第十五章 第二節
非常に狭いあばら小屋ではあった。天井はまだしも、壁の方は隙間がたくさん空いていて、朝日が何重にも帯になって、入り込んでいた。
「お母さん!この水ここに置いておくから!」
元気な女の子の声が聞こえる。藁に、ところどころ破れた布で作られたベッド。私はそこで目を覚ました。ゆっくりと、体を起こす。この建物の中に炊事場はない。おそらく共同で使い料理をしている場所が、壁の隙間から見えた。
「 リシア、ありがとう。あそこに置いてある洗濯物、干しておいてもらえる?」
「わかった!」
私はさらに体を起こし、入り口の方へ向かい、ドアを遠慮がちに開けた。この家のようなあばら家が、 二十軒くらい軒を連ねている。その中央に三つほど釜が並んでいる。その奥の方には井戸が見える。朝の慌ただしい中、擦れた上着の人々が、慌ただしく行き交う。その中の一人、体格の良い、頭に手ぬぐいを巻いたおばさんが私の視線に気付いた。持っていたお玉で、私の方を差して言った。
「エリナ、昨日の男が目を覚したようだよ」
周囲にいた人々が、一斉にこちらに注目する。
エリナと呼ばれたその女性は、破れた布きれで髪を纏めており、振り向いたその顔は、昨日私にお粥を食べさせてくれた、優しい母の顔をしていた。エリナは鍋からお玉で、木の器にひとすくいした。そして、それをこちらに運んできて・・・とその時
「起きるの遅い!」
間に割り込んできたのは、昨日私を見つけた女の子、リシア———身長は私の腰より低く、私が見下ろすと、少し怒ったような表情をしていた。
「あ・・」
「名前は?」
リシアはそのこぢんまりとした見た目に似合わず、随分とつんけん言ってくる。森の中で倒れている私を見て、びくついた表情をした彼女とは、えらい違いだ。
「リシア、失礼だよ。はい、朝食」
エリナがそう言いながら私に器を渡した。それは、野菜と家畜の骨を一緒に煮込んだもののようだった。骨は本来出汁を取るために使うものだが、それさえも惜しんで食べている様子を伺えた。
「頂きます」
私はそう言って器に手をかけた。その時エリナと手が触れた。
!・・・・ 何かを強く意識したわけではない。私は旅を始めてずっと、人に触れていなかった。あの夜、カミルと会ったあの日を除いて———
「ビル・・・ビル・フィッツジェラルド」
私は正面向き直り、エリナに目を合わせて言った。
「そうかい、あたしはエリナ。こっちは娘のリシア」
リシアはなぜだか「エッヘン」という感じで胸を張った。確かに自分はこの女の子に見つけてもらい、助けてもらった経緯がある。
「さあ、冷めないうちに飲んで」
器の中にあるスプーンをとり、一掬い口に運ぶ。まずく・・・はない。決して美味しいとは言えないが、飲めないものでもない。
「おいしい・・・」
「おいしいわけないだろ!そんなお世辞なんかいらないんだよ」
先ほど私にお玉で差してきた女性が、大声で言う。
「オルガ、そんな言い方しないの。ビルさんが困っちゃうでしょ」
ハハハハハ
周囲から温かい笑いが起きる。
エリナは再びこちらを向くと、少し心配そうな表情をした。
「ビルさんはもう起き上がって大丈夫なのかい?まだ寝ててもいいんだよ」
また一瞬自分の中で、母親と重なるところがあった。こんな心配のされ方は、旅に出てから当然あるわけがない。
「あ、大丈夫です。体の疲れはあまりないみたいですし、頭の方も比較的すっきりとしています」
「だったら少しは手伝ってよね。やることいっぱいあるんだから」
いつの間にか離れた所にいるリシアが、洗濯物を紐にかけながら不満そうにこちらに言った。
「あ、何か手伝いましょうか?」
「まずはそれを食べてからでいいよ。それに、バルドランさんのところにいかないと。昨日、私の家に来たおじいちゃん」
