愛の五分間劇場「別れ話」
「今日でお別れ」シリーズとは全く関係ありません。
究極のホラーです。私の作品の中で、一番ゾッとするものだと思います。
桜の花が満開の四月初旬。風も暖かさを増して来ている。
皆が新しいスタートを切る季節。皆が希望に胸を膨らませる時である。
律子は都内の中堅建設会社のOL。今日は仕事は休み。
その上特に予定もなく、彼女は自分の部屋で机に向かって携帯を睨んでいた。
律子は同じ会社の建築設計士の平井と付き合っている。
平井は、会社の受付の葉月涼子と争った末、交際を始めた男だ。
受付嬢の中でも一際美しい涼子に勝てるなんて、律子は思っていなかったので、本当に嬉しかった。
それ以来涼子は会社に来なくなり、無断欠勤が続いている。
律子に負けたのが相当ショックだったのだろう。
様子を見に行こうかとも思ったが、それも嫌味になると考え、やめにした。
受付嬢達も同じ課の女子達も、涼子がずっと連絡を入れずに会社を休んでいる事を心配していた。
携帯に連絡しても、マンションに連絡しても電話に出ないらしい。
どこかに行ってしまっているのかとも思われたが、実家にも行っていないし、友人の所にも現れていない。
とうとう涼子の両親も心配して九州の福岡から彼女のマンションを訪れた。
しかし部屋には涼子はいず、両親は遂に警察に捜索願を出した。
さすがに律子も涼子の安否が気になった。涼子は律子にとって恋敵ではあったが、憎んでいた訳ではないから。
それ以上に気になったのは、律子が涼子と平井を争ったという事実だ。
その事を警察に知られれば、律子が疑われる事になる。それは非常に困る。
別にやましい事は何もないけれど、警察が自分のアパートを出入りするのは気分のいいものではない。
しかし、律子が平井と付き合っているのを知っているのは、涼子以外にいないはずだ。
律子もあまり公になるのは嫌だったので、誰にも話していない。
平井も誰にも話していないだろう。
では何故律子は平井と別れる事にしたのか?
それは、平井が涼子の事を忘れていないからなのだ。
彼はいなくなった涼子の心配ばかりして、律子に全く優しい言葉をかけてくれない。
「あんな冷たい奴だとは思わなかった」
涼子がそれ程好きなのなら、最初から私を選ばなければ良かったのに!
最初は涼子に同情していた律子も、平井があまりにも涼子の事ばかり気にしているので、我慢ができなくなったのだ。
「バカにされてるの、私?」
そう思うようになった。
そして遂に別れる決心をし、バッグから携帯を取り出した。
意を決して、携帯のボタンを押す。
スススッと平井の番号が表示され、通話状態になる。
「ああ、ダメ!」
キャンセルボタンを押し、切ってしまう律子。
「どうしてもダメ。言えない。言い出せない!」
律子は目に涙を浮かべ、机に顔を埋めた。
そんな事を何回か繰り返すうちに、平井の方から電話をかけて来た。
律子は画面に表示される「平井健」の文字にギョッとし、出るのを躊躇った。
着信音が部屋に鳴り響く。それでも律子は出ようとしない。
そのうちに留守番電話モードに切り替わり、平井の声が聞こえた。
「何度か着歴が入っていたので電話したんだけど。今度はわかるように携帯持ってるから、電話下さい。待ってます」
平井はいつも通りのトーンで話し、通話を切った。
しばらく、部屋を静寂が支配した。律子は息を殺して携帯を見つめる。
彼女はボタンを押そうとするが、どうしても押せない。
指が硬直したように動かないのだ。
「待ってます」
平井はそう言ってくれた。嬉しい言葉だ。でも本心なのだろうか?
「待ってます」
ずっと待たせておこうか? そう思う。
でもそれでは何も進展しない。それでは意味がないのだ。
私は彼と別れる決心をしたのだから。このままではいけないと思ったのだから。
「よし、今度は切らない」
律子は自分に言い聞かせて、ボタンを押した。
呼び出し音が鳴る。
「はい」
穏やかな声で平井が出た。律子は喋ろうとしたが、何も言い出せない。
「もしもし、もしもし!」
平井が呼びかけるが、律子は何も言わない。
そして何度か平井の呼びかけを聞き、通話を切ってしまった。
「ダメだ、私。まだ未練があるのかな……」
律子は目に涙を浮かべ、また机に顔を埋める。
彼女はしばらく声を立てずに泣いた。何故か無性に悲しかった。
「でも、こんな事を続けていれば、彼が呆れてくれるかも」
律子はそんな甘い考えをし、再び携帯を取り出す。
「よし!」
思い切って発信ボタンを押す。ワンコールで平井が出た。
(ずっと待っていたのかな?)
少しだけ嬉しくなってしまう。
(ダメダメ、そんなの! 別れるのよ、彼とは!)
律子は無言のまま通話を切った。
「これでいいのよ。これで、彼は私の事を嫌いになって、自然消滅……」
涙が溢れて来た。止まらない。止められない。
「ううう……」
携帯をベッドの上に放り出し、律子は泣いた。
(全然諦め切れてないのね、私。そんなに彼の事、好きだったの?)
自分でも今の感情が理解できない。
(自分から別れようと思っていたはずなのに、何て未練がましいのよ、私は!)
律子は自分で自分が嫌いになりそうだった。ここまで優柔不断だとは思わなかったのだ。
その時、携帯が鳴った。律子は慌てて手に取った。
平井からだ。律子は出ようとしない。
着信音が鳴り止み、留守番電話に切り替わった。
「また出てくれないんだね。かけて来ても、何も話してくれないし。どうしたんだ? 一体何があったんだ? 凄く心配だよ。君が今どうしているのか……」
白々しい。何よ、今更。ようやく決断ができそうだわ。
「このメッセージを今聞いているのなら、電話に出て欲しい。もし、再生しているのなら、僕の携帯にかけてくれ。ずっと待ってるから。どこにも行かないで待ってるから。本当だよ。僕を信じて欲しい」
信じろですって? 何を言ってるのよ? 貴方の何を信じろって言うの?
バカじゃない、全く! 何様のつもりなのよ、こいつは? もう何も未練はない!
「心から願う。君が連絡をくれる事を。本当にお願いだ、返事が欲しい」
まだそんな事言うの? 本当に嫌な奴ね。
「今でも君の事を愛しているよ、涼子」