第四章 第五節
ここはアレルの街から少し離れた街道である。私は倒れた後、群衆によって町の外まで運び出されて、放り投げられた。後で話を聞いたところによると、シルバー先生はその放り投げられる私の姿を、特に何も言わずに見ていたらしい。それからある程度時間が経った。私はなんとか意識を戻し、シルバー先生の肩をかりて、今ここ、街道沿いの道端に転がっているのである。シルバー先生いわく、町の入り口にいた時に、行き交う人々に罵声を浴びせられたり、石を投げられたりしたようである。このままでいると、本当に命が危ういと思い、先生がなんとかここまで私を運んでくれた。
私はまだ、初夏の匂いのする草の中で、天高い雲をずっと目で追っている。先生はずっと横に座っている。頭の中で一つ一つ整理をしないといけないことはわかっている。しかし今、それを至急で求められているわけではない。私が空を見ていることを、先生は何も言う気配はない——————————少し日が暮れかかっている。今夜は野宿であろう・・・
「シルバー先生・・・」
「何ですか」
今私の話している先生は、思考も感情も読み取れない先生ではない。
「今の私には、先生にバラバラと質問することしかできません。大変申し訳ありませんがそれでもよろしいですか」
「大丈夫ですよ」
私は一つ深呼吸をする。
「私がやったことは正しくなかったのでしょうか?」
先生も一呼吸置かれる。いつものことである。そしてまたいつものように、ゆっくり静かに口を開かれる。
「『正しい』とは何でしょう」
再び静寂が訪れる。長い長い静寂である。風の音が聞こえる。
「シルバー先生、今私が即、答えられな状況であることから、私の中で『正しい』ということに関して定義付はされていない。全てが溶けた状態にあると思います。」
「少なくともあなたは・・・あなたが今まで見た本や聞いた物語の主人公達が、この世にはびこる悪を叩き潰す。弱き者が笑顔を取り戻し、『最後には』『必ず誰かに』賞賛され尊敬される。これを正しい行為、もしくは正しい人と強く意識付けされている。どうでしょうか?」
「大きく外してはいないと・・・いや、その認識で間違いないと思います。」
「そういう意味で云うとビル、あなたを客観的に見ると、間違いなく正しい人であり、間違いなく正しい行為であると言ってよいでしょう。それからすれば、あの子供たちを助けない私は、宝石を持ってあなたの命を助け、それ以外を何も求めずに街を出て来た私は間違いなく『正しくない』人でしょ」
私は空をまだ見つめている。雲の動きが先程よりもゆっくりになった。日も少し先ほどよりも落ちてきた。私は先生の言葉に「はい」とも「いいえ」とも答えず——————————いや、今そんなことに何の意味もないことを、先生はもちろん私も知っている。
先生は杖で道を示して、言葉を続けられた。
「『真っすぐ』とは・・・この道は次の町、ラトールまで『真っすぐ』につながっていると私は聞きました。それは「この道をそのまま進めば、次の街にたどり着く」という意味です。しかしこの道が全く曲がりもせず、直線でできているかと言われれば『真っすぐ』ではなく、ある場面ではそのことの『真っすぐ』を求められることがあります。『正しい』とは違う角度から見ると違う形をしているものではなく、この短い単語の中に全ての事を含むということは、物理上不可能だということが誰もが本当は理解できていることなのです。しかもその言葉は、それぞれの地域や国で微妙に意味も内容も差があるのです。そんなものに全知全能をおくことは不可能だと誰もが直感的にわかります。ではなぜこの言葉が使われるか。便利だからです。なぜ便利なのか——————わざと曖昧に使う場合が多いからです。自らの全てを肯定するときにも、相手の全てを否定するときにも非常に曖昧すぎて便利であるから、最後に『力がある者』が圧倒的に有利だからです。」
「つまり「正しい」ということは存在しないということでしょうか?」
