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風と静寂  作者: 佐竹武夫
第三章
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第三章 第五節

私たちは建物の五階にある小さな待機所で随分と待たされている。この部屋は非常に狭く、しかも椅子が二つしか置いてない縦長の部屋である。私は先ほどから窓側の方に待機して玄関に誰が入っているかを、ずっと見ている。これはシルバー先生に、ルシアンの姉が来るかどうかを見ているように言われたからである。もちろん先生自体がこの部屋に閉じ込められると思っていたわけではないだろう。だが自ら置かれた状況で、最大限何ができるかを考えるというのがシルバー先生の考え方である。カードゲームをするときに配られたカードにどんな意味があろうとも、配られたカードで勝負をするしかない。この言葉は以前学んだ書物の中に書いてあったような気がする。そのこととシルバー先生の考えは非常に近いのかもしれない。『現状を嘆いても仕方ない』理屈で分かっていてもなかなか難しいことである。


あれは!———————


さすがに特徴的ところがあるというか、本人が醸し出しているオーラがすごいのか、ルシアンの姉がこの建物に入ってきているのが見えた。彼女を呼びに行った、この施設の人間も同行している。


「先生、ルシアンのお姉さんが来ました。」

「分かりました。おそらく私はこの部屋から出られないでしょう。」


確かにそうだろう。なぜならこの部屋の外側には先ほどの強面の男が、我々を監視するようにずっと立っているのである。疫病にかかったと思われる先生を、うろちょろさせることは絶対しないだろう。一応私は発病してないというテイになっている。(もちろん先生も疫病にはかかっていないのだが、顔に塗った赤い木の実で、病気が発症しているようなふりをしているのである)


「ビル、あなたはお手洗いを行くふりをして、少しでも状況を確認してみてください。」

「しかしどれだけ、彼らのやり取りを聞けるかわかりません。」

「できる限りでいいのです。無理はしてはいけません。できる限りの中で最大限、物事を行うことを身につけていきなさい。あなたはただお手洗いに行く、そしてそこでたまたま見聞きしたものを私に伝えるのです。偵察をするつもりで行くと、必ず明るくない方に物事が進みます。」


わざわざ情報を仕入れに行くのだから、どうしても前のめりになってしまう。おそらく先生は『何も情報が得られませんでした』と報告をしても怒りはしないだろう。いや違う、私は先ほどまで、先生が木の実を落としていることで気がつかなかった。物事を常に注意深く見れば、何も情報を得られないということはありえない。何があるかわからないが、何かがあるはずだ。


「分かりました先生、行って参ります。」


私はそういうと、入り口で見張りをしている男に、お手洗いに行かしてほしいと言った。言い出したのがシルバー先生ではないと安心したのか、意外とすんなりと、この部屋から出してもらえた。



お手洗いはウルビスの部屋がある四階にあるらしい。当然偉い人がいるところに設置してある。これは私にとっては都合がいい。頭の中でなんとなくルシアンの姉が上がってくるタイミングをイメージしながら、四階のお手洗いへと向かった。階段のところでは、何人かが雑巾がけをしている。おそらく先生が落としていった木の実を洗い流しているのであろう。少し彼らには気の毒な感じがする。私が階段を降りて行った時にはすでに部屋の方から声が聞こえた。私が想定していたより早く来ていたようである。私はゆっくりと歩きながら、無理のない程度に、その中で聞こえるやり取りをなんとか聞こうと思った。


