第十四章 第十節
天窓からの光が中央の舞台を照らす。公会堂の中はまるで、虫がうごめいているような、静けさとざわめき。会場の聴衆たちが独特のマスクをつけていることが、その雰囲気の異常さにさらに色付ける。
ゆっくりと司会者のような人物が、何の形だか分からない(動物にも見えるし、野菜にも見える)手のひらよりも少し大きな石を持ってきた。中央の舞台で長テーブルに向かい合い、5人ずつ座っている。その私たちの方の一番右側、イーヴァンの目の前にその石が置かれた。私はそれが先ほどの討論の勝者側に与えられる印だと、すぐにはわからなかった。普通の討論会であれば、どちらが勝者だったかのジャッジが行われるこの『めでたい瞬間』に、おそらく会場は最もその盛り上がりを見せたのであったろう。しかし、先ほどの痩せ型の男とイーヴァンの討論のあとでは、会場の人々は勝者を祝福するような空気は到底なりえない。本来であれば討論とはそのようなものであり、相手を叩きのめして会場中が盛り上がるというのは、ただの『見世物』でしかない。いや、多くの人がその見世物を楽しみにしているのだ。
司会の人が、次に討論する人を中央へと案内する。私の隣でゆっくりと、カミルが立ち上がる。普通であれば顔の表情を見ることによって、その人物の感情や状態を知ることができるが、今は白い頭からすっぽりかぶったマスクをつけている。把握しにくくはあるが、立ち上がったその姿と、討論をするために中央に向かう足取りは、「良くない状態」というふうには感じなかった。一方相手はかなり体格のいい男である。立ち上がったときその重さに押し潰されていた椅子が、
ギシギシ
と戻る音がする。のしのしと中央に向かう。服装は他の鉄環の誓団と同じ、黒い法衣を纏っている。かぶっているのは、我々と対極の黒のマスク。頭からすっぽりかぶり、目だけ見えている。
司会の人が、中央のテーブルに置かれたくじ引きの箱に手を入れる。やはりこの瞬間は、本当に誰も音を立てるものがいない。
がさがさ
木でできた箱の中で、手をかき混ぜ、札がこすれる音がする。
ガチャ
選んだ時の小さな音さえも聞こえる。司会の人はそれをゆっくりと取り出し、自分の手元まで姿勢正しく持ってくると、厳かに札を掲げた。
「第二の議題は・・・・『国家』です」
--------
先ほどとは違い、会場の中はまだ静寂に包まれたままで、(いや、体を動かし物のこすれる音が聞こえるが)バーチグレー色の外壁が司会者の声を半分吸収し、半分籠らせる。私はまずカミルの背中を見た。微動だにしない。先ほど以上に、カミルの中の流れる波長が読み取れない。体格のいい男に目を移す。こちらも意外と表情を変えていない。(顔はマスクで見えないが)
司会者の人が再びステージを降りて、自分の待機すべき席に着く。そこまで2人とも何も言葉を発しなかったが、思いのほか静かな口調で、体格のいい男が先に口を開いた。
「国家とは・・・・」
体格のいい男が一瞬だけ間を開ける。自らの発した言葉が、カミルに何らかの反応を呼び起こすかと確認したのであろう。しかし、彼のその言葉に、口を差し挟まれる感じがないと悟ったところで、そのまま言葉を続けた。
「『青き国家論』 エルヴァ・リュミナスは構成的主義国家論を述べている。国家を『国民』『領土』『法律』の三要素によって定義し、それらが未成熟な段階を「青き国家」と呼ぶ。国家は一夜にして生まれるものではなく、時間と意志によって徐々に形成される」
また一瞬を開けるが、今度は先ほどよりも間は短く、続けた。
「この構成主義的国家論では『国民』は単なる人口ではなく、国家に帰属意識を持ち、共通の文化や言語を共有する人々。移民や異民族が混在する場合でも、国家意識が芽生えれば国民と認められる。『領土』は単に地理的な広がりだけでなく、国家が実効支配し、法と秩序が及ぶ範囲。『法律』とは単に社会的ルールを定めたものではなく、慣習から始まり、内外の事情を考慮し、成文法へと進化する。法の整備が国家の秩序と正統性を支える」