「いいえ、私はそうは思いません。先ほどの「道」の話と同じです。何の事柄について「真っすぐ」と話をしているかが大事なように、何の事柄について「正しい」と話をしているかがその存在の曖昧さをなくし、意味が存在し、『力がある者』さえそれが世界を構成する一部の要素だと位置づけられるのです。」
私はこれまで、先生と話をしている時にあまりにも深くなりすぎると、思考の許容範囲をあふれ出ることがあった。しかし、今日は先生の話がまだ私の中に入ってくる気がした。
「まだ話を続けても良さそうですね。」
相変わらず先生は、私の表情から全てを読み取っているようであった。
「以前も話をしましたが、あなたが苦しみ求めたことによって、あなたの中に思考の空白ができているのです。あなたは心の中で何度も叫んだはずです。何が正しいのか、そんなに自分が間違っているのか、こんなことを見過ごしていいのか・・・それらのあなたの叫びはずっと表情に出ていました。大変申し訳ないですが、あなたは今まであまりにも幸せな、ぬくぬくとした環境で育ってきました。問題の少ない家庭に生まれ、食べることに困らず、教育を与えられ、最高の環境と学びの時間を首都アゼネイエで過ごされた。」
私は先生と旅をしてまだそれほど経っていないのに、あまりにも狭い世界で生きていたと心の底から感じている。先生はふと空を見上げこう言った。
「だいぶ日が落ちてきましたね。野宿ができるところを探さないといけないので、あといくつかだけ話をして移動しましょう」
「はい」
少し風が冷たくなってきた。
「まず概念の話をして、今回の個別の案件について触れます。この世界は三つだと言いました。」
覚えている。「主観の世界」「理想の世界」「現時点での現実の世界」
「それを別の考え方で言うと「思い込んでいるもの」「1から重ねられた思考」「無限の中から拾われた感覚」と同列の組み合わせになります。説明しやすいように逆から言います。「現時点での現実の世界」つまり「無限の中から拾われた感覚」とはいわゆる経験と言われるものです。理屈ではなく体の感覚が覚えている「根拠はないがこうであろう」というものです。「理想の世界」とは本当に理想郷のことを言っているのではなく「1から重ねられた思考」、つまり頭で考えた理論的なものです。」
先生はそう言いながら杖で横一直線を書かれた。そして右側に無限大のマーク、左側に1,2,3,・・・・と書かれた。
「この二つを両側から突き詰めぶつかった境界線が、今現時点であるべきところに近い状態です。」
同じく先生は右端から左へ、左端から右へ杖で線を描かれ、そのぶつかったところに縦の線を引かれた。
「この二つの関係性から出たラインと自分を向かえ合わせるのです。「主観の世界」である「思い込んでいるもの」ですね。これを『悟性』と呼ばれることがあります」
・・・?
急に難しくなってしまった。その私の表情を見て先生は思わず笑っていた。
「ビルよ、私も目算を誤ったらしい。少し飛ばしすぎましたね。でもまた、どこかの機会でこのことをお話します。そうするとより理解が深まるでしょう。では宿題のようになりますが、今回の個別のことだけあなたに投げておきます。ぜひ気が向いた時に私に、そのことについて考えたこと述べてください」
私は静かに頷いた。
「私があの宝石をどこで手に入れたのか。」
え、・・・先生は始めからあの宝石をお持ちだったわけでは・・・
「あれは、川で助けていただいた後、あなたがまだ気を失っている間にテオさんにいただいたのです」
「ええ、それは・・・」
「今は私の話を聞いてください」
「はい・・・」
「テオさんやイーヴァンが荒くれもの達と顔見知りであるということは、雑貨屋に着く前に気づいていました」
「え!」
私はまた思わず声を上げてしまったが、すぐに黙った。
「檻で運ばれていた、イーヴァンが呼んでいた女の子はイーヴァンの姉ではありません」
「えええ!」