「わたくしは、いつかこのような事態が必ず来ると言いました。ただその日が来ただけではないですか。」


とても厳しそうなルシアンの姉の声が聞えた。


「それはわかっている。分かっているが、こんなに早く疫病がまた近づいてくるとは思いもしなかったんだ。」


このような人たちの常套句である。「私は知らなかった」「本当にそうなると思わなかった」「まだ大丈夫だと思った」彼らが繰り出す言葉は、自らの怠慢と無責任者をただただ表しているだけであった。私が読んだ書物の中にも『故意の無知』という言葉で彼らを表現していたのを少し思い出した。彼らのほとんどが、逆の時には「私は知っていた」「そうなると思っていた」「大丈夫なわけがない」と後から言いはじめる『結果からの論者』になるのである。その本には確か「彼らは何も作らず、何も形を保てず、そして何も残さず」と書いてあった。そこまで言うのは少し厳しいかなと思った記憶がある。


「疫病というものは常に蔓延し、その一瞬の気の緩みが多くの人の命を奪います。私が以前提唱しました、この街に訪れる者の検疫を行わないのであれば、ここでひとの病気を治したことも何の意味もなくなります。」

「わかった、そのようにするよう、これから話し合いを進める!」

「以前もそのようなことを言って決して行動をなさいませんでした。私は同じことで二度騙されることほど、間抜けではございません。」


そういうとルシアンの姉がドアに近づいてくる気配がした。私は慌ててお手洗いの方に向かった。そして柱の陰に体を入れた。


ガラ!———————


ドアが開いてルシアンの姉が出てきた。それを追うようにエティエンヌも出てくる。


「とにかく、今この建物の五階に疫病に、かかったかもしれない人間がいるのだ。その人物だけでも診てもらえないか」


エティエンヌはなんとも情けない、すがりつくような目でルシアンの姉に懇願する。だがその言葉からは、ルシアンの姉が希望する『この街の検疫』をすることについて、実は動くつもりがないと感じられるだけである。


『本当にそうですか』


ここにはいないはずの先生の声が聞えた。私は今、エティエンヌをただ単に物語の上の悪人に追いやろうとしていた。彼には何か事情があるのかもしれない。もちろんそれがあってもやらなければいけないことがあるが、果たしてそれは簡単にできることなのか?私でもできることなのか?


「とりあえずあなたは、目の前のこの状況だけどうにかすれば良いと思っていますよね。私に確実に約束をすればいいだけであるのに、うだうだ言い続けて、それをしようとはしてない。それに、そこの横に居るあなた。」


私達がいたときにも、エティエンヌの右手にいた少し細めで背が高い男である。その男にむかってルシアンの姉は言い放った。


「あなたはエンドロゴス(深い思索者)として、この街に知恵を齎すべくウルビスの横に居るはず。なのに、この男の無策と弱さに何の教えも与えない。だからあなたたちはプラノピトン(言葉で惑わす者)と呼ばれるの!聞けば疫病にかかった男も同じようなことをして生業としているものと聞いたわ!」


もちろん、ルシアンの姉は、今五階で隔離されている人物がシルバー先生だと知っている。さらに当然のごとく、疫病というのはでっちあげであることも承知の上だ。そこで何らかの演技をしないといけないとしても、彼らを罵ると同時に、シルバー先生を罵られると、決して気分のいいものではない。もちろん彼女がそれだけ迫真の演技をしないといけないのだが、演技をしているというよりも今まで彼女が心の中で溜めていた鬱憤を今ここですべて吐き出しているようである。この状況はシルバー先生が作った架空の状況であるが、彼女はもしこの街に再び疫病が流行ったのであれば、今の言葉をそのままぶつけていたのであろうと思われる。


「分かりました」


今までずっと黙っていた隣のやせ形の男が口を開いた。


「フィリップ、お前・・・」


エティエンヌは少し焦ったような表情で、隣に居る『フィリップ』と呼ばれた男を見た。


「確かにジェヌヴィエーヴ医師が申すように、この街には検疫が必要です。エティエンヌ、あなたもそうですが、私も今目の前に疫病が迫っているかもしれないことを非常に恐れております。今回は町中に広がらず抑えられるかもしれませんが、やはりいつそのような日が来るか分かりません。この街が交易で利益を上げている以上、そのいくらかは検疫に費やすことが、この街を守っていくことではありませんか。いやそれは、あなた自身の生命を守ることになると思いますが?もしもここで検疫を導入しなければ、今度疫病が広がったときに、住民たちが強い不満を覚え、あなたに身の危険が及ぶ可能性は充分考えられます。」


