ラフィル王国のシルヴィア姫
あたりを見回して他に逃げる場所がないか必死に思考を巡らせる。そうだ、職員室だ。この時間でも先生は誰か残ってるはずだ。
走り出そうとして、足が異様に重たいことに気付く。心臓の鼓動が激しい。嗚咽するような呼吸しかできない。
背中越しにドラゴンが地面に降り立つ気配がした。舞い上がる土煙と地面を掻く爪の音。急く気持ちに反して極度の緊張で足が思うように動かない。
このままじゃ本当に──
「優都様、大丈夫です。あなたを死なせたりはしません」
それは凛とした声だった。振り返ったそこには漆黒の醜いドラゴンの姿ではなく、風になびく金色のすべらかな髪と颯爽とした後ろ姿があった。
突如現れたシルヴィアは直ぐさま手に持った弓を引いてドラゴンに矢を放った。一直線に放たれたそれはドラゴンの額に命中する。続けざまにシルヴィアは矢を放つ。なにか魔法でもかけられているのか、淡い光を灯した矢尻はドラゴンに当たると激しく緑色に光った。その度にドラゴンの悲鳴が響き渡る。
「優都様、いまのうちに!!」
こちらに向けられた瑠璃色の瞳。その険しい表情が未だこちらに有利な状況ではないことを告げてる。
──逃げろってことかよ!?
「シルヴィアも!!」
叫ぶけれどシルヴィアは答えなかった。ドラゴンの吐く炎がそれを許さなかったからだ。眼前を瞬く間に広がる炎。焼けるような熱が呼吸すら難しくする。
「シルヴィア!!」
彼女は弓を構えた立ち姿のまま動じる気配はない。むしろ炎の先に向けて更なる一撃を加えていく。灼熱の炎を受けてるはずなのに、いっこうにその火はこちらに届かない。
見えないガラスのようなものが一枚、ドラゴンとシルヴィアの間に隔たりとしてできている。「早く!」鋭い言葉と共にふたたびシルヴィアの瞳がこちらを向いた。苦悩する表情が無言で劣勢を告げている。
「この様な弱腰の者を庇う必要もなかろう。こやつに喰われるならそれはそれで面白いではないか」
にゃはははと、場違いな笑い声がこだまする。ちいさな両前足を揃えて優雅に現れた黒のハチワレ模様の猫ジェイドは「お主の実力を見たかったのじゃが魔法ひとつ使えぬとは、本当にポンコツじゃの」と、ため息をついた。
「この中二病猫! 本当に俺を殺す気だったのか!!」
「ジェイド様、いくらジェイド様でも人の命を弄ぶようなことは許されません!」
「いずれ姫様は一国の王妃となる身じゃ、この程度のことで心揺れてはなりませぬぞ」
ぐ、と弓を引くシルヴィアの背中に力が入ったのが分かった。俺にはそれがシルヴィアの無言の抵抗に見えた。未だドラゴンからの炎の攻撃も止まない。その度にシルヴィアの銀色の弓が優雅にしなった。
「おい! インチキ猫!! お前こそホンモノの守護竜だかなんだかなら、こんなドラゴンの一匹や二匹、簡単に倒せるんだろうな!?」
確かに俺はポンコツかもしれないけど女の子に守られて黙ってるだけなのは違うだろ。
ジェイドは、ふふん、と鼻を鳴らす。その両脇に手を入れて持ち上げると「ん゛にゃ」と変な鳴き声がしたもののモフモフの身体はやっぱり猫そのものだ。
「勿論じゃ、ワシの力ならばあんな若輩の竜なんぞ、鼻息ひとつでかたがつくじゃろうて」
まんまるの目にω型の口がまるで人間と同じように表情を作る。わずか50センチほどのこの身体のどこにあんな大きなドラゴンを倒すほどの力があるのかはわからないが。
「んじゃ、早速お願いします! 偉大なるジェイド様!!」
大袈裟に頭を垂れてみる。かりにも変な呪いや瞬間移動だって使えるんだし、炎くらいは出せるんだろう。
このままじゃシルヴィアが俺を庇ってどうにかなっちまう。って、シルヴィアになんかあっても死ぬのは俺か。まぁ、この際細かいことはどうでもいい。
「さぁ! 偉大なる魔力をいまここでお見せください!!」
クルリとジェイドの向きを変えてドラゴンに対峙させる。さぁさぁ、炎でも稲妻でもなんでも出してもらおうか。眼前の漆黒のドラゴンが炎の隙間からその紅い瞳を覗かせた。
ジェイドの姿を見てとるや、炎を吐くのを止めて瞳を細めてこちらを注視している。
──イケる!!
「喰らえ! この図体ばっかりデカイうすのろオオトカゲが!!」
抱えあげたジェイドの背中の毛が逆立つ。わずかに青い炎のようなものがそのちいさな身体から立ち上るのが見えた。ヒシヒシと腕からなにか熱いものを感じる。
これが魔力ってやつなのか、はじめて感じる。全身の毛が総毛立つ。
──いまだ!