第五章 第一節
私は今オークの木の下にいる。側でシルバー先生が簡単な竈お使いお湯を沸騰させている。私は初夏の緑の草の上に寝転んで、荒い息をしている。イーヴァンが合流してからすぐに私は高熱の症状に襲われた。幾分か休めば回復すると思っていたが、それと相対し状況はますます悪化。大量の冷や汗が流れ、吐き気をもよおし、ついには一歩も動けなくなってしまった。なんとも情けない状態である。シルバー先生と旅をするようになって、一時たりとも心の休まる状況はなかった。それでも自分は、若さという最大の武器があると思い、間違っても初老の先生よりも先に疲労で倒れると思ってもいなかった。もちろん先だって随分と痛い目にあわされ、体中に傷を負った状況もあるかもしれない。しかしここまで体の節々が痛み、一歩どころか半歩でさえ前に進めなくなると思いもしなかった。
シルバー先生がお湯を沸かしているのは、イーヴァンに指示されたからである。この点においても全く私が想像していなかった部分である。まだ十歳にも満たないようなその少年が、私が倒れた時にその症状を窺い、即座にシルバー先生に指示したのである。
「こいつは体の節々が悲鳴をあげるんだ。 3日間狩りに行った時なんかによくなる症状だ。」
「ただの疲れや病気などとは違うのかね」
シルバー先生は、十歳に満たない子どもに対してまるで大先生に質問するように、非常に丁寧かつ尊敬の念込めて質問した。それに対して意外なことに、全く自慢の表情をしないイーヴァンに私は驚いた。彼らの民族がおそらく、我々の思う一般的な人々に、その知恵を与える機会というのは比較的多くあったと思われる。
「汗のかき方でわかる。ほら、体のいろんなところから出てるだろ。これはどっかが悪いっていってるんじゃないんだ。全体のバランスが壊れてるんだ。」
当然、イーヴァンの答えは医学的なものではない。だが、これだけ骨の髄から体が悲鳴をあげている時には、彼のその自信を持った発言は非常に心の支えになり、それだけでもどこか「大丈夫、このまま死ぬことはない」という安心感につながっている。
「とにかく俺は草を探してくる。じいちゃんはお湯を沸かしてくれ。」
「どのくらい沸かしとけばいいかな」
「本当はコップ一杯あれば大丈夫だけど、煮込んでるとどうしても水がなくなっちゃう。一番大きい器どれ?」
「火にかけることができる器は一番大きくてこれだと思います」
「ちょっと多いかもしれないけど、それでお湯を作って」
正確には『(器が)大きい』であって、できるお湯が『多い』と混ざった文章で答えている。イーヴァンの言葉はまだ拙く、正しくない表現や所謂『とび言葉』(表現したいことが飛んで繋がりあっていること)が多い。もちろんそんなことをいちいち指摘はしないが。
イーヴァンは急いで走り出した。どこか目的地があるのかわからないが、おそらく薬草を探しに行ったのであろう。それから幾分か時間が経って、行った時と同じ元気な足取りでイーヴァンが戻ってきた。私は薄目しか開けられないので正確な状況は分からないが、声は比較的はっきり聞こえているので、ぼうっとした頭の中、やり取りの声を頼りに想像していた。
「この草を煮込めば良いのかな?」
「じいちゃん、あわてんなよ。」
イーヴァンがシルバー先生のことを「じいちゃん」というのはどうもイマイチ慣れない。
「まずはこの草を潰すんだ」
「黄色の斑点があるこちらの方かな?」
「そうだ。そいつを潰してから少しだけ水につける。その後その水と一緒にお湯の中に入れるんだ」
見えはしないが、先生のこの間の空き方からすると随分と興味と関心を持っているのであろう。
「潰すのはこれを使っても良いのかな?」
おそらく先生は乳鉢と乳棒を取り出したのだろう。私は時々先生が、宿屋にてその道具を使って薬草を潰しているところを見たことがある。
「それでうまく潰せるんだったらそれでいいよ。でもその辺の石でつぶしたって、大したことないよ。ちょっとぐらい土を飲み込んだって死にはしない」
いや、それは勘弁してほしい。先生、ぜひ乳鉢で潰してください・・・
「そっちの方が熱を下げる薬で、こっちの方が痛みを和らげる薬なんだ」
イーヴァンはもう1種類の草も採ってきたらしい。
「私はその草を見たことがないのですが」
あれだけ旅をして、さまざまなことに興味ある先生がはじめて見るとは・・・
私は強い興味を持ち、頑張って目を開けその草の方を見てみた。銀色で随分と細長いものである。
「そっちが『エレリス』こっち側の細いのが『サリム』って言って、サリムは水の中に生えているんだ。こいつはすり潰さないで細かく刻んで、さっきの草と一緒に煮込むんだ」
なるほど、顔を出して泳ぐことあってもなかなか潜って観察したりすることはない。いやまて、ということは・・・イーヴァンはそれを取るためにわざわざ川に潜ってきてくれたのか・・・