少し間があった後


「わかった。ジェヌヴィエーヴ医師、あなたがこの計画の中心となって街の検疫を行うようにしてくれ。」


かなり諦めたような口調だった分、その約束は守られる可能性が高いように私には感じられた。


「では患者の方を診ます。 五階に居るのですね。」

「ああ。階段を上がって左手にいくと、大柄の男がいる。その男が見守りをしている部屋の中にシルバーという初老の男がいる。」

「承知しました。」


ルシアンの姉はそういうと、階段を上りはじめた。


私はすぐに部屋に戻りたいと思ったが、エティエンヌとフィリップと呼ばれている男がまだ廊下にいたので、階段口まで行きにくい状況であった。


『早く部屋に入らないかな』私がそう思っていると、ルシアンの姉が完全に去ったと思われる時、 2人の会話がまだ続いた。


「どういうつもりだ。検疫等始めるとどれだけ金がかかると思っている。」

「おっしゃることはわかりますが、あなたは今現在でもかなり怯えてらっしゃる。どれだけお金をかけるかはまた後の話として、疫病がはやることを防ぐのは、あなたにとっても町にとってもそこまで悪いことではないはず。特に今あなたの顔を見てそう思います。」


エティエンヌは何とも言えないような様子だった。


「また今シルバーという男を見てもらっていますか、状況によってはこの場で亡き者にした方が良いかもしれません。」


私は一瞬耳を疑った。シルバー先生を亡き者にする?


「あの初老の男、何か怪しい感じがします。わざわざあのようなフードをかぶり、病気になってここに来る。とてもあの有名な『智慧の篝火』と呼ばれる人は思いません。」


なるほど、理由が外れているが、何か引っかかりがあるというのは的中している。


「それにジェヌヴィエーヴ医師もあの男に対しては良い感情を持っていないようであります。病気の状態がどうであれ、この建物で療養すると告げ、彼女がいなくなった後に殺しましょう。急に体調が悪くなり、疫病のためすぐに遺体は焼却したと伝えれば良いと思います。」

「もう一人いた男は?」

「もちろんそちらも殺します。その男が病をもっていれば大変なことです。おそらく移っているでしょう」

「よし、 2人とも殺そう。その手配を」


非常にまずいことを話している。 2人はその後部屋に戻っていった。私はすぐに階段を駆け上り、シルバー先生が居る部屋へと向かった。部屋を監視していた男は戻ってくるのが遅くて少し不満そうな表情だったが、


「医者がお前の先生を見ている。」


と顎で中にはいるよう指示をした。


 中に入るとシルバー先生とルシアン姉はなごやかな感じで会話をしているようであった。


「ビル、先ほど先生にもお話をしたのですが、この街の検疫ができるようになりました。」


ルシアンの姉が話していたが、私は食い気味に


「先生、実は—————」


と話をしようとした、その直後


「ビル!」


と強く叱咤されるような声で、シルバー先生に言われた。

私は完全にフリーズした。


「ビル、今のあなたは冷静に会話をする状態でありません。」


沈黙の時間が流れる。


シルバー先生はルシアンの姉のほうを見て


「それでは、わたくしはあと数日で回復するとお伝えしておいてください。」


「はい、わかりました。」


ルシアンの姉は少し私の方を気にした様子を見せたが、立ち上がってドアの外へと去っていった。私はそれをただ見送ることしかできなかった。


「ビル、少しは落ち着きましたか。」


落ち着いた?全ての物事は落ち着いて話さないとだめなのか?少し私の中で苛立ちのようなものがあった。それでも何とか冷静さを保ったような気の持ちようで、再び先生に話しかけた。


