第七章 第二節
少し苔の生えた窓枠を、夕方になった涼しい風コトコト叩く。ペットが四つ並ぶその部屋は静けさに包まれていた。イーヴァンは、まだその幼い瞳を大きくして私の方を見ていた。私が大きく取り乱したところを見たのは初めてかもしれない。あるいは自分が想像し得ない様々な世界があることを、初めて知ったのかもしれない。その瞳はずっと私を見つめている。シルバー先生も静かに私を見ている。すべては静寂に包まれる。長い短い時間が続く。
「私は・・・」
静かに言葉を発する。どこかで風に吹かれて飛んでいた理性が、ゆっくりと羽を休める鳥のように私の頭の上に乗った。
「先生、私は私の家族を失いたくないと思っている。それが今、私の欲しているものだと、数として数えることができます」
先生は静かに聞いている。イーヴァンも今、何かを吸収しようと、空白を体の中に持ち込んでいる。私も急に視野が広がる。よく見るとこのテーブルはサントジャストの町で有名な波のデザインが施されている。薄く彫られたその模様に黒く塗装がされ、上からニスが塗られている。窓から入るオレンジ色の夕日が透明のニスの中に入り込み、まるでそこに湖の波間が見えるような気がする。そうか・・・確かに海も離れてはいないが、こんな波は湖のものに違いない。
私は再び静かに口を開いた。
「私には選択肢がいくつかあります。まず一つは、これからわが故郷アラモンに戻ること。もう一つはティボーに手紙を渡し、わが家族を守ってもらうようなことを綴ること。もう一つは・・・・・」
私は言葉に詰まった。ふたりは静かに待っている。
「いや、違います・・・私が今話したことは、何一つ私の目的を達することはできないでしょう」
「ビル。あなたは今、思考の入り口にも立てていません」
私は言葉を続ける前に、シルバー先生が話し始めた。
「物事を考える起点はなんであるか、覚えていますか?」
「何のために・・・です」
「そうですね。人は心で動いています。自分であれ他人であれ『意志』が最も重要な要素と考えます。今あなたは、一番はじめに自分の『意志』を明確に示しました。あなたの家族を守りたいと」
「はい」
先生と対話をすることで、私の思考に血が通ってくる。
「では、その『意志』に沿うために、客観性を持って順序立てて組み立てていくのです。この客観性が失われれば、全ての方向が間違った状態になります。では聞きます。客観性とはどういうことか覚えていますか?」
「それは・・・」
私は先生から教わり、自分の中で整理されたものを言った。
「『客観性』——————1つ目は盤面を見るということです。どのコマとどのコマがどのように関わっているのか、相互の力学を正しく解析し、関係性を明確にすることです。 2つ目はその盤面を自分の立場、相手の立場、第三者の立場でどのように見えるかを思考することです。 3つ目は、時間が経つとその盤面がどのように変化をしていくかを、シュミレーションすることです」
「その通りです。では、一つ目の相互力学に関して客観的視点で見てみましょう。あなたは今、自分の家族が殺されるかもしれないと思っています。ではあなたに質問です。あなたの家族が相互力学の見地から殺される理由は存在しませんか?」
シルバー先生は、私にこう聞いているのである。「あなたの家族は殺されて当然である。このことを否定する理由が、現在の現実に存在しますか」
私はこのような思考に至るまで、あとどれだけの年月をかけなければいけないのか。おそらくシルバー先生は、この客観性を自らの家族にもあてはめるであろう。その行為はある人たちの視点から見れば、恐ろしいほど冷酷な思考であると捉えられるかもしれない。私の家族が殺される理由・・・・・
「私の家族は・・・・決して貧しくはありません・・・いや、今言葉を濁しました。その町で確実に裕福な部類に入るでしょう。それゆえ学問を学べる機会が多くあり、伯父がウルビスとしてアラモンを統治し、私もアカデミーで学んだ後にウルビスに就任する予定でありました・・・」
先生は黙って聞いている。私は自らの口で自分の家族が殺される理由を、いや殺されても仕方がない理由述べ続けるという・・・とても言葉では表現できない、常軌を逸脱した言動している。
「つまり・・・これが特に権力を持たない町の人であれば、殺される理由など、どこにもなく・・・」
