第六章 第三節
「うわー、すごくいいじゃん」
なんとか宿を見つけ部屋の中に荷物を置き一息ついた。 2階の奥の部屋で窓を開けると下に小川が見える。小川といっても水量はかなりあり、近くでは水車も回っている。
「随分うるさい部屋なら空いてるが、それでもいいと言うなら安くするよ」
口髭を蓄えた宿屋の主人か、少し申し訳なさそうに我々に言った。
「とんでもないです。少し滞在しなければならない分、安くしていただいて助かります」
私は丁寧にお礼を言った。そしてこの部屋に入ってきたのである。イーヴァンは随分とこの部屋を気に入ったみたいで、窓の風景を眺めている。
「確かに良い風景ですね」
シルバー先生もイーヴァンの後ろから外を眺めっていた。夕日の沈むほうが見える。林に囲まれて見えにくくはあるが、遠くにあるはずの湖がその存在を水面の反射で教えてくれている。わざとらしく作られた風景よりも、我々が見ているこの景色の方がとても自然的で美しい。絶景ではないこの奇跡的な一瞬の世界がその素顔を見せてくれることに、我々が生きている世界の美しさをまざまざと見せつけてくれている。
「カニ!」
突然イーヴァンが子供らしく叫んだ。私は窓の外にある川に、カニがいたのかと思った。
「じいちゃん、カニ食べよう!カニ!」
「ああ、先ほど買ったムーンシェルですね」
シルバー先生はニコリとして答えた。そうだ確かに、温かいうちに食べよう。この宿に着くまでに露店で食べ物が売っていた。しかも『ムーンシェルカニ』である。ジロードの街で食べたいと思っていた海産物の中の一つだ。私はかつて、首都アゼネイエで一度しか食べたことない。しかし、私が麻袋の中から出したオレンジ色の甲羅は、今でも鮮明に覚えている。水の中に居る時には表面が非常に微細な銀色の模様に見える。それが夜の月明かりを浴びると、まるで月が写り込んだように綺麗に見えることから『ムーンシェルカニ』という名前がついたらしい。そのことをアカデミーの誰かが(その生徒はこちらの地域の出身だったと思う)話していたのを思い出す。もちろん蒸された後は銀色ではなく、このようにオレンジ色になるのだが、実はこの状態の方が光をよく反射しキラキラと光る。今まさに落ちようとしている夕日と重なり、なんとも贅沢な食事をさせてもらっている。
「プリプリしててすごく美味しい!」
イーヴァンは口の周りにカニをつけながら食べている。彼らの民族でも蟹はよく食べるみたいだが、ファンジャス湖の固有種であるムーンシェルは食べたことが無いようである。
「とても美味しいですね。しかもそれほど高くない値段で売られているのは大変ありがたい」
「ここの特産物ですからね。地元だからとても安いんだと思いますよ、先生」
あまりにも美味しすぎて思わず甲羅の裏側も舐めたくなってしまう。しかしそれはあまりにも行儀が悪いと思う。と思っているとイーヴァンはなんのためらいもなく甲羅の裏側を舐めている。とても羨ましい・・・
私も窓際に来て下の様子をみた。この宿屋は街の南に位置しており、いくつか水産物の加工場と思われるところがみえる。その中には魚を干しているエリアがあり、何の種類かわからないが、手のひらよりも大きい魚がずらりと並んでいる。
「先生、夜になっても建物の中に入れず、このまま干してあるみたいですね」
「それでも盗まれないということは、治安がとても良いということでしょう。湖の恩恵を受け、海運の経路を確立し、学ぶべきためのアカデミーもある。非常に豊かに見えますが、一方でひとたび戦争が起きれば、首都アゼネイエの防衛ラインとして多くの血が流れる場所になる・・・その時世の『傾き』によって姿を変えていく・・・ 」
「よくわかんないけど、じいちゃんは話をする時、いっつも暗そうだよな」
イーヴァンがいつものようにちゃちゃを入れる。いや、意外と本当のことを言っているかもしれない。
「ビルさーん」
下から声がする。宿屋の主人の声である。私は慌てて下に降りていった。
「どうされました?」
「あんた達のお客さんだよ」
私は慌てて外に出た。そこには小間使いっぽい男の人が立っていた。