「先生、実は先ほど私たちと会話をした男たちが、我々を殺そうとしております。」

「それで?」


それで?先生はその言葉を聞いて何とも思わないのか。また少し苛立ちのようなものを覚える。


「そこまでに至る事情とそこからの話があなたの中であるのでしょう?それを一つずつ話すのではないですか。先ほどのあなたは、すべて勢いで話そうとしていた。そのことによって良い事に導き出されることはほとんどありません。本当にこの話は彼女に聞かせて良かった話ですが?」

「もしも彼女がこの話を聞いていれば」


私は感情的に言葉を抑えられなくなっていた。


「外で療養するなど言い訳をつけて、我々はこの建物から脱出させることができかもしれません。」


シルバー先生は黙っていた。そうだこの目だ。また再びこの目を私は直視することになってしまった。


「あなたは彼女を巻き込む気ですか?」


巻き込む?どういう意味だ。巻き込まれた我々の方ではないのか?苛立ちが最高潮に達する。わかっている。自分たちの命が狙われるということを直接聞いた。そのことによって体の中にある動物的危機反応が、私の頭の中に興奮の薬を撒いている。どんなに冷静に気持ちを抑えようとしても押さえられない。その私の表情を、先生はずっと見続ける。


「あとどのくらい待てば、私はあなたと冷静に話をできますか?」


情けないが仕方がない。私は私を抑えることができない。でもどこかで時間がないと思っている。


「大丈夫です、話をしてください。」


先生は私を見て大丈夫ではないと思いつつ、ゆっくりと私の頭の中を整理するように話し始めた。


「あなたはおそらく『巻き込まれたのは私たちだ』と思っているでしょう。そうなのでしょうか?正しく順を追うのであれば、私が本来やらなくてもよいことに顔を突っ込んだのです。でもあなたは私をそのように直接批判することができない。だから思考のねじれが起きて彼女のせいにしようとしている。」

「違わないかもしれませんが、でも私は先生のせいだと、どうしても思っているわけではないのです。」


言い訳に聞こえるかもしれないが、それが本心だと信じてやまない自分がいる。


「私がなぜこの話を受ける形になったのか、私が表現したものを覚えていますか」


「『砂利』です。私たちはみんな川底の砂利で、自分で何かを選んでいるようで選んでないと先生はおっしゃいました。今我々は川の流れに流されて砂利としてこの地点にいます。」


先生は少し表情を緩められ大きく頷いた。自分がこの話を聞いた時にある種不快に似たような感覚を持っていたが、なんだか今は納得度が高く、先生に頷いてもらったことが少し嬉しく感じるぐらいである。自分自身が本当によくわからない。


「あなたが本当にあの場で、彼女のいるところで我々が殺されるかもしれない話をして良かったと思いますか?我々は脱出できるかもしれませんか、おそらくこの街では彼女に望む検疫は二度とできないでしょう。それだけでなく彼女はこの街から追われるかもしれません。医者でないどころか同じく殺されてしまうかもしれません。でももしも彼女がこの話を聞いていたら、確実に我々を助ける方向に動こうとするでしょう。本当にそれがあるべき姿だとあなたは思っていますか?」


急に自分の中で、激しい衝動が生まれていたものがゆっくりと沈み始めた。本当にあそこで我々が殺されることを言葉にしたら・・・


先生はいつものように、私の細かい表情を見ながら言葉を選んで紡ぎはじめる。


「われわれと彼女との関わり合いは、ここでもう終わりなのです。私たちの砂利と彼女の石はもう遠くに離れているのです。」


そうだ・・・彼女がこの部屋に来たことはお別れの挨拶があっただけで、もう我々は別の道をあの時点で歩いていたのである。私たちが彼女と絡むこともなく、彼女とこれから何かを成し得るわけでもない。そんなことがわかっているのにあの場で私がその話をしていたら、いろいろなものがぐちゃぐちゃになるだけである。


