妹に婚約者を奪われた地味な令嬢ですが、真に想ってくれる方と幸せになります!
春の陽差しが庭をやわらかく照らす中、クラウエアは薔薇の手入れに勤しんでいた。
枝を一本ずつ整えていると、隣の花壇から明るい笑い声が聞こえてくる。
妹のセシリアが庭師たちに囲まれ、楽しそうに談笑していた。
「セシリア様がいらっしゃると、花々が引き立て役に見えますね」
若い庭師の褒め言葉に、セシリアは扇子で頬を隠して微笑む。
陽光に照らされた銀髪と赤みがかった頬。それはまるで花壇の中に咲く、一輪の薔薇のようだった。
「……はあ」
クラウエアの剪定鋏を握る手がわずかに震える。
クラウエアとセシリアは、同じ両親のもとに生まれながらも、まるで正反対の姉妹だった。華やかな美貌を持つセシリアに比べ、クラウエアは目立たない地味な容姿。幼い頃から人々の視線はいつも妹にばかり向けられていた。
クラウエアは手を止め、薔薇の中に咲く見慣れない花に目を留めた。
色も形もどこかちぐはぐで、そこだけ調和を乱しているようだった。
「同じ土に植えられても、咲く花は違うのね」
クラウエアはセシリアと常に比較されて育ってきた。
特に幼少の頃に培った劣等感は、心に深く積み重なっていた。
それでも、クラウエアは自分のことを認めたいと思った。
せめて、誰かに笑われないように。せめて、自分を嫌いにならないように。
だから、できることを一つずつ増やしてきた。
母が寝静まった夜更けには、書斎で帳簿と向き合うこともあった。
昼間は使用人たちの動きを観察し、さりげなく声をかけ、ときには一緒に手を動かしたりもした。
裁縫、刺繍、礼儀作法。言葉遣い、料理……。
今では、多くのことが自然に身についた。
しかし鏡に映る自分の顔は、変わらなかった。
どれだけ努力を重ねても、妹への劣等感が消えない──。
クラウエアが十九歳になってから半年が過ぎた頃のことだった。
朝の食卓で、父がふいに口を開いた。
「クラウエアに縁談がきた」
その言葉と同時に、食堂の空気がぴたりと静まり返った。
クラウエアの指がわずかに震え、カトラリーがスープ皿に触れて小さな音を立てた。
「お相手は?」
母が尋ねた。
「アストリア伯爵家の嫡男、フィリップという青年だ」
父は満足そうに頷く。
「将来は伯爵家を継ぐ有望株だ。──先方のご両親が、クラウエアのことを高く評価しておられてな」
クラウエアは驚いたように父を見つめる。
母も軽く目を見開き、黙って耳を傾けていた。
「刺繍や家政の心得だけでなく、領地経営に関する素養や、日頃の立ち居振る舞いが“未来の伯爵夫人にふさわしい”と。先日寄進した教会の装飾布も、クラウエアの作だと聞いて感心されたそうだ」
クラウエアの心臓が、高鳴るのを抑えきれなかった。
フィリップ・アストリア。社交界でも評判の美男子で、多くの令嬢たちの憧れの的だ。
ひとつひとつ積み重ねてきたものが、誰かの目に届いていた。そう思うと、胸の奥がほんのりと温かくなっていく。
「まあ、フィリップ様ですかっ? 昨年の舞踏会でお見かけしましたわ。とても素敵な方でした。お姉様、羨ましいです!」
セシリアの声が弾み、無邪気な笑顔が浮かぶ。
だがその笑顔には、どこか作りものめいた影が差していた。
スープの湯気がふわりと立ちのぼる中で、クラウエアはそっと胸に手を当てる。
──本当に私で良いのかしら。
選ばれた喜びと、にわかに信じきれない不安が、胸の奥で静かに入り混じっていた。
翌週、両家の顔合わせが行われた。
フィリップは、まるで肖像画から抜け出してきたかのような青年だった。端整な顔立ちに、静かな眼差し。言葉遣いも丁寧で、所作に隙がない。
誰もが羨むような相手。しかしクラウエアの心は不思議と波立たなかった。
「クラウエア様は、どのようなことがお得意でいらっしゃいますか?」
