で、それぞれの視点が交錯し、名も知らぬ相手との一瞬の接触が、微妙な余韻を残す。

 健一はいつものように会社に着き、彩花は教室で授業を受け、和彦はデスクで仕事を始める。

 だが、その日、電車の中の小さな出来事が、三人の心に小さな変化を刻んだ。

 それは、変わらぬ日々の中の、ささやかな一歩だった。


 数日後の朝、佐藤健一はいつもの7時15分の電車に揺られていた。窓際のつり革につかまり、スマホを片手にニュースを流し読みする。

変わらない通勤のルーティン。

 だが、この日はスマホが小さく震えた気がして、健一は一瞬手を止めた。通知のマークはない。電池の残量も問題ない。


「気のせいか」 


 そう思い画面をスクロールしようとしたそのとき、視界の端に、女子高生の姿が映った。

 先日、スマホをぶつけたあの高校生だ。ショートカットの髪、透明なスマホケース。彼女はいつものようにイヤホンを耳にし、窓の方を向いている。

 だが、健一の目は彼女のすぐそばに立つ男性に留まった。

 30代後半くらい、グレーのスーツを着た男。距離が妙に近い。彼女の肩に触れそうなほどで、電車の揺れにしては不自然だ。

 健一の胸に、かすかな違和感が広がる。女子高生は気づいていないのか、スマホに視線を落としたまま動かない。

 男の目は、彼女の背中に注がれているように見えた。

 健一は一瞬迷った。余計なことをして騒ぎになるのは避けたい。だが、放っておくのも何か違う気がする。

 深呼吸して、できるだけ自然に動いた。

つり革を離し、彼女と男の間にさりげなく体を滑り込ませる。新聞アプリを開いたスマホを手に持ったまま、まるで次の駅で降りる準備をするかのように立ち位置を調整した。

 男の視線が一瞬、健一の方に動いた。健一はあえて目を合わせず、平静を装って窓の外を見やる。

 電車が次の駅に着くと、男は小さく舌打ちしたように見えたが、何も言わずドアの方へ歩いていった。

 降りていく背中を見ながら、健一はほっと息をついた。

 女子高生はイヤホンを外し、ちらっと健一の方を見たが、すぐに視線を戻してスマホに集中した。

 健一は何も言わず、彼女に声をかけなかった。騒ぎにならずに済んだ。それで十分だ。

 いつもの駅に着き、健一は電車を降りた。オフィスに向かう道すがら、朝の冷たい空気を吸いながら、健一は思う。「あの子の名前、知らないな」と。

 別に知る必要もない。ただ、毎朝の電車で見かける顔の一つ。

 それでも、今日の小さな行動が、彼女の日常に少しでも安心をもたらしたなら、それでいい。健一はネクタイを軽く直し、いつものペースで歩き出した。


 葵は、いつものようにいつもの電車で学校に向かっていた。

 イヤホンから流れる音楽が、朝の混雑を少しだけ和らげてくれる。

 スマホで友達のメッセージをチェックしながら、窓の外の景色をぼんやり眺める。

 数日前、スマホをぶつけてしまったスーツのおじさんのことを、ふと思い出した。

 あのときは気まずかったけど、別に大したことじゃなかった。

 今日もそのおじさんが、いつもの場所でつり革につかまっているのが見えた。

 顔を覚えているだけで、名前も何も知らない。電車の中の「いつもの人」だ。

 そのとき、葵は隣に立つ人の気配をなんとなく感じた。

 少し近いな、と思ったが、混雑している電車ではよくあることだ。

 気にせず音楽に集中してた時、誰かが自分の前に滑り込んできた。

 見上げると、あのスーツのおじさんだった。つり革を離して、葵のすぐ前に立っている。

 別に何も言わないし、スマホを見ているだけ。でも、さっきの気配がなくなったことに気づいた。さっきまで近くにいた人は、いつの間にか離れていた。

 電車が駅に着き、葵はイヤホンを外して周りを見た。スーツのおじさんは、いつも通りの落ち着いた顔で立っている。

 さっきの人は、もう見えない。葵の胸に、かすかな安心感が広がった。

 もしかして、あのおじさんが何かしてくれた?

 でも、確かめる術もないし、聞くのも変な気がする。

 葵は小さく息をつき、スマホをポケットにしまった。学校までの道を歩きながら、葵は考える。「あのスーツのおじさん、なんか…いい人なのかも」と。


 別に話したわけじゃないけど、今日の電車はいつもより少し安心できた気がした。

 校門をくぐりながら、彩花はイヤホンを耳に戻し、いつもの日常に戻っていった。


 田中和彦は、健一と同じ電車に乗り、いつものように少し離れた場所で新聞アプリを眺めていた。

 朝の電車はいつもだいたい同じ顔ぶれで、佐藤課長の姿もその一部だ。

 和彦は健一を、落ち着いた上司として尊敬しつつ、どこか近寄りがたい存在だと思っている。

 数日前、健一が女子高生とスマホをぶつけた場面を思い出し、和彦は小さく笑った。

 あのクールな課長が、ちょっと慌てた顔をするなんて、珍しい。

 この朝、和彦はふと目を上げ、健一が動くのを見た。

いつも窓際のつり革につかまっているのに、今日は女子高生のそばに移動した。

 和彦の視線は、健一の近くにいた男に気づいた。見かけない顔だ。

 妙に女子高生に近い位置に立つ、怪しげな雰囲気。和彦は「うわ、ヤバい奴?」と一瞬思ったが、健一がさりげなくその間に割って入るのを見た。

 動きは自然で、まるで偶然そこに立っただけのように見える。

 だが、和彦には分かった。佐藤課長、絶対わざとだ。

 男は次の駅で降りていった。健一は特に何も言わず、いつもの落ち着いた顔でスマホを見ている。

 女子高生も気づいていない様子で、イヤホンを耳に戻した。

 和彦は「佐藤さん、かっこいいことするじゃん」と心の中で呟いた。

 普段は感情をあまり出さない課長が、こんな風に動くなんて、ちょっと意外だ。

 和彦は健一の背中を見ながら、なんとなく彼を少し身近に感じた。

 会社最寄りの駅で電車を降り、和彦は健一の少し後ろを歩いた。健一はいつも通り背筋を伸ばし、淡々と歩いている。

 和彦は「佐藤さん、今日のあれ、誰にも言わないんだろうな」と考える。

 自分も何も言わないでおこう。

 こんな小さな出来事が、変わらない通勤風景にちょっとしたスパイスを加えた。

 和彦はスマホをポケットにしまい、いつものオフィスに向かった。


 数日前の小さな接触から、健一、彩花、和彦の日常にまた新たな波紋が広がった。

名も知らぬ乗客同士の、言葉のないやり取り。

 健一のささやかな行動は、彩花に安心を、和彦に小さな驚きをもたらした。

電車はいつも通り走り、三人はそれぞれの目的地へ向かう。変わらない日々の中で、こんな小さな出来事が、誰かの心にそっと刻まれる。

 それが、この通勤電車の小さな物語だった。

最後までありがとうございました。

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