まあ、つらつらと言葉が出てくるなと感心してしまう。昨日夜中まで頑張って覚えてきたのか?少しだけ周囲に目をやったが、正直話の内容についてきている人はいないのではないか。先ほどもこの討論会は本来『見世物』であると思ったが、その形式はすでに崩壊し、カオス的なうめきの中に、今あるといって過言ではない。
「そしてすべての国家は『純国家』を目指す。三要素が均衡し、内外に対して国家として認知される段階。青き国家はこの理想に向かう過程であり、希望と未完成の象徴」
--------
終わった?——————
会場が静寂に包まれる。私は様々な静寂を感じてきたが、これほど無機質なものは初めてかもしれない。このテーブルに座っている我々以外は、まるで長々と呪文を唱えられた感覚にあるのではないだろうか。頭の中が動いている音が、何一つ聞こえない。
『私は・・・・』
カミルが口を開いた。私はその瞬間に違和感を覚えた。いや、そう思ったのは彼・・・彼女と一緒に旅をしている、我々だけではないか。なぜならここに居る会場の人々も、目の前に居る鉄環の誓団も、カミルの声は初めて聞くからだ。彼らにとってはこの「少し肩幅のある白いマスクを被った人物」の情報以外は存在しない。しかし、われわれがいつも聴いているカミルの声とは、明らかに違う。いや・・・微妙に違う。少し男性寄りである。普段であれば男装をしているカミルを見て、女性だと思う人はほとんどいない。しかし今はマスクをつけている。それゆえ声の情報に重点が置かれることになり、そこで女性と悟られる事を嫌ったのかもしれない。
『今まで長く旅をしてきて・・・・』
「否!」
カミルが話している途中で、突然体格のいい男が、声を一閃させた。さすがのカミルもピクッとして、体格のいい男を見上げた。
「われわれは今『国家とは何か』を議論している」
「・・・?」
カミルは、相手が何を言おうとしているのか戸惑っている。その背中からは、明らかに動揺が見られる。イーヴァンに勇気づけられた背中が、少し小さくなっている。
「お前はさっきの子供のように、議論の題目を巧みにそらして、はぐらかそうとしている。こちらが何度も同じ手に乗ると思うか」
そういうことか——————
先ほどイーヴァンに仲間がやられたことが、随分と腹に据えかねるらしい。しかしそれであれば、こちらの言葉をすべて受け入れ、会場の人々が賞賛するぐらいに見事にひっくり返せば良いだけのことである。だが、この体格のいい男が取ろうとしている手法は、自らの持っている知識で相手を押さえつけ、「お前は無学、無知識、無教養」と押しつぶそうとしているのである。
小賢しい——————
そんなやり方をしてどうなる。いや、それは違うかも・・・彼らと我々は目的が全く違う。彼らはこの討論会に対して何らかの政治的な、権力的な、ある種無粋な動機で満たされている。それに比べ我々はどこかで、純粋に討論をし、本質の探求を求めっているところがある。目的が全く違う。
「『求心の灯火』セリオ・ヴァルドによれば、『国家』とは、物理的な構成よりも「信じるもの」によって成り立つとする思想。人々が離れず、集まり続ける求心力こそが国家の本質である。 中心の存在、それは王、領主、理念、信条など、国家の象徴となる存在。これに対する信仰が国家の結束を生む。求心力の性質、それは見た目や身分が異なっても、同じものを信じることで国家は維持される。逆に、信仰の崩壊は国家の瓦解を招く。 領土や法律の位置づけ、それは信じるものを守るための器であり、中心が崩れれば器も意味を失う。国家の危機、それは信仰の分裂、象徴の失墜、理念の腐敗が国家の崩壊を引き起こす。これが精神的・象徴的国家論 」
再び体格のいい男の声だけが響き渡る。男は言葉を止めない。
「『剣と壁の国家』トルマスによれば、国家の本質は「武力」にあるとする。これこそが軍事的国家論。個人や小集団では生活は可能だが、外敵からの防衛は国家規模の武力が必要であり、それが国家の存在意義である。防衛だけでなく、時には自国の制圧も必要。武力の欠如は国家の死を意味する。隣接する国家との軍事力の均衡が保たれたとき、初めて国家として認められる。それはすなわち、その均衡が保たれる部分まで自らの国家と定義することが許される」