私は随分と冷静さを取り戻した。ふと窓の外を見ると、ルシアンの姉が自宅に戻っている姿が見えた。来た時は緊張の面持ちと握った拳。しかし帰る彼女の後ろ姿は、柔らかさと希望に満ちているように見えた。私たちの生死が一体彼女の何に関係があるというのであろう・・・

急に冷静になると周りが見えてくる。視野が狭まって何も見えない状態から、周りがよく見え、姿がくっきりし、色が付いてくる。


「先生、その服は?」


私はそれまで気がつかなかったが、フードの下に着ていた服がどこかで見た記憶があった。


「ようやく気が付きましたか。これはあなたの街で宴に呼ばれた際に着ていた服です。」


そうだ、随分と襟元が開いている服だったので覚えている。


「先生は何か重大な局面でその服を着られるのですね。それは・・・ある意味、命がかかるとき・・・」


先生はにっこりされた。先生はここに来る時から既に覚悟を決められていたようです。さらに言えば、私が宴に招待した時に同じ覚悟を持っていたということである。信じられない。自分の催した宴が先生にそれ程の覚悟させていたものなのか。いやだからこそ、先生はあの場であのような対応が取れたのかもしれない。


「私は目の前で多くの人が殺されるのを見てきました。その際に一番苦しむのが首を切られてもうまく切れず、すぐに死ねないことがあります。私はその姿を見て苦しむのはまっぴら御免と思っております。なので、このような状況の時は、襟元が広く開いたこの服選んでいるのです。」


先生の言われていることは理屈では分かる。結局は自分で選んでいるようで選んでいない。私は先生を覚悟という言葉で表現したが、正しいニュアンスとしてはもっと諦めに近いのかもしれない。状況は変えることはできない。しかしせめてもの・・・そんな感じだろうか。



「先生、私はまだ勉強不足です。しかし、この度のことを通して少しだけ先生のお話したことが、心の中に落ちた気がします。」


私はまっすぐに先生を見る。


「先生は私を弟子として拾われた。そして私はまだまだ未熟者。砂利が自分を選べないように、先生、諦めていただけますか。」


そう言うと、私は左手で先生の手を握り、右手でこの旅で一度も抜いたことがなかった帯同していた剣を抜いた。そして徐にドアを破った。


「!——————」


飛び出したところで強面の男が腰を抜かして座っていた。一見強そうに見えたが、剣を抜き恐ろしいまで冷静(冷血)私の目を見ると、ぶるりと震え上がる感じで首を横に振った。「こいつは追ってこないな」私はそう瞬時に判断して先生の手をしっかり握り、階段を駆け下り駆け足で降りた。先生は私がこのような行動をとると思っていなかったはず。だが先生はすべてをその瞬間に受け入れる。そんなすごさを持っている。先生は私がこの建物から脱出することを阻害しようとはしていない。一緒に走ってくれている。「石が流れて転がりだした」先生はそのくらい冷静にとらえているだろう。私は心の中で「はい、そうです。これが今の私です。これが今の状況と今の自分を受け入れた私です。先生諦めてください。私が諦めていないことを諦めてください」私がそんな表情をすると、先生はすべてを読み取ったように、優しく微笑んでいるように見えた。私はその瞳を見たとき、どうしても自分の中から湧き上がる涙があることを知った。


剣を持った男が中央管理所から走り去っていくのである。目立たないわけはない。おそらくすぐに兵士が我々には追ってくる。とにかく目指すのはあの橋だ!あの橋を渡れば何とかなるような気がする!