突然、自分が発した言葉に反応してしまった。『権力』?・・・シルバー先生が以前におっしゃられていた言葉が頭に蘇る。争いが起きる中で『利を欲する者、快楽を欲するもの、そしてそれを無責任に煽る者。実はこの3人しか存在しない』という言葉である。つまり私の一族は『利を欲する者』——————「権力者の後には次の権力者がいるだけです」とその後続けて言われたことが、頭の中ではっきりと思い出される。前の権力者から我が一族が奪い、次の権力者がそれをとるだけの話・・・
「先生。私の親兄弟を守るためには、ビクターに反逆の意思がないことを示すか、アラモンから急いで身を移す・・・そうだ、あれだけ感謝の意を示してくれたのであれば、領主アルフレッドがかくまってくれるかもしれない。」
くく・・・
急にシルバー先生が笑いを堪えるような態度を取られた。私もイーヴァンも思わず見てしまう。
「あ、いや申し訳ない。ビルの言葉を遮るつもりはなかったのですが・・・その、あれだけアルフレッドに対して、憤りの感情を持っていたのに、盗人と罵っていたのに自分の都合で家族を匿ってもらおうという・・・・いや・・」
私は急に恥ずかしくなってしまった。
「いや、本当に申し訳ない。ビルは今、その自己矛盾をどのように考えていくかを、私のもとで学んでいるのです。不可抗力とは言え笑ってしまい申し訳ありませんでした。ただいま現時点で、あなたは客観性からは漏れている視点があると、やはり思いました」
「それは・・・」
「あなたが先ほど挙げた『客観性』の2つ目——————立場を変えて考えるという部分です。あなたがビクターの立場で相手が、「反逆の意思はありません」と言ってきたら。『そうか、それはよかった』と納得しますか?ほかの街に逃げて『これで安心だ』と思うと思いますか?」
そんなわけがない。特に別の場所に逃亡すれば、反逆の意思があると受け取られても仕方がない。おそらく追ってでも命を取りにくるであろう。
「相手の立場に立つことを考えないと、それだけ本来の目的からずれてしまうのです」
「では、私の家族が全ての財産をビクターに渡し・・・」
「自らの力を安易に手放すようであれば、相手に権力を渡すだけと同等です。あなたは今、相手側の警戒心、つまり不安を取り除こうとしています。疑り深い人間が——————己の目的のために人を殺める人間が、警戒心や不安を消すことができるのでしょうか?」
「え・・・・」
それはそうだが・・・つまり?・・・まさか・・・・
「そうです。相手の不安を消そうとしても、結果は何も変わらないでしょう。つまり相手をより不安にさせるしか方法はないのです。このことを直感的に把握できないと、いろいろ厳しいでしょう。」
先生の思考の幅はあまりにも広すぎて・・・・
「よく覚えておいて欲しいことがあります。多くの人が不安に巻かれています。理由はほとんどの人が本当に存在する世界を、見ているようで見ていない、聞いているようで聞いてないからです。彼らは目の前の現実を受け入れながら生きていることはほとんどなく、自分の作り上げた妄想の中で生きています。以前お話した3つの世界で言うと、主観の世界、つまり『思い込みの世界』が全てを占めています」
先生から言わせれば、私もその「思い込みの世界」がまだまだ強い。すべてを否定していることをすべて肯定するぐらいの、無限の空間のような感覚がないと、どうしても自由であるはずの思考は、その形を見せてはくれない。
「あなたの頭の中は、すでに思考を深めるにはいっぱいになりすぎています」
シルバー先生はそういうと自分のバッグの方に向かい、中から紙とペンを取り出した。イーヴァンは初めて大きく息を吸った。ここまでの緊張した空気と、自らが何らかの形で、この目の前に起きている物事を、とらえなければいけないという直感めいたものに、彼自身が強く固められていたのだと思う。
そうしている間に、シルバー先生は丸テーブルのところで文字を書きはじめた。おそらく誰かに宛の手紙——————誰か・・・ビクター・・・わが父・・・
先生は静かに筆を置く。ゆっくりと息を整える。紙を上下逆にし、特に言葉を発することなく、私に読むように促した。
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ビクター殿
この度、ウルビスに就任されたこと、本来であれば直接お祝いを申し上げるところを、このような書面の形になり大変申し訳ありません。今、弟子として私のそばに居るビル・フィッツジェラルドが本来その役割を果たすべき責務を負っておりましたが、以前から師事しておりましたわたくしのもとに身を置くとなり、結果的には職務を投げ出す形になったこと、貴殿とアラモンの多くの方に、ご迷惑をおかけすることになりましたこと改めてお詫び申し上げます。旅が一度落ち着き首都アゼネイエに戻りましたところで、貴殿がアラモンを素晴らしく統治されていることを中央政権に伝え、その御恩に報いる形になれればと考えております。