ああ、昨日この家を訪れた、少し偉そうな老人。このコミュニティの長のような感じだったが・・・・どうも、とりあえずあの人のところに行くことが、この人たちのしきたりであるらしい。私はうなずくと、黙ってスープを飲んだ。
私はバルドランの母屋を訪れたが、誰かついてきてくれるわけではなかった。そのくらいに皆、忙しそう。貧しい者ほど忙しいのは、地域が違っても同じ。どの家も中央の道に面しており、母屋に行くには単純に奥に向かえば良いだけであった。時々大きい木が立っており、鳥の鳴き声が聞こえてくる。少し振り返ると小高い丘が見える。中腹に高級住宅地が見える。数日前私は、ルド・ヴァン=ミルを自宅まで付けていき、そこで情報を引き出した後、その妻の後を追い、ヴァルドと出会うこととなった。なんだかそのことも、随分昔のように感じてしまう。長く滞在したヘルヒンの中心地から遠い貧民街にいるが、それでもシルバー先生達と過ごした同じ町だと実感させられてしまう。
「ここか・・・・」
他のあばら家と比べて何か特徴があるわけではない。入り口が赤い布で覆っているという情報だけで、私はそれをくぐろうとした。が、先に中から老人の方が出てきた。
「来たかい。随分遅かったの。さあ行くぞ」
バルドランという老人はそのまま、私の横を通り過ぎようとした。その突然の行動に呼び止めるしかなかった。
「あの、どこに」
「いいからついてこい!」
なんだかいつも不機嫌のような顔している。全く私のことを意に介さずに、コミュニティの建物があるさらに奥へと行く。しかし私は、以前よりもあまり腹が立っていない。前であれば、彼の態度にすぐにイライラしていただろう。やはり先生に置いていかれたという、自分の中でのプライドが傷ついたところがあり、どこかで粗野に現実を受け入れるという思考が広がっているのではないかと思った。特になんの感情も持たず、私はその老人の後をつけていた。
「セドリック、昨日行った男を連れてきたぞ」
このコミュニティの最も奥にある、少し風変わりな家。 大きな丸太で組み上がっており、入り口には比較的しっかりした扉がついている。バルドランが、勝手に扉を開けて入って行く。中に入ると随分暗くて奥が深い。何枚も布のようなものが、カーテン風に視野を遮る。バルドランは勝手知ったるようで、ほぼ足を止めることなく、左右にカーテンをかき分けていく。私は彼から離されないようについて行く。奥に行けば行くほど、タバコの煙のような、水パイプの蒸気のようなものが部屋の中を漂ってる。少し目にしみる。
「入るぞ、セドリック」
おそらく最後のカーテンであろう、渦巻き模様のまるで絨毯のような布を開くと、奥に何重かクッションを下に敷き、立膝をついて口にパイプ加えた男がいた。男?・・・・たぶん私よりも若い。それは背格好や肌の艶、髪の黒さなどがそう思わせた。
しかし目つきはそれなりの年齢を感じさせ、落ち着きさも鋭さも兼ね備えている感じがした。
「ありがとう、バンドラン。君はもう帰っていいよ」
「・・・・」
老人のバルドランは、不機嫌な顔を隠さなかった。用事が済んだらとっととどっかに行けと云うのだから、誰だって気分が良いものではない。しかし、彼はそれ以上の抗議の意思を示さず、私の方を一瞥したら、そのまま踵を返して、もと来たカーテンの森へと引き下がっていった。私は少しそれを見送っていたが、正面の男セドリックの視線が、私を再び彼の方へと惹きつけた。
「あんたの名前は?」
長髪を両サイドであみこむように結んでいるが、パイプを私の方に向けたときに、それがジャラジャラと音を鳴らしながら揺れる。
「・・・・・・」
もうすでに、ほかの人に自分の名前は名乗っているわけだ。ここでわざわざ隠す必要はないが、なんだかこのまま教えていいのか戸惑ってしまう。が、セドリックという男、そんなことにも慣れているようで、挨拶の言葉を言うくらいの気軽さで、私の態度について言及した。