「刺繍や、領地の帳簿の扱いについて少々……あとは、家政や教育についても学んでおります」
「素晴らしいですね。まさに、理想の家庭を築けそうだ」
丁寧な口ぶりではあったが、その言葉に、熱や個人的な関心は感じられなかった。ただ模範解答をなぞるような、乾いた響き。
クラウエアは胸の奥がひやりと冷えるのを感じた。
きっとフィリップは、クラウエアのことを何も知らない。そう思わせるほどに、彼の視線には興味の色がなかった。家同士の打診で進んだ縁談なのだと、改めて実感する。
二十分ほど経った頃だった。セシリアが柔らかい笑顔と共に、切り出した。
「ピアノを弾いてもよろしいですか? この部屋、とても音の響きがよさそうで」
フィリップはわずかに頬を緩めた。
「それはぜひ」
セシリアはすっと立ち上がり、優雅に楽器の前へ向かう。
指先が鍵盤を滑るたび、流れ出す音が部屋の空気をやわらかく塗り替えていく。
その光景に、フィリップの視線が自然と吸い寄せられていくのを、クラウエアは見逃さなかった。
「素晴らしい演奏でした、セシリア様。音色だけでなく、お姿までもが調和していて……思わず魅入ってしまいました」
声色が変わった。言葉に、熱と憧れの色が混じっていた。
クラウエアは膝の上で、そっとスカートの生地を摘んだ。爪が沈むほど、強く。
自分の存在がこの場から、少しずつ薄れていく気がした。
クラウエアがフィリップとの顔合わせを終えてから、二ヶ月が経とうとしていた。
日を重ねるごとに、屋敷の空気が少しずつ変わっていくのを、クラウエアは肌で感じていた。
セシリアは「偶然」と言いながら何度もフィリップと顔を合わせ、いつしか彼の話題を口にすることが日常になっていた。
「フィリップ様って、穏やかな方に見えるけれど、馬術が得意なんですって。素敵よね」
ある午後、刺繍をしていたクラウエアの隣に、セシリアがふわりと腰を下ろした。
「そう……初耳だわ」
手元から目を離さずに返すと、セシリアはくすっと笑った。
「お姉様って、真面目なお話しかしないんでしょう? 領地のこととか、税制とか。だから、フィリップ様も緊張なさってるんじゃないかしら」
「そう、なのかしら……」
「たまには、もっと気楽にお話ししてもいいと思うの。フィリップ様はそういう方がお好きだと思うわ」
その声音は穏やかで、表情も柔らかかった。
けれどその裏にある“意図”は、言葉よりもずっとはっきりと伝わってきた。
それから数日が経ったある日の晩、父が静かに切り出した。
「アストリア家から、縁談を白紙に戻したいとの申し出があった」
クラウエアの手が、膝の上で強張った。
「……どうして、ですか?」
「アストリア家から、フィリップがセシリアを望んでいると伝えられた。両家で話し合いを重ねたが、本人の意志が強くてな……無理に進めることはできないとのことだ」
セシリアがクラウエアに向けて深々と頭を下げてくる。
「お姉様……本当に、ごめんなさい。こんなつもりじゃなかったの。でも、どうしてもって……フィリップ様が……」
伏せた瞳、震える声。まるで罪を背負った少女のように見える。
けれどクラウエアは、その目が一瞬煌めいたのを見逃さなかった。
──……結局、こういう役回りなのよね、私は。
「あなたが悪いわけじゃないわ。おめでとう、セシリア」
「……ありがとう。お姉様」
それは祝福という名を借りた、静かな幕引きだった。
窓の外では、雨の音が静かに響き始めていた。
それから三週間が過ぎた頃だった。
塞ぎ込んでいたクラウエアのもとに、思いがけない知らせが届いた。
「お嬢様、ミルフォード男爵家のヴィルヘルム様から、お手紙が届いております」
執事から手紙を受け取る。
ヴィルヘルム・ミルフォード。男爵家の次男で、慈善活動に熱心。人望の厚い人物だと聞いたことがある。
けれど、なぜ自分に──?