もはや、誰もこの男の言葉を聞いてはいないのではないか。これでは、机の横に図書館で持ってきた、司書おすすめの『国家』レポート作成用の本を積み重ね、端から読んでいるようなものである。(私としては、少し興味がないわけではない)
カミルはその背中に全く表情を見せない。一瞬だけ左隣のシルバー先生に目を移す。先ほどから変わらず、やはり周囲を見渡している。少し変化があるとすれば、大きくきょろきょろと見ていた状態から、何かを見定めたように、ゆっくりと周囲を見渡している。先生の正面に座る鉄環の誓団のリーダーグラウ・ザ=カンデルは再び腕組みをして、寝ているような表情をしている。
体格のいい男はまた少し間をあける。カミルが何らかの反撃を試みようとしているのか様子をうかがう。しかしその雰囲気は全くない。体格のいい男は、何をどう解釈したのかわからないが、明らかに自らが有利であるという表情を、マスクについた小さな穴の向うの目の動きが私に伝達させた。もう一度カミルの背中を見たが、私にも全く読み取れない。
天窓の光が、少しずつ床に降り注ぐ。朝の状態からかなり日が昇ったのであろう。全体の空間の温度も上がっているように感じる。
体格のいい男は、カミルがまだ全く口を開こうとしないことを確認した。そして、ほんの少しだけ細めた目の表情をすると、何らこの場を完結させる為の言葉を口にしようとした。しかしその直後、カミルはゆっくり顔を上げた。そして、明確に体格のいい男を正面に見据えた。そして肩を開き、
『国家とは・・・・』
カミルが言葉を発した——————
しかし——————
それは——————
体格のいい男の声だった——————
会場中がざわつく、いやざわつかない・・・・一瞬皆反応はしたか、また直後に沈黙の空間に舞い戻った。しかし会場の人々が、体格のいい男が立ちつくし、目を見開いた表情をしているのを見た時、自分たちの感じたものが間違いないのではないと思い始めていた。
『『青き国家論』 エルヴァ・リュミナスは構成的主義国家論を述べている』
再びカミルの・・・いや、カミルと思われる、肩幅の広い、白いマスクをかぶっている人物から発せられた声は、間違いなく『体格のいい男』の声だった。
ざわざわざわ
「な!・・・」
体格のいい男は、さらに大きく目を見開き、その声が、目の前の自らが見下ろす白いマスクを被った人物から発せられていると確信を・・・いや、まだ目の前の事実と頭の中が何一つ一致してない確信を、
『国家を『国民』『領土』『法律』の三要素によって定義し、それらが未成熟な段階を「青き国家」と呼ぶ。国家は一夜にして生まれるものではなく、時間と意志によって徐々に形成される。この構成主義的国家論では『国民』は単なる人口ではなく、国家に帰属意識を持ち、共通の文化や言語を共有する人々。移民や異民族が混在する場合でも、国家意識が芽生えれば国民と認められる。『領土』は単に地理的な広がりだけでなく、国家が実効支配し、法と秩序が及ぶ範囲。『法律』とは単に社会的ルールを定めたものではなく、慣習から始まり、内外の事情を考慮し、成文法へと進化する。法の整備が国家の秩序と正統性を支える』
聴衆たちはさらに静まりかえる。体格のいい男は少しずつであるが、明らかに血流が頭上へと集中している。何かを言おうとして、上向き加減で口をパクパクさせている。一方カミルは(私でさえも疑いたくなる・・・目の前で声を発しているのがカミルのはずであるが)体格のいい男が口にした『国家』の定義を正確に(いや、概要は分かるが本当に文章・単語として正確かどうかわからないが)その発する言葉を止めようとしなかった。
『『求心の灯火』セリオ・ヴァルドによれば、『国家』とは、物理的な構成よりも「信じるもの」によって成り立つとする思想』
再び体格のいい男の声で言葉を続ける。
『人々が離れず、集まり続ける求心力こそが国家の本質である。 中心の存在、それは王、領主、理念、信条など、国家の象徴となる存在。これに対する信仰が国家の結束を生む。求心力の性質』
「やめろ!」
体格のいい男が大声で怒鳴った。一瞬カミルがそれに反応し止まったが、
『求心力の性質、それは見た目や身分が異なっても、
「やめろ!
