第十五章 第三節
ずいぶん日が落ちるのが早くなってきた。
「ただいま」
「あ!お母さん、ビル兄さんが帰ってきたよ!」
このコミュニティの住居地域に入ると、中心に共同の釜がある。屋根は付いているが、雨風が強い時には、やはり使い勝手は悪い。そこに私が世話になっている家の娘、リシアがちょうど夕食の準備をしている時だった。他にも数人の女性が、同じようにして支度をしている。周囲には無駄なものが何もない。すべてが簡素である。
「これ、頭領からからお裾分けもらったよ」
私は大きな葉で包まれた、小麦でできたお菓子を掲げて見せた。このお菓子の名前など知らないし、知ろうとも思わない。
「やった!」
リシアは私の手からそれを強引に取り上げると、そのまま家の方に入っていた。住居もまた非常に狭く、雨風をしのげるだけのあばら屋ではあるが、もうこの家に随分お世話になっている。私の無精ひげと後ろで括った髪が、その日数を物語っている。
「おい、リシア!ご飯ほっといちゃダメだろ」
慌てて窯の方に行き、鍋の様子を見てみる。私はまだ、彼らの文化である食事の準備ができるレベルではないが、火の番ぐらいができる。
「お帰り、ビル。今日は早めに帰れたんだね」
家の中からリシアの母、エリナさんが出てきた。
「はい。今日が南区の運びが最後だったんだけど、ケルンが早めに手伝いに来てくれたんで」
「ケルンと一緒に帰ってこなかったのかい?」
「何か用事があるって・・・・」
「馬鹿だね、酒飲みに行ってんだよ。連れて帰ってこなかったのかい?メアリアにまた怒られるよ」
「え、私がですか⁉」
「もちろんだよ」
「そんな・・・」
私は小枝を一つ折り、熱く燃える火の中に放り込んだ。
目の前で炎が揺らめく————
あの日からすぐに仕事がもらえた。バルドランという老人はこのコミュニティの世話役。みな仕事は、ほとんど彼からもらう。私はとにかく物を運ぶ仕事だ。他にもいくつかあるのかもしれないが、まずは簡単にできるものを、私に用意してくれているのだろう。
「もう夕食ができるよ、体洗ってきな」
「はい」
エリナさんはちょっとした苦笑いをしながら、私を見送った。彼女の言いたいことは分かる。彼女は私に、他人行儀な口調をやめるように何度も言ってきた。しかし私が、それを拒んでいる。どこかでこれ以上距離を近づけないことが、大事だと思っている。しかしそれは、頭の固さからきているわけではない。私はここに来てから、以前のように頭の中でぐるぐると考えることをやめている。
『暑いものは暑い』
『いやなものはいや』・・・・・
私は人生の中で、これほどまでに自分の感覚を、素直にさらけ出す人生を過ごした経験がない。あの日、奥の母屋で『もっと手の届くところを見ろ————』と言われた。私は今までシルバー先生に『できるだけ広い範囲を、できるだけ遠くを見なさい』と言われてきた。別に私を置いていったシルバー先生に対しての反抗心ではない。セドリックに言われたその言葉を、素直に実践してみようと思った。ただそれだけだ。私にはその時間があった。これまで私は、どこかいつも時間に追われていた。窮屈だった。『人生』とはそれが当たり前だと思っていた。幼少から勉学に励み、アカデミーでも首都の喧噪に紛れ、故郷に帰っても心落ち着かず・・・シルバー先生に出会ってからもそうであった。だがここに来て、
今の私には何もすることはない————
敢えて言うのであれば『生きる』以外何もないのである。そうなのであれば、そのくらいやってもよいではないか。
自分の感じるまま・・・・・
私はそれから、シルバー先生を想うことほとんどなくなった。時々今みたいに『この瞬間を語る』場合に、必要な単語として出てくるだけである。もちろんイーヴァンのことも、カミルのことも。
バシャバシャ
私は全ての服を脱ぎ去ると、あばら屋が立ち並ぶ裏手にある小川に入った。もう少し、肌寒い時期に入り始めている。ここは整備された用水路ではなく、ずっと以前から自然の形である川だ。目隠しするものは何もない。逆に覗こうとする人もいない。そういうことが、ごく自然に行われているコミュニティ。集団というものが『かくも法的ルールがなくて形を保ち続けることができるものか』と驚かされる。
バシャバシャバシャバシャ