中身を確認する。丁寧な筆跡を目で追ううちに、自然と頬に熱を帯びていった。
〈突然のお手紙を失礼いたします。
昨年の慈善事業で、孤児院の子どもたちに読み聞かせをなさっていたあなたのお姿が、今も心に残っています。
あのときの穏やかな声と、静かな笑顔。
私は、そのひたむきさに強く惹かれました。
もしご迷惑でなければ、一度だけ、お話しできる機会をいただけないでしょうか〉
クラウエアは読み終えた手紙をそっと胸元に置き、窓の外を見やった。
数日後、庭園の東屋でふたりは顔を合わせた。
緊張で背筋を強張らせるクラウエアを前に、ヴィルヘルムは穏やかな笑みを浮かべ、丁寧に頭を下げた。
「お会いできて光栄です。クラウエア様」
「わ、私もお会いできて嬉しいです」
彼はフィリップのように華やかではなかったが、茶色の瞳はどこまでもまっすぐで、温かみがあった。
「こうしてきちんとお話しするのは初めてですね。……でも、ずっとクラウエア様のことが気になっていたんです」
少し視線を伏せながら、慎重に言葉を選ぶ。
「去年の慈善活動で、ご一緒したとき……いえ、正確には、そのときお姿を拝見しただけなのですが。なんと申しますか……とても印象に残って、ずっと心に引っかかっていました」
クラウエアは黙って耳を傾けた。
「何度か手紙を書こうとしては、やめて……。そんなことをしているうちに、伯爵家とのご縁談のお話を聞いて、もう自分の出る幕はないと思いました」
彼は少し笑みを崩し、続ける。
「ですが……最近、そのお話が白紙になったと知りまして。こんなときに動き出すのは、図々しいかもしれませんが──思いだけで終わらせたくはありませんでした」
ヴィルヘルムは一度息を吸い、小さく笑う。
「……思っているだけでは、何も始まりませんからね」
少しだけ早口になる。
「だから、今こうしてお話しできる機会をいただけたこと、本当にありがたく思っています」
言葉の端々に、抑えきれない焦りと、迷いながらも進もうとする意志がにじんでいた。
「クラウエア様。あなたとなら、きっと誠実な人生を歩んでいけると、そう思っています。……よろしければ、これからもお話しする時間をいただけませんか?」
こんなふうにまっすぐ言葉を向けられたのは、いつ以来だっただろうか。
心の奥に、小さな火が灯るような気がした。
その夜。
クラウエアは机の前に座ったまま、まだ開いていない帳簿を見つめていた。
──私自身を、ちゃんと見てくれた人がいた。
まぶたを閉じる。浮かんでくるのは、控えめで誠実な声と、まっすぐな眼差し。
心のどこかで、何かがそっと芽吹き始めていた。
あの日以来、何度かの手紙のやり取りを経て、ヴィルヘルムとの対話を重ねていった。
丁寧に、慎重に、でも着実に──二人の関係は、ゆっくりと育っていった。
クラウエアとヴィルヘルムの結婚式は、かつての妹の華やかな婚礼に比べれば、質素なものだった。
けれど、集まった人々の祝福はあたたかく、式場の空気には真心が満ちていた。
レースのカーテンが揺れる、春の光の中。
ヴィルヘルムは静かに、けれど力強く言葉を紡ぐ。
「クラウエア。あなたの優しさと、積み重ねてこられた日々に私は心を奪われました。これから先、あなたと共に人生を歩ませてください」
誓いの言葉に、拍手が湧いた。
クラウエアは深く頷きながら、ふと、過去の自分が遠く感じられた。
結婚生活は、思い描いていたよりも穏やかで、満ち足りたものだった。
ヴィルヘルムはいつも言葉より行動で支えてくれる人だった。
朝、温かい紅茶を淹れてくれたこと。
昼、羽織をそっと掛けてくれたこと。
夜、疲れたクラウエアの手を優しく包んだこと。
そうした日々の中の出来事が、彼女の心はゆっくりと解れていった。