同じものを信じることで国家は維持される。逆に、
「やめろと言ってる!!何のつもりで
ワシの物まねなどしてる!
信仰の崩壊は国家の瓦解を招く。 領土や法律の位置づけ、
それは信じるものを守るための器であり、中心が崩れれば器も意味を失う。
「いい加減にしないと!!
国家の危機、それは信仰の分裂、象徴の失墜、
————だれも聞き分けることのできない同じ声で、方や淡々と『国家』を語り、方や感情的に怒鳴り散らす
理念の腐敗が国家の崩壊を引き起こす』
そこでいったんカミルが止まった。体格のいい男は息を切らし、カミルを睨みつける。
「貴様、何のつもりだ・・・ばかにするのもいい加減にしろ。なんで急に私のものまねなど始めた・・・・・」
はーーーはーーーー
怒りに肩を震わせる『体格のいい男』だけの息の音が聞こえる。私は改めて周囲を見た。観客は先ほどよりも唖然とはしていない。むしろ、今自分たちの目の前で何が起きているのか、一瞬でも見逃さないように集中しているように思われる。シルバー先生は相変わらず周りを見ている。グラウは・・・イーヴァンの時程ではないにしろ、明確に自分の意識がカミルに意識が向いていると思われる、そんな首の向きと内なる表情を見せていた。イーヴァンは状況を把握しているかどうかは分からないが、楽しそうな表情をしている。
静寂——————
次は、どちらが声を発するのか——————
「お前が」
声を発したのは体格のいい男であった。
「何のつもりでそんなことをしているかを知らないが、私の言ったことをそのまま繰り返して何になる・・・私の声をまねて何になる・・・・この場所を愚弄するつもりか」
何と、カミルは間を置かず発した。
『何のつもりでそんなことをしているかを知らないが、私の言ったことをそのまま繰り返して何になる・・・私の声をまねて何になる・・・・』
「くっぐ・・・・・」
再び体格のいい男の血流が、頂点に登り切る。
『この場所を愚弄するつもりか』
「いい加減にしろ!!!」
その直後体格のいい男は、カミルに迫って胸ぐらを掴んだ!
