くるくると回る、くるくると
冷たい石畳を裸足で駆けていた。足の裏はもう感覚がない。石は凍るように冷たく、きんきんとした、もはや痛みが脳天まで突き抜ける。私は息を荒げ、暗い石の廊下を進む。
ここがどこなのか、私は知らない。ただ目覚めたとき、漠然と逃げなくてはと直感した。だから駆け出した。それだけだ。
私が目覚めた部屋は暗く打ち沈んだ空気で、天蓋付きのベッドと、煤けた天井、閉ざされた古いぼろぼろのカーテン、そして分厚い両開きの扉があった。豪奢で古びた、何百年もの時を経た部屋だった。シャンデリアのクリスタルは割れ、窓の桟には埃が積もっていた。
夜が更けるまでベッドの上でじっとしていた。あまりに怖くて、けれど心臓が脈打ってたまらなかった。逃げなくては逃げなくては逃げなくては。そして震える足を一歩、絨毯の上に下ろした、その瞬間。首筋にぬるりとした吐息を感じて悲鳴を上げた。窓は開かなかった。扉も鍵がかかっている。部屋には誰もいなかったはずなのに、私は明確にそれを感じたのだ。何かがいた。いや、何かが、いる。
私は扉に飛びついて、蝶番をがちゃがちゃやり、とうとう傍らの花瓶で錠を叩き壊し、逃げ出した。廊下には絨毯なんて気の利いたものはなく、裸足の足音はぺたぺた間抜けに響いた。
私は知っている。朝日はこの城には昇らない。ここは人間の世界じゃない。明るく暖かな昼間の世界から断絶された夜の国。私は攫われた。攫われたのだ。
石の廊下を走り、走り、目についた扉を片っ端から開けてみた。使用人が控える小部屋、画廊、図書室、朝食室(朝食ですって?)、狩猟の獲物の剥製を飾った(イヤッ)談話室、家族のくつろぎのための大部屋。すべての部屋は整えられていたが埃まみれで汚かった。まるで住人や使用人がちょっと席を外しているうちに百年が経ってしまったような城。ひび割れた漆喰の壁にかかる絵画の人物たちが、こちらを見つめている気がした。青白い亡霊のような、落ちくぼんだ目の人々。
ヴァンパイア……。
どうして私なの? じわり、涙が滲む。もっと美しい、私より狙われるべき娘が他にいたはずだ。どうして私? マーガレットでもシャーロットでもなく、この痩せっぽちでどんくさいフロリカなの。
花嫁に選ばれるべきはすでに太陽に選ばれた娘だ。少なくとも金髪の娘がそうであるべきだ。私のようなブルネットではなく。
??カツン、カツン。
靴音が響く。耳を打つ。怖さのあまりひっくと喉が鳴る。とても規則的で軽やかだが、軽快さというものとはまた違う。まるで床を滑るように、確固たる意志を持って歩く足音。音が響いてくる方角とは逆の通路へ、私は走った。だが、どこへ逃げてもこの城は終わらない。
壁は石。天井は高く、木の梁が走っている。走っても走っても、古ぼけた石の廊下は終わらない。シャンデリアはやっぱり壊れていて、風もないのにゆらゆらと揺れている。通り過ぎる肖像画の数々はみな、異様に白い肌をしていた。どの顔も似ている。まるで一族だ。……そうだ、この城はある一族の持ち物なのだ。そしておそらく、私も持ち物の中の一つだとすでにみなされている。
ふと、開いた扉が目に入った。息を切らしながら中に滑り込む。図書室だった。さっき見たのとは別の部屋だ。高い書棚が並び、本の匂いと埃が鼻を突く。天井まで届く滑車付きの階段、書机に積まれっぱなしのまま朽ちていく運命の本。ここもまた、死者の世界だった。どの本のタイトルも読めない。剥奪され、剥離して、文字を失っている。
私は部屋の奥へ逃げだ。音を立てないように歩いて。足の感覚はもうなかった。全身に血が通っている感じがしない。小さなソファを見つけ、背もたれの裏に身を縮めた。心臓の音がうるさい。ざあざあ耳鳴りがして、この音に気づかれたら追いつかれるのではないか――そう思うだけで、失神しそうだ。彼はすぐにやってくる。??そうだ、“彼”。顔ははっきり思い出せない。ただあの瞳だけが、焼きついていた。燃えるような赤。そして冷たい。絶対的な捕食者の目。
「……ここだろう、姫君」
声がした。私は息を止めた。扉が軋む音。入ってきたのだ。あの男が。
「美しい花。夜の一族に加えてあげようというのだよ。何を恐れることがある?」
足音が本の間を縫うように近づいてくる。私は身体を強ばらせた。祈るように、ただこの瞬間が過ぎ去るのを願った。
「君の血は、きっと香り高い。古い血筋の味がする」
その落ち着いた声音で、彼が私のことを知っているのがわかった。名前も家柄も。王宮での生活も、幼いころに失った母のことさえも。だから彼は私を攫ったのだろう。私は血を、血統を、彼にとっての“宴”の中心にある器として選ばれた。
やがて足音が止んだ。沈黙。私は自分が震えているのを知る。いつの間にか唇がひび割れていた。舌先でそれをなぞる。血の味。いやだ、彼に嗅ぎ取られる。(イヤッ)。私は――獲物になりたくなんてない。そんな役目は、もっと美しい少女たちがやればいい。私は、私はただ、生きたい。(イヤッ)。昼の光の下で。(イヤッ)。
ねぇ、お父様、お母様。ああ、あんたたちが代わってくださればいいのに!