義父母はクラウエアを実の娘のように温かく迎えてくれ、使用人たちも彼女を心から慕った。
「奥様のおかげで、屋敷が穏やかになりました」
女中頭のソワールが微笑む。
「ありがとう。でも、私だけの力ではありません。皆さんが支えてくださるからです」
そう言ってクラウエアが微笑むと、ソワールは少しだけ目を潤ませた。
結婚から二年後、クラウエアは第一子となる男の子を出産した。
小さな命の重みが、曖昧だった自分の輪郭を、はっきりと描き出してくれた。
「君に似て、きっと優しい子になる」
ヴィルヘルムが小さく呟く。
「あなたに似て、きっと立派な紳士に育ちますね」
クラウエアは微笑み返しながら、息子の頬にそっと唇を寄せた。
この子の存在が、確かに自分の一部になった気がした。
かつて、妹の隣で名もなき草のように咲いていたクラウエア。
けれど今は、自分の手で耕した場所に、しっかりと根を張っている。
足元に広がる庭は、確かに、自分が育ててきた日々の証だった。
そしてクラウエアの刺繍は今、近隣で評判になっていた。
美しさだけでなく、日々の暮らしに寄り添う実用性も兼ね備えていたその作品は、多くの人々の手に渡り、長く大切にされた。
「クラウエア様の刺繍には、心が宿っているようですわ。眺めているだけで、心があたたかくなるんです」
そんな賛辞を受けるたびに、クラウエアの胸の奥で長く強張っていたものがじんわりと溶けていく。
クラウエアが続けてきた努力は確かに今、誰かの役に立っている。
そう実感できる日が、ようやく訪れたのだった──。
一方、セシリアの結婚生活は、当初の華やかさとは裏腹に、徐々に綻びを見せ始めていた。
フィリップは最初こそセシリアの美貌に夢中だったが、次第にその美しさにも慣れてしまったようだった。
「また外出?」
「仕事の付き合いだ」
セシリアの問いかけに、フィリップは素っ気なく答える。
使用人たちの噂では、フィリップには愛人がいるとのことだった。
セシリアの美貌も、毎日見ていれば当たり前のものになってしまう。新鮮味を求める夫の心は、他の女性に向かってしまったのだ。
さらに深刻だったのは、家政の問題だった。セシリアは美しく着飾ることには長けていたが、家計の管理や使用人の統制については全く無知だった。
「奥様、今月の支出が収入を大幅に上回っております」
「どうして? 普通に生活しているだけなのに」
「ドレス代と装身具代が……」
セシリアは理解できなかった。美しくあることが女性の務めだと信じていたからだ。しかし、家計は次第に悪化し、使用人たちの給料さえ遅れがちになった。
そんな状況でも、セシリアは自分の美しさを疑わなかった。
問題があるとすれば、冷たくなった夫と、周囲の見る目のほうだと思っていた。
けれど、思い通りにいかない日々が続くうちに、じわりじわりと黒い感情を抱くようになっていく。
──それは嫉妬だった。
なぜ自分ばかりが、色あせていくのだろう。
社交界では、以前のように注目されることがなくなり。
「セシリア様も、結婚すると普通になってしまわれたのね」
そんな陰口が耳に入るたび心が蝕まれていく。
しかし、本当に耐えがたかったのは、かつて自分の影にいた姉の存在だった。
数日前、街の慈善事業の会場で、クラウエアとその夫ヴィルヘルム、そして小さな男の子が三人で歩く姿を見かけた。
地味で目立たなかったはずの姉が、夫と見つめ合い、息子の手を優しく引いている──その光景は、セシリアにはあまりに眩しかった。
「どうしてお姉様は幸せそうなのよ……」
自分でも驚くほど激しい嫉妬心が燃え上がっていた。
自分と姉の違いは何か──そう問い続けた末に、セシリアが行き着いた答えはただ一つだった。
──夫が、違ったのだ。
数日後、セシリアは体調不良を装い、ヴィルヘルムの屋敷を訪れた。
