第九章 第七節
フィリップは片膝をついて床を見つめている。顔は子供が泣きじゃくってようである。そこにゆっくりと、モルガンが近づいていく。
ぎ―― ぎ――
床のきしみが部屋中に響き渡る。入り口から出口に近いフィリップのところにたどり着くまで、シルバー先生はモルガンから決して目を話さなかった。近づくときも、横切る時も、通り過ぎる時も・・・・私はここまで執拗に一人を見続けるシルバー先生を見たことがない。モルガンはフィリップの前で立ち止まる。半分開いた目で見下ろす。
「お前は・・・・ふーーーー」
おそらく3階から降りてきたこの男が、私には何を語ろうとしているのかわからない。確かにこの辺りでは一目置かれた人物である。そのような雰囲気を醸し出している。しかしその年齢が80を超えており、その表情の激しさや心理的なブレなどが一切感じられない。そこから人物の形を作り出して分析するのは非常に難しい。シルバー先生はどのように見ているのか・・・・
「お前は・・・・・まだまだ、だな・・・・・」
怒るわけでもない。罵るわけでもない。まるで出来損ないの息子の前で、ため息をつくような。その中にどこか希望を持ち続けている・・・そんなふうに私には見えた。私は予想をしなかった。その後モルガンはこちらを睨みつけてきた。彼らが持っている組織の矜持がそうさせているのかもしれない。
「じじい、てめえプラノピトン(言葉で惑わす者)だな・・・・・」
どう考えても自分の方が年上のモルガンが、シルバー先生のことを『じじい』と呼ぶ奇妙さ。どう考えても今までの連中とは格が違う。しかし私の頭に一つの言葉がよぎる。先生はかつて「格が上のものが出てきたほうが、物事の論理に歪みが無いから交渉しやすい」という内容のことをおっしゃったことがある。その言葉が頭を通り過ぎると、急に私の中が再び冷静になる。
「てめえが・・・・何のつもりで・・・・俺らの『場』を荒らしてるか知らねえが・・・・」
モルガンが腰を落とし、フィリップが手放した剣を拾う。それから重そうな体をゆっくりと起こし、再びシルバー先生のほう向いた。確かに簡単な相手ではない。これだけ物騒なものを持っている連中が揃っておきながら、この全体をコントロールしているのがシルバー先生だと、モルガンはわかっている。すると先ほどまで無関心だった4人の部下たちが、それぞれ剣を取り出した。表情も全く違う。完全に尊敬し付き従うボスために、骨の髄から忠誠心を持って、目の前の敵に当たろうとしている。
「・・・・・・」
先生は一言も発しない。相手の出方を見ている?先ほどまで流れるように、すべて先生のペースで動いていた空間が、明らかに停滞の雰囲気を出している。これは先生が意図したものではない。しかしその状態の崩れを一切感じさせないのが、さすがと言えるところである。咳の一つも聞こえない、そんな時間が流れる。
「違う!この人は関係ない!」
沈黙を破ったのはカミルであった。
「俺たちがもともと、商売の話でモメテんだ。この人たちは関係ない」
モルガンは相変わらず、開いているのか開いてないのか、分からないような目で、カミルの方を見た。
「そうじゃ、こうやつらは昨日知り合っただけの連中じゃ。あんたが親分だな。あんたと初めから交渉してれば、こんなことにはならなかった。どうだ、改めて興行に関してわしらと話をせんか」
次に声を出したのはカミルの祖父だった。モルガンはそちらのほうにも目を移した。年齢はかなりいっているが、その割に頭の回転が速そうだということが、その表情を見てもわかる。
モルガンにとって、そのことは些細なことだと消化されているようであった。どんなことにしろ、自らの組織の面子を潰されたということが彼にとって、今現時点で最も重要であるということは変わりないようである。そしてその行為をした人物が、シルバー先生ということである。本来であれば武力で圧倒的力を示したはずなのに、なぜかその熱量と暴力性において、彼らの方が我々を上回っている状態にある。
「そうだな・・・・・・・じじい・・・・・・」
さっ
シルバー先生は左手を上げた。皆がそれに注目する。
「・・・・・・・」
モルガンも話しかけた言葉を止めた。
「イーヴァン、来なさい」
シルバー先生は突然自分の手元にイーヴァンを呼び寄せた。イーヴァンは瞬時に先生のそばへと跳ねて寄った。そこで先生は明らかに周囲に聞こえるように言った。
「あの男の足を払って倒しなさい」
「!・・・」
この場にいる全員が意表をつかれた。いや、ただひとりイーヴァンを除いて。彼はそれを聞いた瞬間、モルガンの部下達が防ぎきる間もなく、ザ!っと足元に滑り込み、彼の足を両手で抱え、自分の体重で一気に回転させた。
「!!」
モルガンの体が半身になると、そのまま手前に引きずる感じでネジ曲げて
ダン!