はじめのころは、体はもちろん手をよく洗わないで、エリナさんに怒られた。我々が運んでいるものは、町の人々が嫌がるものが多い。はじめは獣の死体が多かった。早朝、人の目がない時に西北の谷に捨てに行く。食料で使われたもの残り、老衰、病死など様々な物を運ぶ。その後私は、真面目な仕事ぶりが認められたみたいで、次の仕事を与えられた。糞尿を集め、処理場に運ぶ。この仕事もどんどん要領よくこなした。「もっと嫌がって、仕事にならないかと思ってたけど・・・」エリナさんは私が仕事に対して選り好みをせず、黙々とこなすところを見てかなり意外に思ったらしい。私の家系はウルビス(市政官)をやっていることが多い。(直系ではないが)街の中の全体を統括するわけだから、表の仕事も裏の仕事も見ている。当然そこに対しても指揮をするわけなので、(実際アラモンでもその作業に従事していた)抵抗や偏見はまったく持ってないといえる。場合によっては手伝うことも多かったので、(滞ると伯父に怒られた)そのような言われ方をしたこと自体が意外であった。
家に戻ると、テーブルに小さく鳥を焼いたもの。朝と同じスープ。そしてお土産でもらって帰ってきた、小麦のお菓子があった。
「私はいいのに・・・」
「む・・・・」
この言葉を言うと、いつもリシアは怒る。仲間は分け合って当然。この感覚が、生まれた時から根付いているのであろう。私がそこで一線を引いているように見えて、どこか嫌な気分になるらしい。
「さ、食べよう」
「うん」
本当に質素な食事である。しかしそれは、私が今まで食べてきたものと何も変わらず、小麦のお菓子一つあるだけで、どんな豪勢な食事よりも、華やいでいるように見える。彼らの笑顔はそれを実感させる。まるで、私はここで生まれ育ったみたいだ。
ここで生まれ————
ここで育って————
ここで死んでいく————
それが当たり前のように感じる。その感じた以上に、頭を動かすことは、今はない。
「南区はどうだった?」
リシアはいつも私に、今日の仕事について聞いてくる。女性たちは主にコミュニティでの仕事が多いが、時々花を売るなど、近場での活動は行う。しかしやはり、女性たちだけでは危険が伴うことが多い。このヘルヒンの街は平均的に治安が良い方ではあるが、それでも危険な連中はどこの場所にもいる。つまり遠出ができる私の話はリシアにとって、どんなアカデミーの授業よりも役に立ち、どんな図書館の物語よりも魅力的であるようだ。
「ほとんどが城壁の外側だよ。内部から飼料を運ぶのは、別のコミュニティが行ってるみたいだ。うちは城壁の外側からかなりの範囲を周回して、もう少し南側にある飼料集積所に持って行くんだ」
「あの辺りって、水車がたくさんあるんだよね」
一瞬だけ私の思考が止まる。ほんの一瞬だけ。この町に来たときのこと、水路でイーヴァンとカミルが水浴びをしたこと。ティモと再会したことが頭をよぎる。ほんの一瞬だけ・・・
「そうだ、ものすごい数の水車だ、 30から40があるんじゃないか」
「ほんと!」
目を輝かす。少し前に来た私が知っているこの街のことを、彼女は一度も見たことがない。不思議な感覚に捉えられるが、それが良いか悪いかなど、くだらないことは頭に思い浮かばない。
全てあるがまま————
今の私はそれだけ。セドリックの言葉が直接それを意味するかどうかは分からないが、いや、それさえも考える必要はない。私がそう思ったからそうしている。
また一瞬、一瞬だけ頭を横切る
————『グラウ、あなたに足りないものはまず『受け入れる』という姿勢です。自らの中を空っぽにし、まず相手の言葉、流れる空気、肌で感じる温度・・・それらを自分の中にすべて取り込むのです』
シルバー先生の言葉が————横切り・・・・
そしてまた消える————
翌朝、南区の仕事が終わったことを告げると共に、次の仕事をもらうため、世話役のバルドランのところを訪れた。行く途中運が悪いことに、メアリア出会った。
「ビルさん!なんでうちの亭主を連れて帰って来てくれなかったんです!」
「いや、自分はよくわかってなくて」
「わからないわけないじゃないですか!またうちの亭主が酒でのんだくれて、昨日も帰って来なかったんですよ」
「え、まだ帰ってきてないんですか?」
「帰ってきてますよ、ずっと寝て!」
「???・・・・帰ってきてるんですよね」
「そんな問題じゃないなんてわかるじゃないですか」
私は駆け足でその場を去る。よくわからないが怒っているらしい。もう少し早く出ればよかったと悔む。