「突然申し訳ありません。近くまで来たもので……」
扇子で口元を隠しながら、艶めかしく微笑む。その仕草は、かつてフィリップを惹きつけたときと同じだった。
「どうも。あ、でもクラウエアは不在ですよ。ついさっき出たところなのでしばらくは戻ってこないかと」
「まあ、そうでしたか」
セシリアは残念そうに目を伏せながら、一歩距離を縮めた。
「実は、少し気分が優れませんで……ほんの少し、話し相手になっていただけませんか?」
控えめな口調とは裏腹に、その上目遣いには、明らかな“意図”が滲んでいた。
「話し相手?」
「ええ。お恥ずかしい話、フィリップとうまくいっておりませんの。私に興味を持ってくれなくて……いつも仕事ばかりで、落ち着いて話す時間すらないのです」
声はかすかに震え涙すらにじんでいた。だが視線は一度も逸れることなく、まっすぐにヴィルヘルムを捉えている。
「でも、あなたなら……わかってくださると思って」
さらに一歩近づき、指先がそっとヴィルヘルムの袖に触れた。
ヴィルヘルムはわずかに眉をひそめる。その場で静かに一歩、後ろへ下がった。
「セシリア様」
その声は丁寧ながらも、はっきりとした拒絶の意志を含んでいた。
「私はフィリップ様の代わりになることはできません」
「代わりになってほしいわけではありません。私はあなたに惹かれてしまったの。優しくて、誠実で、クラウエアを大切にしているあなたの姿が、まぶしくて……」
「それは錯覚です」
ヴィルヘルムの声音は静かだったが、語尾には揺るぎのない硬さがあった。
「それに私は、クラウエアを心から敬愛し、信頼しています。誰かに言い寄られた程度で揺らぐような想いではありません」
セシリアの顔色がみるみる青ざめていく。
「……“誰か”って、私のこと?」
「ええ、あなたです」
「この私が──心を込めて伝えているのに……?」
目の奥に怒りと困惑が滲む。だがヴィルヘルムは静かに頷いた。
「どうして……どうして、お姉様ばかりが大切にされるの?」
セシリアの声は震えていた。けれどその問いに返答はない。
沈黙だけが場を支配する。
ヴィルヘルムは一瞬だけ視線を伏せ、そして何も言わずに深く一礼すると、背を向けた。
扉が静かに閉まる音が、セシリアの胸の奥に重く響いた。
ヴィルヘルムに拒絶されたあの日から、セシリアの時間はどこか歪んで感じられるようになっていた。
鏡の前に立っても、自分の顔が他人のもののように思えた。
艶やかな銀髪も、紅を引いた唇も、すべてが虚ろで、仮面のようだった。
暗い寝室の中でただ天井を見つめ、何かを考えているようで、何も考えていない時間が続く。
ひとりきりの食卓、使いかけの香水瓶、誰のものか分からない髪の香りが染み付いた夫の上着。
どれも、セシリアの心をじわじわと締めつけた。
昼間は変わらぬ笑顔を保とうと努めたが、ふとした瞬間に声が上ずったり、笑顔が引きつったりすることが増えていった。
そして、使用人や客人たちのほんの小さな仕草や視線に、敏感になっていく自分に気づいた。
自分が変わってしまったのか。
それとも、周囲が変わったのか。
──その境目すら曖昧だった。
けれど確かに、日常の空気は少しずつ変わっていった。
最初に変化が現れたのは、社交界だった。
かつて彼女のもとに群がっていた紳士たちは、舞踏会の場でも、儀礼的な挨拶だけを交わして足早に立ち去っていく。
「あの美しかったセシリア様も、結婚してからすっかりだな」
「夫婦仲もよくないようだ」
そんな囁きが、羽虫のように周囲で舞い、セシリアの耳に刺さった。
家庭内でも、崩壊の兆しは静かに進行していた。
フィリップは家に戻ることが減り、今では外泊すら当たり前になっていた。
「今夜、旦那様はお戻りになるご予定でしょうか?」