きゃーーー
会場がざわつく。
「ダメです!手を出したらダメです!!」
司会の人が慌てて舞台に駆け上がった。体格のいい男は殴りそうになったが、それはおそらく脅しだ。しかし胸ぐらを掴んだだけで、事態は圧倒的に議論とは別の方向になった。
「なんだと!こんなものが討論か!!」
「そうかもしれませんが、手を出すのは!それはダメですよ!!」
最初に討論を行った痩せ型の男も思わず立ち上がり、制止に行った方が良いかと迷っている。イーヴァンはカミルが大事に至らないと思ったのか、楽しそうな笑いを浮かべている。カミルは少しうつむいたまま、しかし、その場を一歩も動かず。
「あなたも・・・!」
司会の人が体格のいい男を制しながら、カミルに向かって言った。
「その声や、オウム返しで言っているその言葉はわざとですよね、単に相手を挑発するだけはやめてください!」
ざわざわざわ
周囲のざわめきも大きくなる。カミルは何も答えない。体格のいい男も、さすがにこれ以上暴力的な事に出るのは、頭の理論をつかさどるところで良くないと思ったのだろう。司会の人が収集をした形になったところで、腕を下した。
「はぁ・・」
司会の人は疲れた大きなため息を一つついて、ステージを降り、再び自らの席へと戻った。砂時計は倒れている。先ほど慌てて飛び出したことによって、ひっくり返したのであろう。まともで公正な時間はもうどこに行ったかわからないが、上下の正しさもないまま司会の人は砂時計を立て直し、討論の続きを促した。
再び沈黙——————
まるで剣闘士が泥仕合になったところを、何度も一度自陣に戻されるような雰囲気だ。
その沈黙を破ったのは、私としてはやはり以外にもカミルであった。今度は『体格のいい男』の声真似はせず、この舞台に立って一番はじめに話していた声色で語り始めた。
『『剣と壁の国家』トルマスによれば、国家の本質は「武力」にあるとする。これこそが軍事的国家論。個人や小集団では生活は可能だが、外敵からの防衛は国家規模の武力が必要であり、それが国家の存在意義である。防衛だけでなく、時には自国の制圧も必要。武力の欠如は国家の死を意味する。隣接する国家との軍事力の均衡が保たれたとき、初めて国家として認められる。それはすなわち、その均衡が保たれる部分まで自らの国家と定義することが許される』
長々と続ける途中で、体格のいい男はすでに呆れた顔で、大きく横に手を広げ「何なんだろうね・・・」というポーズで聴衆にアピールした。彼としては、ものまねの声はやめたにしろ、再び自分の言葉をオウム返ししているだけで、まだこのくだらない茶番をやり取りしなきゃいけないのかと、呆れ返った様子であった。しかし聴衆の反応は違った。もちろんテーブルに座っている我々も。先ほどまでカミルの声真似で、そちらの方に大きく注目が傾き、全く気になっていなかったことがある。(我々に関しては全くというのは少し語弊があるが)それはカミルが、多少早口に感じるあの『体格のいい男』が話した定義の言葉を、ほぼ正確に(私自身正確に憶えていないので、この表現になってしまうが)オウム返しを繰り返しているのである。先ほどは流してしまったが、これは実はとんでもないことかもしれない。しかもそのことに気づいていないのは、討論の相手である『体格のいい男』だけの状態になっている。
「はぁあぁ・・・わかったよ・・・じゃあワシが質問してやる・・・ミル・アステリオンは『国家の概念』の中で何と言ってる?・・・さあ・・・」
再び大きくため息をつきながら、体格のいい男はカミルに向かって、泣きじゃくる子供にお菓子を与えるような言い方で質問をした。またその直後にカミルは言葉を発する。
『はぁあぁ・・・わかったよ・・・じゃあワシが質問してやる・・・ミル・アステリオンは『国家の概念』の中で何と言ってる?・・・さあ・・・』
もうこれ以上呆れることができないぐらいの表情を、体格のいい男はカミルにマスクの中でしたのではないか。司会の人も、また体格のいい男が暴力的な攻撃に出るのではないかと、焦りながら中腰になる。肘が当たって再び砂時計を落とし、慌てて拾い直す。しかし以外にも、カミルはここで言葉を止めなかった。