今度は本当に大きな声をあげてしまった。自分の目の前で何が起きているのかさっぱりわからない。私が思っていたことは何だったのか?幻想なのか?先生が嘘を言っているとは思えない・・・
「後でゆっくりでいいです、あなたが一つ一つ考えたことをいつか私に話してください。ただこの度経験した事で、一つだけ覚えておいて欲しいことがあります。人は冷静さを失い感情に任せて思考の迷路に入ると、見えるものがすべて幻影に近い状態になります。実はかつてメヌーの村の村長、アルフレッドが盗みをしていたという時に、あなたは『そんな奴は罰せられるべきだ』という立場を取っていたと思います。」
なんだかその時の感覚が蘇ってくる。あの時すでに、今日ここに至る状態があったのは間違いない。結局いつかはこの日が来るのだったのだ。何も理解をしていないが現実はそれを示している。
「私は・・・何もわかっていない・・・何もできない・・・」
私は思わず呟いてしまった。
「人は物事を一度にできるものではありません。まるで根が広がるように、枝が伸びるようにあるべきところからあるべき場所までゆっくりと伸びていきます。それを引っ張っても千切れるだけです。もう少し近くからゆっくりと大事に物事を考え行って言ってください。」
その言葉に衝撃を受けた。イーヴァンは私にとって一体どこにいる人だったのか。テオさんは?・・・いや、私の伯父は、私の家族は?故郷は?・・・・・実はそんなことすらまともに考えたことがなかった。そのことをかつての自分が考えていたら、私はまるで違ったのかもしれない、そう、あの故郷にいる時から—————
「私には・・・私には・・・・」
冷たい風がよぎる・・・この言葉が正しくないが、あえて乱暴な言葉を使おう・・・私は何て様々なものを無駄にしてきたのか・・・
「先生・・・・私には・・・・」
「今、あなたの横には私がいます。そこから始めませんか」
—————静寂の中で風が吹く
胸が締め付けられる、痛いのに苦しいのに、嫌ではない—————
「ビルーーーーーー」
遠くで声が聞こえた。私と先生が振り返る。そこにはイーヴァンがいた。こちらに走ってきているのである。
「ビルーーー」
「イーヴァン!」
思わず先生の方を見るが、先生も明らかに驚いた顔をしている。予想外のことが起きているのは間違いない。
「はあーー、はあーーー、良かった、追いついて」
その背中にはリュックのようなものが背負ってあり、完全に旅支度がされている状態だ。
「イーヴァン、どうしたんだ⁈」
「村長が今日占いをして、俺はビルたちについて行くように言われたんだ!」
全く意味がわからない、本当に笑ってしまう。
どこかで自分はこの世界のことを多く理解していると思っていた。そうでないとこの世界は生きていけないと思い、そうでないと全てはうまくいかず、そうでないものをどこかで愚かだと思っていた。考えてみれば、先生はついこの間『我々は川底の砂利である』と言ったばかりじゃないか。村の村長が厄介払いをしたのかもしれないし、荒くれもの達と何かを話したのかもしれない。「ねーちゃん」と呼んでいたあの女の子と関係あるかもしれないし、本当に占いが出たのかもしれない。今この場でそんなことが分かるはずがない。そうだ、今まで自分はこんな時、自分の思いたいように思い、自分が正しいと考え、一直線に戻れない迷路に突っ走っていた。全く後ろを振り返らず・・・
私は全知全能ではない。そんなことが分かるはずがない。
「先生」
私は先生の方を見たが、先生はにこりと笑ってくださった。
「何してんだよ、ラトールに向かうんだろ!」
イーヴァンは勝手に進んでいる。「何をやってるのか」と一瞬呆れたが・・・イーヴァンのその背中を見て私は思った。
さっきまでの私の姿じゃないか。
いや、まだ当分先生に迷惑をかけるかも・・・
「ちょっと待ってくれ、イーヴァン!私が怪我をしているのは知ってるだろ」
先生もゆっくりとイーヴァンの後を追う。随分と日が暮れてきた。町につくのは難しいだろう。