モルガンは地面に叩きつけられた。いや、元々足元がおぼつかない感じだったので、半分自重で倒れたようなものであった。誰もが・・・本当に誰もが想像しなかった状況である。私の目の前に広がる情景は、ある種の人にとってはとても暴力的に見え、それが先生の言葉から発した結果であると、受け止めることができない人の方が多いと思う。
一瞬だけ間が空き
「親分!」
部下たちが一斉に駆け寄った。地面に這いつくばっていたフィリップさえも、心配そうな表情をモルガンに向けた。カミルは戸惑いの顔を私に向け、カミルの祖父は怒りの表情を先生に向けた。
「おまえ・・・・」
顔を真っ赤にし、握りこぶしをしてカミルの祖父はシルバー先生をにらみつけた。だがやはり、私からしてもシルバー先生はまだ理解の遠いところにいる。先生はモルガンを見おろし、
「首を取らなかっただけありがたいと思え!私は武力においても制したと言ったはずだ!」
さらにカミルの祖父に振り向き。
「先ほどまで敵対し、威圧され、蔑まれていた相手に、目の前で起きた物事で左右され擁護に走るとはなんて愚かな!今私が、お前の孫であるカミル命令を与えたなら、その首を討ち取ることができるとまだ分からないのか!」
先生が言っていることが、現時点での現実において真実の方なのかわからない。しかし、これから完全なる反撃を繰り出そうとする人物を、その周囲の期待を、一気に砕く方法であることは間違いない。いや、先生の中でそうではない大きな流れが、存在とするということは感覚的に用いていないということである。先ほどまで大ボスモルガンの登場という空気感は、一瞬にして霧散した。
「く・・・・」
カミルの祖父は真っ赤に青色が染まり始めた。当然である。事実かどうかわからないが、家族として暮らし、長年一緒にいた孫に「お前の首を取らせる」と言ったのである。想像しがたい暴力的な言葉であるが、カミルが大きくその否定を示さなければ、肯定の流れになってしまう。この場における雲をつかむような力学の流れを一瞬で制御しきる・・・・モルガンの部下たちが構えた剣の構えにも鈍りが見える。この時点で先生の「この場を制しているのが自分である」というのを、実証してしまっている。
ガッ・・・ガ・・・
ゆっくりとモルガンは体を起こす。先ほどよりは目をはっきり開け、表情としては逆に落ち着いているように見える。モルガンはちらりと椅子に目をやった。部下はそれに気づき急いでモルガンの側に椅子を置いた。彼はドスンとそれに腰かけた。
「ふぅーーーーーー」
大きく息をはく。そこからは上目づかいに先生を見ると
「あんたの・・・・・要求は何だ・・・・」
言葉を2人の間に置くように言った。先生は返答に間を置かなかった。
「一座の中にいる、このカミルという人物・・・この方を交渉から外してほしい」
モルガンは少し周りを見渡す。彼がここまでの話の流れがわかっているわけではない。彼としては自分の庭で、明確に自分たちの顔に泥が塗られている状態をよしとはしない、ただそれだけだった。
「それで・・・・いいのか・・・・?」
すでにフィリップは立ち上がっており、並べられた机椅子のところに、頼りなさそうに寄りかかっていた。その彼に向かって、モルガンは質問した。
「は・・・はい・・・・」
歯切れは悪いが、意志としては明確であった。フィリップとしては、ただの商売道具とそれに対する交渉だけであった。まさかこんな面倒くさいことに、まさかこんな大ごとになるとは思っていなかったはずだ。
「うむぅ・・・・・・」
フィリップの言葉を受け、モルガンも了承したような返答をした。シルバー先生はカミルの祖父を見た。
「・・・・・」
カミルの祖父は何も言わなかったが、この場において沈黙は了とみなされるのは間違いない。
「あんた・・・・」
モルガンが先生に声をかけた。
「あんた・・・・つえーな・・・・・なあ・・・・聞いていいか・・・・・あんた、なんでそんなにつえーんだ・・・・?」
モルガンは先生のことを強いと言っている。平気で嘘をつき、トラブルに首をツッコミ、自分は闘わず他人に戦わせ、あまつさえ自分の身内では無い人間にも戦わせ、 80歳になる老人の足を掬って床に叩きつける。客観的な視点から見ればあまりにもひどい人物である。モルガンはこの人物を『強い』と表現した・・・・
「・・・・・・」
先生は何も答えない。モルガンはそのまま先生に質問を続けた。
「俺は昔から・・・・・国の偉い奴らが大嫌いだった・・・・金を持っている・・・持ち続けている連中が大嫌いだった・・・・・そのほとんどが・・・・・みんな弱い連中だった・・・・・だが・・・・・本当に稀に・・・あんたみたいなのがいる・・・・」
そう言うと、モルガンは驚いたことにカミルの方を見た。いや、じっと見続けた・・・
カミルも当然、その目線を強く感じてモルガンを見た。彼女もモルガンから目を離さず見つめ続けた・・・・モルガンの目は潤んでいた。その理解しがたい空気感に部下達は肩を落として自分の親分を見つめ続けるしかなかった。
「なあ・・・・・俺は・・・・・・・なにを間違ったんだ・・・・・・・」
次の日——————
広場には多くの民衆が集まっていた。昨日の倍はいるであろう。噂を聞きつけた周囲の町や村からも、多くの人が集まっていた。
人形劇の舞台は拡げられたままで、誰一人それに手をつける者はいなかった。舞台は整い、幕があく——————
ディー ディー ドゥディ ディーーー