少し時間が経過した後、なかなか苦そうな匂いが漂ってきた。私はそれを飲む前から随分と苦い顔をしたが、いざ飲んでみると想像していたよりもずっと透明感のある味だった。その安心感もあってか急激に眠気に襲われ(先ほどまでは体の痛みで眠気どころではなかった)そのまま長い間深い眠りに入っていたようである。
すでに夕暮れに差し掛かっていた。しかし、ラトールの村まではもう少しの場所まで来ていた。歩いている私たちの目の前には、もうすでに収穫時期に近づいている小麦が一面に広がっていた。私はふとしたことを口にした。
「小麦の収穫時期はもっと後だった気がするのですが。」
即座にイーヴァンが口を差し挟んだ。
「ビルは何も知らないんだな。これは冬小麦だよ。寒さに強くて冬の時期から種をまいている。今頃収穫するやつだ」
なんとなく聞いたことはあったが、そこまではっきりと知識としてもっていなかった。ほとんどの家がそうであるように私の家農家であった。ただその中でも地主の方で、私自身学問に時間を使わせてもらい、ほとんどその手伝いをしたことがなかった。
「つまり年に2回とれる」
「味も全然違うんだぜ」
なんと、そんなことさえ知らなかった。
「たしかパンなどは冬小麦で、お菓子類は春小麦の方が良いと聞いたことがあります」
「さすがじいちゃん」
私はイーヴァンが我々に加わってから「これから私がイーヴァンの指導者になって、いろいろ教えていかない」と思っていた。もちろん物の考えや世間で知られている常識に関して言うと、私が教えることができるものも多ければ、言わなければいけないことも沢山ある。しかし私の方がさっそく倒れてイーヴァンに介抱され、今のところ身の回りのことに対してイーヴァンのほうがよく知っている。なんだかここで偉そうなことを言うと「何を言ってんだか」と思われそうで、随分とタイミングが悪い状態になっている。
「イーヴァン」
シルバー先生が口を開いた。この静かな入りは大事なことを話される流れである。
「あなたにとってはまだまだ難しいことがたくさんありますが、それぞれの機会で大事なことは言っていこうと思います。他人に知識がないことを非難したり、蔑むような言い方はよくないですよ。」
私に対して「そんなのも知らない」と言ったことに関してであろう。
「はーい」
適当な返事をしたイーヴァンに対して、何も言わず先生はまた歩き始めた。
え、終わりですか先生。ずいぶん私の時と違うのですが。まあそれはそうであろう。十歳に満たない少年に対して、これ以上言うことになんの意味があろう。先生はむしろその辺を充分には考えていらっしゃる。もちろん私の時はどんどん私に説明し、どんどん私に質問してくる。あの鞭打つような感じをイーヴァンに対して望んでいるわけではないのですが…
随分と風も冷たくなり日も沈みかけてきた。村に着き家々が見えてきた頃、私たちはいつものように泊めてくれそうな家を探した——————
「いやあ、泊めてあげたいがさすがに3人となると」
これで断れるのは三軒目である。
「いえいえ、こちらこそ無理なお願いをして申し訳ありませんでした。さあ、ビル、イーヴァン、行きますよ」
シルバー先生は我々に促した。今まではこのようなことがほとんどなかった、どこも一人は泊めてもらえるスペースがあったし、場合によってはそのスペースに無理やり2人でも泊まればよかった。しかしこれが3人となると話は別である。その人数に多くの人が大変さを感じ、それなりに拒む空気感が出てしまう。もちろん人数をバラバラにすればいいのかもしれないが、であれば安全面を考えて野宿をする方が良い。それは今までの経験上必ずしも、人の家に泊まったほうが安全とは言い切れないからである。
「オレがひとりで外に泊まるよ」
イーヴァンが言った。
「イーヴァン、それはよくないよ」
私はそう言った。
「なんでだよ、オレは今までほとんど外で寝ていたんだ。あんたたちと違うんだぜ」
「それはそうだけど…」
私は思わず言葉に詰まってしまった。
「不思議なものですね」
シルバー先生がそう口を開いた。
「じいちゃん、なんで不思議なんだ?」
私が思考を始める前に、イーヴァンはどんどんとシルバー先生に聞いていく。
「ビルは私と話すとき非常に高い緊張度を持って、言葉を選びながら話します。そして問われたことに対して何を話すべきか、どこに本質があるか強い集中力を持ってそれを求めようとします。しかし今、ビルがイーヴァンと話しているのは本当に何でもない日常会話をしているようで、今晩どこに泊まるかという比較的重要度が低くないときも、その空気感を保ち続けているのがとても不思議だと言ったのです」
私は先生のおっしゃったことが内容も肌感覚でも理解したが、イーヴァンは途中から全くわかっていないようであった。
「先生はつまり、私が真正面からイーヴァンに対して答えてないとおっしゃるのでしょうか?」
「先ほどイーヴァンはとても良い質問をしました。ビル、彼が言ったように彼はこれまでずっと野宿と言っていい生活をしてきました。もちろん見知らぬ土地ではありますが、我々が野宿をするのと意味が違います。あなたがイーヴァンだけを野宿させることにためらっているのはどのような理由でしょう?」