赤い布をめくると、正面の椅子にバルドランが坐っていた。この人はいつも変にきちんとしている。だらだらと横になっている姿を見たことがない。
「ビル、次の仕事じゃが・・・・・」
余計なことは何も言わない。用件だけ言って、次々と話を進める。しかし珍しく、一瞬だけ間があった。
「別の仕事じゃ」
「別の仕事?」
私は単純に、その内容が不明瞭だったことに対して聞き直した。私のその言葉から、相変わらず何も拒否する感じがないと受け取ったのか、そのほんの少しの引っ掛かりもない感じで、バルドランは話を続けた。
「ここから少し北にある・・・」
「・・・・」
「・・・・・・」
バルドランがまた一瞬言葉を止めた。私が反応してしまったからだ。北ということは、より町の中心部に近くなる。つまりこのコミュニティに移り住む前の私を、知っている人がいる地域・・・・・
しかしまた私の中で、すべてが消え去る————
「北にある三階建ての黄色い建物がある。ヘルヒンの旗がたっているからすぐわかる。そこに明日の早朝から行ってくれ」
「早朝・・・・どのくらい?」
私に引っ掛かりがなくなったと感じたのか、バルドランは少しリラックスして、椅子を深め腰かけた。
「よくわからん、夜明け前に行けば、文句を言われることはないじゃろ」
「はい」
ちょっと間を置いた。まだ私に何かを話すと思ったからだ。しかし何もなさそうだったので、私は踵を返して赤い布をめくり外に出た。自宅に帰り、エリナさんに仕事の時間を伝えて、夕方から睡眠を取ることにした。どんな仕事かわからないが、しっかり準備をしておくことで問題は少なくなる。もちろん夕方までに、建物の場所は一度確認した。場所を確認しただけだ。昔であれば、そこからいろいろ詮索したが、今の私はそれが何か違うと思っている。
全てを受け入れる————
翌日、夜明け前。エリナさんもリシアもまだ寝ている中。私は早速、建物に向かった。到着すると私の予想とはいくつか違った。まず、この時間帯にもかかわらずしっかりと篝火があり、守備の兵もいた。さらに、私一人でやる仕事ではなく、もう一人別のコミュニティからきているようであった。
「あの・・・」
「ああ、アンタが手伝いか・・・・よろしくな」
「はい」
さほど背が高くなく、ぎょろ目。薄手のボロを着ている。我々のコミュニティも貧しいが、彼らもそうなのであろう。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
衛兵が二人、入り口を守る中。私たち二人はただずっと待ち続ける。昔の私であれば必ず余計なことを聞いていた。本当に不思議だ。聞きたいと思う気持ちが微塵もない。
ただここにきて————
ただ言われたことをやる————
ただそれだけ————
ぎしぎしぎし
扉の向こうで音がした。おそらく荷車を引く音。我々が何かを運ぶ、その『何か』が近づいている。まるで緊張が走らない。それがなんだっていい————
が、が、ががががが
扉が開く。やはり荷車がすぐそこまで来ていた。
「運ぶ場所は俺が知っているから、俺が前に行く」
ぎょろ目の男はそう言うと、荷車の荷物に近づいて行った。私はその後をついていく。
「ういしょ」
ぎょろ目の男が、大きくて長さのあるそれを引き寄せ、端を持つ。荷車を引いていた役人にも、衛兵にもまったく声をかけない。私も黙ってその反対の端を持つ。 大きな布に包まれた物。持った瞬間、いや持つ前にそれがなんだかわかった。もちろん顔には一切出さない。いや、顔にまったく出る感じがない。ここのところずっと、私はすべてを受け入れてきた。
それは———
人———
「うぃし、持ったか?じゃあ行くぞ」
私は小さく頷く。荷物は当然動かない。
ががががが
扉が閉まる音がする
「ういしょ、ういしょ」
「はぁ・・・はぁ・・・」
足元の悪い岩場をまず南に下りる。それから西北に向かう。いつもの谷かと思ったが、それよりもさらに進む。私の中で少しだけ焦りがある。
日が昇ると暑い・・・・・それまでに着きたい・・・・
実に自然的なことが、私の頭の中で流れる。『この街に来たときの私』が見れば、この私に対して驚くし、『今の私』が、『この街に来たときの私』を見れば、自分の運命に薄ら笑いを浮かべるであろう。
暑いのはいやだ・・・・
私が何を運んでいようと———