「忘れてしまったのかい?」
その声は――切なそうだった。
「十八歳になった夜に迎えにいくよと、約束したのに。俺は約束を守ったのに、君は忘れてしまったのか……」
ふいに、よみがえる記憶??お城の記憶が、私の息を詰まらせる。ここじゃない。断じてこんな不気味な城ではなかったけれど、同じくらい古くて、ひと気がなくて、ひっそりしていた城。
あのとき私は五つ。『君は特別だ』と、言われた。『俺の孤独を埋めてくれるかもしれない女の子。夜にふさわしい、美しい花嫁になれる』って。
ああ……。理解が、頭の中に広がる。私は音を立てないように両手で顔を覆う。いつもつけているシルクのレース手袋がないだけで、私の手はこんなにも冷たい。でも、私は――彼の花嫁になんてなりたくない。
困ったことに私はもう五つではない。母を亡くして泣いていた頃の私はもういない。ヴァンパイアに憧れる年齢はもう過ぎた。血は……血は嫌い。噛まれるなんて、怖い。死ぬのも、生きてるまま吸われるのも、もっと怖い。もう二度と太陽を拝めなくなるなんていや。私はもう絶望していた子供じゃない。私は、立ち向かうことを決めた十八歳だ。
「姫君、かくれんぼは終わりにしようか」
声がした。あの人の声。静かに低く、こちらを怯えさせないよう穏やかだ。でも冷たい。
「一度約束したものを、勝手になかったことにしてはいけないよ。あのとき君は頷いた。了承したのだから。君こそがこの夜の城にふさわしい。俺に似合う花嫁だ」
……私は似合いたくない。夜も闇も血も、お父様を後悔させてやるための魔術も、お母様とマーガレットを噛んで殺してやれる牙も、いらない。
足音が近づく。私はますます縮こまったが、彼は的確に私の居場所を悟っていた。
私の目の前で、足音は止まった。ヴァンパイアはゆっくり回り込んで、膝を抱えた私を見つけた。
「さあ、冷えてしまうよ。生きる者にとってこの城は冷たいだろう」
「……私を家に帰して」
「なんだって?」
「もう知らないの。古い盟約も、約束も。もう忘れた、忘れていたの。今更あなたに助けにきてもらわなくても、私はやっていける」
言葉は一度溢れ出すと止まらなかった。感情のままに、自分の中から沸いてくる言葉の濁流に押し流される。
「結婚するの。もう婚約したの」
「何?」
ぞっとするような冷たい声音。
「俺を裏切ったのか?」
「違う、裏切ったんじゃない。ただ――もう約束は必要ないから、忘れたの。その程度のことだったのよ!」
私は叫んで、立ち上がった。
「本当に私のこと愛してて、必要としてくれていたなら、どうして五つのときに攫ってくれなかったのよ! もう遅い、遅いのよ。私は自分の足で立つすべを模索して、身に着けてしまった。結婚するの。王子様じゃなくて公爵様の息子とだけど、あなた以外の人を見つけたのよ。彼と二人、愛がなくても息を合わせてやっていけそうだと思ったの。そう、そうよ――愛なんて……」
彼には顔がなかった。身体もなかった。漆黒の闇、だった。彼は闇そのもので、このお城そのものなのだ。
「あなたの愛なんて、いらない! 私は人間として、人間の間でやっていくと決めたの!」
そして大きな牙が、それがずらりと並ぶ口が、近づいてきて、近づいてきて――。
私は悲鳴を上げる。目を瞑り、痛みに備える。脳裏に浮かんだのは目の前のヴァンパイアではなく婚約者で、(イヤッ)、助けてと思った感情が向いていたのは五つのときに出会った彼だった。
そして高い天蓋を見つめながら目を覚ました。横を向くと開いたカーテンの間から、壁にかかる大きな絵が見えた。何枚も何枚も。知らない人たちの、白い、茫漠と呆然とした不健康なうつろな目つきの顔。全部、真っ白で、目が赤くて……無感動に、笑いも泣きも表情というものが一切なく、目覚めた私をじっと見てた。
窓に飛びついてカーテンを開けても、外は真っ黒だった。月も見えない。窓は開かない。桟に積もった埃が落ちてきて、咳き込む。なんてひどいところ。扉は、鍵がかかってる。私は、閉じ込められてる。誰かの泣き声が聞こえる。泣かないで、と思う。なんで? わからない。ただ彼には――“彼”には、泣いてほしくない。
時間がたっても朝はやってこなかった。空が明るくならない。星もなければ月もない。私は悲鳴を上げたが、古い広大な寂れたお城はしんと沈黙を返すばかり。
私は廊下にまろび出る。蝶番を壊したときに怪我をして、血がポタポタ石の廊下に垂れ落ちる。城が目覚めた、そんな感じがする。私の血の匂いがそうしてしまった。でも、怖くて怖くて、そんな事実を直視する余裕もない。
私は走る。ヒタヒタと、足音が私を追ってくる。泣いているのか呻いているのか、低い途切れ途切れの声も一緒に。
廊下は長く、永遠に思えるほど続いている。私はブルネットを振り乱し、走る。走る。
いつかどこかで出会う扉か窓の向こうから、陽の光が差し込んでいることを信じて。
【完】