「シルバー先生はここにおいでですか」
「はい、そうですが」
「いや、良かったです。探したんですよ」
「あの、どちら様でしょうか?」
「ルイさまからお聞きしまして。この街にシルバー先生がご滞在ということで。是非うちの主人がお会いしたいと申しております」
「今からですか?」
「はい、ご都合がよろしければですが」
完全に断りづらい空気感を出している。
「場所はどの辺りなのでしょうか」
「アカデミーの西側にある・・・」
「アカデミーの方ですか!?」
思わず大きな声を出してしまった。だめだ、決して感情的になっては・・・
「ちょっとお待ちいただけますか」
私は自分の冷静さを保つためにも、一度部屋に戻った。
「シルバー先生、今から先生に来てほしいという方がこられているのですが」
「そうですか・・・では参りましょう」
「え!先生、行かれるのですか」
「おそらく、そのような人が訪れると思っていました」
ルイという人物が触れ回っているのであろう。これで先生の宿の居場所は知られてしまったし、このような人は一人だけではないかもしれない。だからと言って無下に断ることもできないだろう。
「イーヴァン、申し訳ないが留守を頼まれてもらえるかな?」
「わかったよ、荷物を持って何往復するものも大変だろう。俺はここで待ってるよ」
いや、あの距離を何往復もしたいとは思わないのだが。しかし先生は、このような来訪者が来ることは充分に考えていたらしい。
実際に『鹿の日』の直前まで、このような人はひっきりなしに先生のところに来た。そうしたいわけではないのだが、休むところを提供してくれたり、食事を振舞ってくれるのであればまだわかる。(随分卑しい考え方だが)しかしそのほとんどが、先生をただ直接見てみたいという欲求に駆られた人たちばかりだった。まるで見世物である。しかし先生はそれに文句ひとつ言わず、なんとなく会話をした後、そのまま宿屋に戻り、またあるときは別のお宅を直接訪問した。さすがに講演会の前の日は『明日があるので』とお断りした。その少し時間があいた時、イーヴァンがどうしても湖が見てみたいと言い、 3人で港に向かった。
ジロードの港は思いのほか大きかった。巨大な湖のほとりに、木製の桟橋かずらりと並んでいる。穏やかな波に桟橋が打たれ独特のリズムで音を立てる。その音が心地よく響き渡り訪れる人々をまろやかに包み込んでいく。対岸にあるはずのペロリックの町は、あまりにも遠く霞んで見えない。しかしもう少し日が暮れると街の明かりが見える、と宿屋の主人が言っていた。
「漁船の船が多いですね」
私は日の沈みかけた港を見ながら先生に言った。
「奥の方に石造りの桟橋が見えますね。おそらくあそこには、大きな船が寄港するのでしょう」
先生がおっしゃることを示すかのように、その近くには倉庫のようなものが並んでいる。その隣には天井が高い建物————————おそらく市場であろう。日が昇るより早く来ると、おそらく多くの海産物がそこに並んでいるのであろう。
「先生は講演会のようなものを時々されるのですか?」
「そうですね、何度かは」
「突然このような形で頼まれて、どのようなことをお話しされるのですか?」
「それはぜひ、明日のお楽しみを取っておいてはいかがですか?折角あなたも聞かれるのですから」
ぷっちゃんーーー ぷっちゃんーーーー
桟橋に波が当たる音がする。
「私は多くの聴衆の前で話をすることをあまり得意ではありません」
先生はそう静かに言われた。
「確かに・・・先生は常に『何のために』ということを大事にされます。あまりに多くの聴衆がいると、その目的は多岐にわたり、どこに照準を合わせていいのかがわかりにくいですよね」
「そうですね。わたしがどうしても苦手意識を持っているせいか、深く考えすぎるのかそうでないのかに別れてしまいます。私はかつて講演を求められ、それを行った際に、途中で退席される方々が多かったことがあります。」
そんなこと失礼なことをすることがあるのだと驚いてしまう・・・
「その講演の後、残った人々に私はこのように聞きました。『途中で多くの方が退席されたが、皆さんはなぜだと思いますか。是非わたくしの勉強のために聞かせてください』と・・・」