「本当にここに来る奴らは、どいつもこいつも大して変わらない連中だ。無駄なやり取りが増えるのは、俺は嫌だ。今後そのくだらないやりとりは無しにしてくれ。もう一度聞く、名前は」
「・・・・ビル」
「ビルね・・・もう2,3質問させてくれ。あんたはここに居るつもりか、それともすぐに出て行くつもりか?」
「ここというのは、このコミュニティからか?それともこの街からか?」
「・・・・・」
少し自分の想像と違う質問が帰ってきたみたいだ。無感情な人物かと思ったが、以外にもすぐに人間らしい表情をした。
「ここからと街からじゃ違うのか?旅人さん」
彼の後ろに、ちらりと私の荷物が見えた。その荷物の中身か、ら私が旅人だと想像したのであろう。
「私の荷物は返してもらえるのか」
「どうもあんたは、こちらの質問に素直に答えないな」
「このコミュニティからと言われれば分からない。この街からと言われれば、二年間はいなければならない」
「・・・・・」
また彼は意外な答えが返ってきた表情をした。パイプを一つ吸い、ゆっくりと吐き出す。
「・・・・・」
一瞬思考の間があったように私は感じた。だが私が想像したよりも早く、セドリックは次の言葉を重ねた。
「ここにいたいか?」
「今のところ、可能なら」
「そうか・・・・」
表情を見ると、もうすでに何かを決めているような顔をしている。まるで一切のとどまることのない、川の流れのように物事が動いていく。
「先ほどの老人、バルドランに仕事をもらえ。今日からだ。あと、生活に慣れたら家を与える。もちろんおんぼろだがな。それまでエリナのところで世話になれ」
「え・・・」
「どうせお前は、同じ部屋に女がいても手を出さんだろ。それに、何か引っかかるところがあるなら、一日も早く自分で生活できるようになれ、ここで」
私はずいぶん疲れているせいか、相手が言っていることに対していちいち反論めいた思考が出てこない。なんだかどうでも良い状態がまだ続いているようだ。うっすら何かを言いたい気持ちが右下のほうにあるが、それが一定のラインを突き破って言動に移るほど、強い衝動には駆られない。
「一つだけ質問していいぞ」
「・・・・・・」
「馬鹿が少し考えたぐらいで、いい質問は思いつかんぞ」
いきなりバカときたか・・・今の無気力状態でなければ、私はどれくらい体温が沸き上がっただろう。
「どうせあんたもどっかのアカデミーで、くだらないこといっぱい頭に詰め込んできたんだろう。それで生きてきて、いいことがあったか?」
本当に、強い言葉を使ってくる人物のようだ。
「自分が触ることのできない、遠くのものばかり見すぎだ。もっと手の届くところを見ろ。いいか『見る』ってのは受動じゃない、能動だ。『見る』ってのは『探す』ってことだ。どうだ、質問は思いついたか」
「・・・・私のそこにある荷物はいつ返してくれる」
「は・・・はははははは、今まで来た連中よりは、ちょっと面白い奴だなお前。荷物は・・・まだ返さない。その時になったら返す」
もう用がないと思い、私はそのまま振り向いてこの建物を出た。後ろを一切振り向いていないが、まったく声をかけられる様子もなかった。
外に出ると日差しがまぶしい。私はそのまま老人のバルドランを探しに出かけた。
ふと思う—————いつの間にかここで生活することになってないか・・・?
いや、まあいい。下手に街の中に入れば、つい先日まで関わっていた人物と会うことになる。それに、先ほどセドリックが言っていたことが、随分と私の頭の中に残っている言葉
もっと手の届くところのものを見ろ—————
何だか無気力の今の私に、ストンと入り込む言葉だった。シルバー先生が語るその言葉よりも、とてもいい加減で、ラフで、気が楽である。私は一度立ち止まり、晴れ渡った空を見た。
今日は天気がいいみたいだ