バンドネオンの音が響く。舞台の正面には椅子が置かれ、モルガンが座っている。特等席だ。人形を動かす準備をしているグスタフ(カミルの父)の顔には曇りはない。自分の娘の最後の舞台を最高のものにしようという表情である。カミルもまた、今までの思い出を持って、最後の舞台を大きな目といっぱいに息を吸い込んだ胸で、幕が開くのを待っている。カミルの祖父は・・・・まあ、今の私をもってしても何と言っていいのかわからない表情をしている。納得はできないが納得するしかないという表情・・・・私たちはモルガンの隣に座らせてもらっている。私は後ろで良いと言ったのであるが、カミルとモルガンたちに言われ、さすがに断るのが違うのではないかと先生に諭された。ちなみにモルガンの部下達は私たちの少し後方に座っている。一番傷を負った大男だが、当然攻撃する際に致命傷は避けたことと、本人のガタイがかなり良かったことで、もうすでに舞台を見ることができるぐらい回復している。
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タァカタァカタァカ
「まてー!」
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金品を奪い去った男の人形が馬に乗って走っていく。彼の首には赤いリボンが巻かれている。
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タァカタァカタァカ
「まてー、盗人ジャン!」
「貴様らがこの『風の盗賊ジャン』に追いつけると思うか!」
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カミルの声がひびきわたる。とても一人で出しているとは思えない。いや、女性が出しているとも思えない男らしい声で、物語が始まった。
「!・・・・・」
隣のモルガンが、見るとひどく驚いたような表情でその舞台を見ている。先ほどまでは、多少楽しみにしている柔らかい表情があったが、緊張で頬の筋肉がぶれている。
「?・・・・」
気にしつつも、舞台の物語はそのまま続いていく。
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「そこに誰かいるのか」
「わたくしはとある王国の者」
「おっと驚きだ、お姫様がこんなところに捕まっているとは。大方借金のカタに売り飛ばされたんだろう」
「無礼者!」
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人形劇では『風の盗賊ジャン』が盗みに入った先で、とあるお姫様を見つけてしまうというシーンに差し掛かっている。
「ああ・・・ああ・・・・」
隣に居るモルガンが嗚咽ともいえる声を出し始めた・・・・・周囲の部下たちも、自分の親分の様子がおかしいことに気付き始めていた。そこからモルガンはじっと人形を見つめ続けた。そして時折、枯れた涙を流しているように見えた。
舞台の最中に声をかけるわけにはいかない。私たちはそのまま舞台に目をやり続けた。
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「ジャン!ジャン!」
「お姫様、なんでこんなところへ⁉」
「今カギを開けます!」
お姫様の人形が小道具の大きな鍵を持ち、ジャンの閉じ込められた牢屋を開けようとしている。
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物語は佳境に入っていた。助けたお姫様を国に戻したが、逆に盗賊ジャンが捕まってしまう。姫は国王である父親に訴えたが、それは認められないという一点張りである。
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「私を助けたらお姫様、あんたはただじゃ済まないだろう?」
「わたくしを助けた人を捕まえ処断することなどありえません。わたくしが正しくないのなら、正しさなんていりません!」
「お姫様、後先考えないのは良くない、明日が暗くなる」
「考えています!私はあなたと一緒に行きます!あなたとこの国を去り、あなたと生き続けます!その明日が暗いはずはありません!!」
盗賊ジャンの人形は、姫を掴み取るように抱き、馬に乗って疾走する。
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カミルの声が広場中に響き渡る。
観衆たちはその中に沈み込む。男性は決意を胸にし、女性は覚悟を持ち、男の子は憧れ、女の子は夢見る——————
カミルが自分の未来を切り開こうとした根底には、この物語があるのではないかと思ってしまった。彼は・・・彼女は果たして盗賊ジャンなのか、お姫様なのか・・・・
カミルの語り手としての言葉が流れる。
「それから2人の姿を見た者はいません・・・・・しかし彼らの明日に光が射していたことは間違いないでしょう」
幕がゆっくりと降りる。周囲から嵐のような拍手が渦巻く。カミルは清清しい顔をしている。彼の・・・彼女の幕もここで一度下ろされることなる。
モルガンはゆっくりと体を起こし、まるで子供のような目をして先生の前に来た。観衆たちは気にもしていなかったが、私達とモルガンの部下達は彼を見つめた。
「なあ・・・・・教えてくれないか・・・・俺は・・・・・・・なにを間違ったんだ・・・・・・・」
まだ日は高い——————