先生はそんなことを聞くのか・・・なんだかそれだけ自信がない先生を見たことがない。
「残った方々は、私にこう教えてくださった。『先生のお話はすぐに使えない気がしたからです』————————「すぐに使えない」その言葉の意味を私は探らなければなりませんでした。私自身比較的、今すぐにでも使える、物事の考え方をお伝えしているつもりでした」
確かに・・・先生のお話はどちらかというと実践にかなり近い。
「わたくしがそのように考えているとお伝えすると、彼らはこのように言いました。『そういう意味ではなく、簡単に使えないという意味です。何か『ひと言』で『すべてうまく行く』ような事を教えていただければ——————彼らも私たちもそれを期待していました』と・・・」
私は一瞬耳を疑った。大して面白くない冗談である。本当にそのようなことを言ったとは到底思えない。
「彼らが私に求めていたものは『魔法の杖』のようなものでした。それを一振りすれば全てうまくいく。なんでも手に入る・・・」
先生が伝えていることは、それと真逆のことであった。何もしないで手に入るなどということが存在しない——————それが先生の教えである。
イーヴァンは、ずいぶん向こうの桟橋で何か下の方を眺めている。生き物を見つけたのかもしれない。
「当時私もまだ若かった。次の講演の時に、私は自分が座るために置いてあった椅子を聴衆の前で壁に叩きつけたのです」
え・・・・先生が?
「そしてこう言いました『あなた達が私に望んでいるのは、ただの見世物です。この場だけ面白ければよいと思っているのです』と・・・」
想像ができない。先生がそんなに荒い事を・・・
「今考えても、その私の行動はよくはないことだと思います。」
風が少し冷たくなってきた。静寂の中で波の音だけ聞こえる。
「少しだけ教えていただけますでしょうか?」
私は先生に問いかけた。
「はじめお話された内容としては、『彼らが非常に都合のいいものだけを求めている』と思いました。しかし先生は、次に彼らに対して『私は見世物だ』と言われました。何か道が一本ずれているように感じてしまうのですが・・・本来であれば彼らに『そんな便利なことはない』と怒ることが筋だと思うのですが・・・」
静寂が響き渡る——————
「彼らはそれを求めているようで、その実は何も求めてないのです。あなたは彼らが本当に「魔法の杖」が存在すると思っていると思いますか?」
確かに・・・彼らにそれを問えば「そんなものはあるはずない」と小馬鹿にして帰ってくるであろう。
「でも実は、心のどこかで求めている。そんな現実と夢の感覚が入り混じり、その瞬間その瞬間で語る言葉もロジックも、出ては消え、消えては出る・・・これを一生繰り返しているのです。つまりどうであれ、その瞬間に彼らを楽しませることができるかどうか、それだけなのです」
「それでどうなったんですか?」
夕日は完全に沈んだ。宿屋の主人が言っていたように、対岸の町がその明かりによって姿を現した——————
「それはもう、おおいに盛り上がりました。彼らは拍手喝采です。その講演会のあとそこのアカデミーでは椅子を壁に叩きつけるのが流行ったらしいです」
——————私の中にまるで何も入ってこない。だが想像してみる。私が今まで生きてきた中で、こんなことが絶対ありえないと思うだろうか。いやむしろ充分にあり得る。それがこの世界ではないか・・・
狂っていることが正しい——————
私はこんな思ってはいけない言葉が一瞬だけ頭に出ていた。
「ビル!蟹だよ蟹!この間食べた蟹がいるよ!」
イーヴァンが大声で指を差しながら、反対の手で手招きをする。
先生はゆっくりとそちらの方に向かう。
カツン、カツン
桟橋を叩く先生の杖の音が、先ほどよりも私の耳に澄んだ状態で入ってくる。
明日は朝早くアカデミーに向かわなければ・・・そんなことを思いながら、私もイーヴァンの方に向かった。彼の足元でムーンシェルがキラキラと輝いている。
この世界とても美しい——————