私は全力で走るが、シルバー先生にはやはりきつそうだ。だがここでスピードを下げるわけにもいかないし、剣をしまって、そしらぬ顔をしてもすぐに捕まってしまうだろう。


周囲は大きなざわめきになっている。その先の中をどんどん進んでいく。後ろから兵隊が追いかけてくる声が聞こえる。明らかに周囲の観衆とは違う声だ。当然振り返りなどできるはずがない。だが恐ろしいほど感覚が研ぎ澄まされている。橋は大きいので遠目から目標値として失わない。橋にさしかかった。


「行ける!」そう信じ難かった。しかし私の目の前に現れた現実はそうではなかった。対岸の端に付けられていた扉が閉まったのである。おそらくこれは、何か不測の事が起きた時に発動するようになっているのだろう。橋の中央あたりで足を止めた。前には進めない。後方を見ると兵士たちが、わさわさと近づいてくる。しかし急激に距離を縮める様子がない。彼らは自分たちが追いかけているものを「疫病にかかったものを脱獄者」と認識しているのであろう。

『どうする。』川の流れに流されて、砂利は行き着くとこにしか行けない。


川——————


私はふと橋から川を見下ろした。飛び降りるしかないのか。いや飛び降りるしかあるわけない。私が先生に「あきらめください」といったように、誰かが私に「飛び降りるしかないことはお前がわかっているだろ、諦めろ」と声が聞こえるようであった。なぜだ、なぜこんな目にあわなければいけないのだ。おそらくこの川に飛び降りても、死ぬことはないだろうと自分の中で思っている。だが大怪我をするかもしれないし死ぬほど苦しい思いをする気がする。なぜだ、なぜこんな苦しい思いをしなければいけないのだ。先生の顔を見た。決してその顔は相手を挑発するような感じではない。しかし先生の顔は全てを語っている。「あなたはわかっているはずだ。私が彼女のために動いたように、それが誰にも変えられないこと。」兵士たちが近付いてくる。その奥になんとルシアンの姉がいた。彼女はおそらく、我々がこのようになっている事情を知り得ないだろう。騒ぎがあって駆けつけてみると、そこには知っている男が2人。一人は剣を持っている。状況など理解できるはずがない。いや理解をする必要もない。彼女とはあの部屋でもう袂を別れたのである。


私は自然と橋の欄干に近づいた。


うおおお——————


観衆が大きなどよめきをあげた。兵隊達はなぜか後ずさりをする。いや当然か。ここで我々がこの川に飛び込めば疫病になった人間に近づかなくて済む。

私は欄干に手をかけた。再びルシアンの姉に目を移すと泣きそうな顔をしていた。


「ビル」


ここで初めて先生が私に声をかけた。


「今のまま飛び込むと、彼女は自分の親友を失ったことを思い出す。それを避けるために、ひとつ気の利いたことでも言ってあげてください。」


なんとも先生は、自分が飛び込むことなど一切気にせず・・・


随分と難しい課題を私に突き付ける・・・





私は剣を大きく上に突き上げた。


「我々はこれから南に向かう。どうやらこの川を使った方が早そうだ!」


我ながら訳のわからないことを言った。周囲の人間や兵士たちは何を言っているんだという顔になっているが、ルシアンの姉の顔は違った。少なくとも命を落とすためにここに飛び込むのではないと感じて、顔の表情から悲壮感が緩んだ。どうもうまく行ったらしい。『そうだ、恨みに生きると美しさを失う。希望に生きてくれることを願う』私はそう思うと再び大きな声で


「次に会うときはより美しき花を見せてもらうぞ!」


そう言った瞬間、私はシルバー先生を抱きかかえ川に飛び込んだ。一瞬だけ彼女の顔が見えた。その目に涙はあったが、私の伝えたかったことが伝わったような表情であった。笑顔にさえ見えた。満面の嬉し泣きに見えた。『その美しさを保って欲しい』そんなことを考えられるぐらい滞空時間が長かった。


ドボー―――


随分深くて助かった。そんなことを思いながら、ぐんぐんと川下に流されていく。



一瞬川底の砂利が見えた。私は思わず笑ってしまった。











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