『お前のやってることは、私のやってることと何が違うのだ』
再び、
再び体格のいい男が目を見開く。先ほどまで自分の声真似をしていた男が、自分のオウム返ししかしなかった男が、女性の声で・・・・しかも、明らかに女性の声で話し始めた。この瞬間に誰もが、先ほどまでが男性の声真似をしていて、この肩幅の広い、白いマスクを被った人物が、『女性以外ありえない』と確信したのである。しかもその声には、品位がある。権威がある。愛があり覚悟がある——————
ザワザワザワザワ
再び会場中がざわめき出した。体格のいい男はそのざわめきが、一切耳に入らないくらいに驚いている。自分が胸ぐらをつかみ、殴りかかろうとした。それは女性であった。彼の中で要らぬ想像が爆発する。あの心を惑わすような声真似。胸ぐらを掴んだ時の感触。微動だにしない、その刃のような純潔。
私たちはカミルを知っている。しかし知らない人たちにとって、ここまで起きたあまりにも奇妙な出来事と、今の目の前で、まるで答え合わせのように示された高貴な女性。(我々はもちろん、それが彼女の演技だと知っている、迫真の演技だ)
『お前はただ、書物を読み、それを文字面で記憶し、その物量で相手を押さえつけ、謙虚さと力の弱さに覆いかぶさってきただけではないか』
体格のいい男が一瞬身を引く。それは城の門番が、女王と知らず無礼を働き一喝されている絵面と似ている。いや、その劇が今幕を開けたのだ。
『お前が何も考えず、ただ他者から受けたものを自らの物のように語り、それでことを済ませようとするのなら、私がお前の言葉を、そのまま鏡のように受け取り返したのと何が違うと言うのだ。お前が受けているものは、お前の放った言葉だ』
あまりにも美しい声。それがこの最高の音響設備の空間で、荘厳な輝きを放ちながら、放物線に、花が咲くように広がっていく。もうすでにこの会場は、演劇の公演真っ只中である。しかもクライマックス。
『まだお前が書物の概要のように、ひたすらその記憶されただけの言葉を続けるのであれば、私もまた永遠にそれを続けよう!お前の声をもってして!』
体格のいい男の額に汗がにじんだ。相手が討論をしてないとの言いながら、実は自らが、初めから文字面の知識だけで、『討論』という形を押しつぶそうとしていたのである。その本質をつきながら、なぜカミルがこのような台詞が続々と出ているのか私は考えた。微妙な違和感といってもよい。おそらく・・・・何の確証もないがおそらく、彼女は自らがさまざま演じてきた、物語のキャラクターとセリフを拝借しているのではないかと思った。『覆いかぶさる』や『鏡のように』というワードが、文脈からすると少し不自然だと感じた。おそらく彼女の知っているセリフの中から、その基本形を抽出し、現状に合わせて組み変えていったのであろう。
聴衆はわき始めていた。自分たちの望んだ『見世物』が始まった感覚をおぼえたのであろう。シルバー先生を見ると・・・ようやく何かが落ち着いたのか、舞台のカミルを見ている。グラウは・・・腕組みを崩さないが・・・確実に何かを思いながらカミルを見ている。
『お前の「国家」とは・・・?』
カミルが一歩出て体格のいい男に迫る。
「国家とは・・・アステリオンは記録主義的国家論を・・・」
『お前の!お前の国家とは!』
女王カミルの声が天を衝く
カミルはぐっと体格のいい男の目の前に、いや、顔を、まるで息がかかるぐらい近くまで顔を近づけた。体格のいい男から、間違いなくカミルの瞳が、マスクの穴を通して間近に見えたはずである。その女性の瞳が。
——————私は常々思っている。多くの人にこの言葉は否定されるかもしれない。だが私が思っているだけだという、ただそれだけで語らせてほしい。女を目の前にして勝てる男がいるのであろうか。男は強き時も弱き時も女にすがる。時には暴力を持って女にすがり、時には子供の「ぐずり」をもって女にすがる。今、体格のいい男の目の前に、間違いなく「女性」のカミルがいる。私からは体格のいい男の目は見えない。カミルの後ろ姿に隠れて見えない。しかし彼は、今泣き出しそうなのではないか。大声で泣き出し、カミルに抱きつき、甘えながら頭をこすりつけるのではないか。なぜなら男は知っている、そうすれば許してもらえると・・・・・私はこんな男を何人も見てきたし、こんな女性を何人も見てきた。