「……知らない」
セシリアのその一言に続いた沈黙が、屋敷の空気をさらに重くする。
使用人たちの態度も、目に見えて変わっていった。
かつては「美しい奥様」として敬意を払っていた彼らも、今では最低限の挨拶しか交わさず、必要以上に距離を置くようになった。
「奥様、給金の件でご相談が──」
「また後で」
「ですが、もう三ヶ月も……」
「後でと言ってるでしょう!」
声を荒らげた瞬間、相手の目に浮かんだ失望の色が、セシリアの胸を深く刺した。
それから間もなく、屋敷を去る使用人がひとり、またひとりと現れ始めた。
ある朝、目を覚ますと、昨晩までいたはずの者の部屋が、もぬけの殻になっていた。
置き手紙だけが、簡素な文面で机の上に残されている。
〈長い間お世話になりました。他家でお仕えすることとなりました〉
わずか一行の別れに、セシリアは底知れぬ不安を覚えた。
──誰からも必要とされていない。
──誰からも愛されていない。
それは、美しさひとつで生きてきた彼女にとって、存在の根幹を揺るがす感覚だった。
鏡の中には、透き通るような肌、艶やかな銀髪、完璧な微笑みが写っている。
けれどそれらは、ただそこに“ある”だけのものになっていた。
セシリアは窓辺に立ち、静かに外を眺めていた。
街のあちこちから聞こえてくる生活の気配。
どこかの家では朝食の香りが漂い、どこかでは家族の笑い声が響いているのかもしれない。
窓の外の光と音が、まるで絵の中の出来事のように思えた。
誰かと心を通わせたかった。愛されたかった。
ただそれだけのことが、こんなにも遠い。
取り残された感覚だけが、セシリアを包み込んでいた。
一方、秋が深まる頃──。
クラウエアは、穏やかで満ち足りた日々を過ごしていた。
庭では、四歳になった息子が落ち葉を両手に抱え、はしゃいでいる。
「おかあさま、これきれい」
小さな手に握られた楓の葉は、深い紅に染まっていた。
「本当ね。自然の色は、どんな染料よりも美しいわ」
クラウエアは微笑みながら、その頭をそっと撫でた。
澄んだ空気の中で笑い合うそのひとときが、何よりも愛おしかった。
午後になると、居間で刺繍に手を動かしながら、届いた手紙に返事を書いた。
慈善団体からの依頼、近隣の奥方からの相談──。
かつては誰の目にも止まらなかった自分に、今は求められる声が確かに届いている。
〈クラウエア様の刺繍のおかげで、孤児院の子どもたちがとても喜んでおります〉
〈ぜひとも、次回の慈善事業にもご協力いただければ〉
そんな言葉の一つひとつが、静かに胸を満たしていく。
夕方。
仕事から帰ったヴィルヘルムと、家族そろって夕食を囲んだ。
「今日はどんな一日だった?」
「あの子と庭で遊んで、刺繍をして、手紙を書いて……とても穏やかだったわ」
なんでもないようなやり取り。
けれど、かつては手が届かないと思っていた、ささやかな日常。
今ではそのすべてが、かけがえのない幸福として胸にしみ渡っていく。
夜。暖炉の前、クラウエアは静かに針を動かしていた。
ヴィルヘルムは隣で本を読み、息子は二人の間でうとうとしている。
静かで、温かな時間。
──自分のことを誰も見てくれなかった日々もあった。
──誰かの影に隠れて、立ち止まることしかできなかった時期も。
でも今、自分はちゃんとこの場所にいる。
誰かに必要とされ、愛され、穏やかな明日を信じていられる。
窓の外では、秋風が色づいた葉を揺らしている。
季節は移ろい、時は流れていく。
それでも、この小さな幸福が変わらず続いていきますように──。
クラウエアはそう願いながら、そっと針を休めた。
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