「それはもちろん、 3人で行動している方が安全で、少なくとも少年である彼だけ外に放り投げることは非常に危険だと思ったからです」
先生はしばし沈黙された。この沈黙の空気はよくない方の流れだ。もちろんそれは私にとってのことである。私は感じている。今まで先生と2人だけの圧倒的に高い緊張感の中だったことを考えると、イーヴァンが加わってから全く空気違う空気感が私の周りに漂っている。それが分かっていても、私自身それをコントロールできてないのも、今考えればわかる。
「まずそれは自分自身で本当の答えだと思っていませんよね。それがどうしても言葉の中に表れています。故意に「放り投げる」という、誰にでもひどいことをやっているという印象に持たされる言葉をわざわざ入れています。このあたりのことに対しては、もう注意を払うことができると思っていたのですが・・・」
また怒られてしまった。イーヴァンは私に対する説教が始まったと思い、つまらなそうに足元の石をコロコロ転がしている。イーヴァンにとっては私の答えなど本当にどうでもいいと感じられる。
「もう一度答えてください。あなたはなぜイーヴァン一人で野宿させることに反対をしているのですか」
自分の裏側にあるものを以前よりはすぐに見つけることができるようになった。
「まだ幼いイーヴァン一人だけ外に野宿させておいて、大人である我々だけがベッドで寝ることに対してどうしても抵抗があるからです」
「そうですよね。」
先生はまた一つ沈黙を作った——————
私が答えたことが本質であると確定して据え置かれた形になったが、やはりイーヴァンにとってはそんなことはどうでもいいような表情をしている。「早く終わらないかな」彼の顔にはそのことしか表情に出てない。
「あなたはアレルの街で子供達が牢に入れられて運ばれているのを、怒りの表情で見ていました。当然そのこと自体を大きく否定するものではありませんが、それだけの視点では、往々にして解決に導かれることは少ないでしょう。」
そういえばそのことをいろいろ考えていたが、まだ私の中で何かが腑に落ちる状態になってない。
「3つの世界の一つ、理想の世界において子供たちは守られるべき立場と思われるでしょう。でも一方で現時点の現実において、なぜ彼らは商品として大人ではなく子どもたちを連れて行っているのでしょうか?」
「それはやっぱり——————扱いやすいから…」
「そうです。」
先生がポンと跳ねるようになった。
「大人は力が強く反抗心も多いので非常に扱いづらい。子供に比べたら扱いづらいなんてものではない。つまり子供を連れて行くのは便利だからです。他にもありますよね?」
「逃げにくいし文句も言いづらい」
「その理由は先ほどとほぼ同等ですね」
「未来がある」
「そうです、彼らには未来があり、そこに彼らにとっての商品価値があるのです。われわれは他者を見るときに、一見何かの感情面や、やましい考えによって行われていると考えがちですが、実は非常に合理的で能率的なことが多いのです。この視点を常に用いていないと必ず物事を間違った方向に導いてしまうことになります」
「必ずですか?」
「必ずと言い切れるぐらいの確率ではあります」
私は少しだけ考えて口を開いた。
「合理的視点で考えると、イーヴァンが一人で野宿をした方が良い状態であるという結論が導き出されるかもしれません。一方で私の理想の世界がそれを許さないと思っているのかもしれないです。しかしもう一方で」
私はこのように、次に言葉をつなげると思いもしていなかった。しかしそれは先生に逆らう訳ではなく、自然と論理の形成の中で生まれた次の言葉であった。
「もう一方で『現時点での現実』ということでは、子供のイーヴァンを一人で野宿させたという事実を、現在の社会観念から我々を否定し糾弾してくる人もいます。」
もちろん私は先生に攻撃をしたわけでも否定をしたわけでもない。先生の理論に基づいて話をした時に自然と、先生から聞くだけの状態を通り越した何かが私の中に、一本筋を通した感じがした。先生は少しだけ感心したような顔をした。
「なるほど、そうですね。世界は私が若かった時よりも随分と豊かになって、人に優しく接していける人が以前より増えてきました。私が常に「現時点での」という文言をつけているのは、時代によって場所によってそれらが変化して行くからです。今この場において「現時点での現実」という観念から見るとイーヴァン一人を外で野宿させるのが難しい時代になってきたかもしれませんね」
私は初めて先生に対して「説得」という行為が、うっすらできたのかもしれない。
「おーい!」
遠くの方から声がする。見るとずいぶん向こうにイーヴァンがいる。
「この人が3人泊めてくれるって!」
なんとイーヴァンは我々が話をしている間に、勝手にほかの家に行き交渉してきたみたいである。私と先生は思わず顔を見合わせてしまった。奥の方では優しそうな老夫婦がこちらを見ている。少なくとも今晩は野宿をしなくて済みそうである。