私の・・・・カミルに対しての気持ちも同じなのではないか——————
今の彼のように、その真意の眼差しで、まるで誓いの儀式のような距離感で目と目を合わされたときに、そのことを一度も体験していない我々が、この瞬間のあの男を、どうして嘲笑できるというのか・・・・
再び静寂が訪れる。しかしそれは、聴衆たちが最高の『見世物』(男性の客も女性の客も)を見せてもらった感動の震えの『沈黙』である。
カミルは、まるで熱い口づけをゆっくりと離すように、体格のいい男から離れた。そして、女王が優雅なドレスを翻すように、ゆっくりと円を描きながら聴衆の方に向いた。
『私は・・・・長く旅をしてきました』
カミル女王の独演が始まった。
『多くの国を訪れました。その私が《国家》とは何かと問われたならば、こう答えるでしょう。
《国家》とは・・・・
——————『声』です』
声・・・こえ・・・・
周囲からざわめき・・・いや、猛き女王からの『頂き物』を反芻する——————そんな心の音が聞こえる。
『その国を訪れた時、その門に至る前に、既に声が聞こえます。子どもたちの笑い声、活気のある働き手の声、赤子の泣く声、それをあやす母の声・・・・・門をくぐれば、さらにその音は大きくなり、その国のすべて私に教えてくれた・・・・』
いつもシルバー先生に我々は指導されている。自分の肌感覚から遠い言葉を使っては駄目だと。『悟性』と表現されるが、我々のそれに対する理解度は、まだまだ遠くシルバー先生には及んでいない。しかし直感として、自らの肌感覚が余りにも遠ければ、背丈よりも長いスプーンを用いて、スープを飲もうとすることと同じである。おそらくカミルは、今まで人形劇の劇団として渡り歩いた国々を、思い出していることであろう。
「声・・・」
今、体格のいい男の顔が見えた。明らかに先ほどまでの男の顔つきではない。この男もやはりカミルの言葉を反芻した。彼の目の前には、自ら使える女王しかいない。彼もこの時すでに、いつの間にか『従者』に配役されていた。
『しかしその国が、乱れているときはその『声』が聞こえる。他人を傷つける声。自らを賞賛する声。耳をふさぎ大声で酔った言葉を叫び続ける・・・そんな『声』』
女王の瞳に悲しみが宿る。聴衆のすべてに何かが思い当たる。
『その乱れは殺戮へと変わる。逃げまどう若者の声、母を探す子の声、懇願する女の声、そしてそれらを侵略し、弾圧し、蹂躙し、抑圧する『狂気の声』・・・・』
女王の瞳が怒りの炎が宿る——————
この戦乱の世の中で、一見平和に見えるこの街で、そのことを体感し、この街に逃げ込んだものが何人もいるはずである。彼らは今にも泣きそうな表情をした。
『平穏に感じられる国家でも『声』はある・・・・まだ小さいかもしれないが、いや!小さいからこそ大事にしなくてはいけない『声』
『明日不安に感じる声』——————
『不正に不快に感じる声』——————
『理不尽に不満を覚える声——————
その『声』が国家を表し、その『声』が国家を形成している・・・』
そこまで言うと、カミルはゆっくりと『体格のいい男』へと振り向いた。
『お前も国に仕える者だろう・・・・』
それは女王が、膝をつき忠誠を立てる叙任の騎士に投げかけるような・・・
『私の花をその剣で散らし、血で濡らしたとしても・・・幸せな『声』を守ってほしい』
カミルはゆっくりとほほ笑む。体格のいい男は力なく、それでいて、安らぎのある表情で憧れと恋のため息のような返事を・・・音にならない返事をした。
少し間が開いて
カラン カラン
まるで女王が城に戻る合図のように、この討論を終える鐘が鳴る。カミルはゆっくりと、席に着く。役に浸りきっている彼女は、決して私の方を見ない。自分の目の前に何の形だか分からない、イーヴァンも受け取った石が置かれると、カミルはそれをいとおし気に撫でた。
今度カミルに、どのように人形劇のセリフを覚えているのか聞いてみたい。