この手紙、時が来るまでお手元に行かなかったこと、賢人である貴殿であればお察しいただけると思っております。
——————エンドロゴス シルバー
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エンドロゴスというのは、<深い思索者>というシルバー先生のような人たちの総称である。先生はこの手紙を丁寧に折り、封筒としての紙に入れた。さらに別の封筒としての紙に入れて二重として、「ビルのお父様へ」という宛名で封を閉じた。
「ティボー殿を長く待たせてしまいましたね。さあ、行きましょう」
シルバー先生は私とイーヴァンに促した。窓の外は夕日が深く沈みこんでいた。
決して新しくないこの建物は、 3人が階段を一度に降りるとそのキシミ度合いが強く、音がさらに響き渡る。テーブルが五つはある、割と広いラウンジにティボーはこちらに背を向けて座っていた。が、我々が降りてきたのにすぐ気づき振り向いた。先頭を歩いていたシルバー先生は
「大変お待たせしました」
と、笑顔でティボーのテーブルの側まで向かった。
「いいえ!大事な話だから時間がかかるのは当然ですね!」
シルバー先生はティボーの正面まで来て、その席にゆっくり座った。わざと間を使っているのである。ティボーが言葉を受け入れる状態に少しでもするために。
「ティボーさん、ここまでおいていただいて大変申し訳ないのですが・・・」
先生はまたここで間をあける。文脈からするとすでに否定の文章になっているゆえ、私がウルビスそして帰郷することを断ると明言しているようなものである。しかし実際にはそれを聞いているはずのティボーはそう思っていない。私もここまで先生についてきて『基本的に人は人の話を聞くことができない』ということが身に付いてきている。いやそれを望んでいるのではない。それが現時点での現実なのである。人は自分の欲する未来の状態のみで頭がいっぱいなのである。にこやかな表情のティボーに先生はつづけた。絶妙なる一拍を開けて。
「我が弟子であるビルはアラモンには戻ることができません」
一瞬だけティボーの表情が曇る。本当にほんの一瞬である。しかし永遠のような一瞬である。
~~~~夕日に広がる 波の音
私とあなたの 地平線
少しずつ遠く なっていく
私はあなたに 届かない
二つ離れた席で、若くて髪の中に男性の吟遊詩人が歌い始めた。「カリヤルド」と呼ばれている楽器で、彼らがよく使う。本当に波の音が聞こえてくる感じが・・・
「そうですよね・・・もちろんそうです!ビルはシルバー先生という素晴らしい人について勉強しているんですから!」
ティボーは私の方を向いて。
「悪かったな、突然お前のところ来ちまって」
彼はもともと、伯父の死を報告しに来ただけと言っていた。しかし本当は違った。ひょっとすると、いやひょっとしなくても私の両親は、私が故郷に帰ってくることを強く願ったのではないだろうか。 2人にとっては伯父の死も、ビクターの乗っ取りも、私が手元に帰ってくる口実でしかないし、そうなれば他の事ではどうでもよいと思っている・・・・
両親の思いに胸が締め付けられる・・・感情的になるなと言われても、どうしても感情的になりそうな衝動に駆られる。
・・・・それは・・・最悪の結果をもたらします・・・
「そこでティボーさんにこの手紙を、ビルの両親に届けていただきたいのですが」
シルバー先生はそういうと封筒を渡した。
「分かりました、お安い御用です」
「もう一つ大変わかりにくいお願いがあります」
「はい?」
ふいに出たその一言にティボーの失意が完全に見えた。いよいよもって、私が帰る希望はないと思ったのであろう。
「この手紙は絶対開けないでくれとお伝えください」
「はぁ?・・・ビルの親宛ての手紙なのに、ですか?」
「はい、これは絶対開けないでくれとお伝えください」
シルバー先生はまるでオウム返しのように言葉を重ねた。
「わかりました。開けてはダメなんですね?」
「はい」
~~~~遠くになって もう見えない
私とあなたの 地平線
また私の耳に吟遊詩人の声が聞こえて、ゆっくりと消えていった。先生はその歌が聞こえる方を少しみたが視線を戻し
「今晩はビルと二人で語り合い、体と心を休ませてください」
ティボーに気を使うような言葉をかけられた。
~~~~もうずっと遠く なっていく
私はあなたに 届かない




