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─ Sylvia ─

 




 気付けば、乳白色の世界を彷徨(さまよ)っていた。


 ここがどこなのかわからない。どこへ向かえばいいのか、自分が誰なのかもわからなかった。




「わ、たしは......ダレ......」




 思考を形にしたら、声が生まれた。


 音を(つむ)ぐ場所に触れると、そこはやわらかくて、あたたかかった。視線を落とすと、動きにあわせて、視界の端で金色が揺れる。


  虚無の世界と私とを(へだ)てるように、なめらかな肌が存在して、私というものの輪郭(りんかく)(いろど)っていた。




「どこへ......いけばいいの......」




 ──なにをしたらいいの。


 ()に不安が生まれた。わかるのは、空虚な空間にただひとりきりだということ。


 誰かが言った。



 "お前は、物語に光を与える唯一の女性なのだ"と。



 "お前は、世界を救う王子の伴侶となる娘。だから、完璧な美しさでなければいけないのだ"

  



「完璧で、うつくしい……娘......」



 繰り返すと、誰かが頷いたような気がした。  



 光を与え、導く者。 


 そう、それが私が生みだされた理由だった。私の唯一の幸福の道しるべ。


 私は、王子様を探さなければ。婚姻を結び、彼に物語の栄光を授けるために。それが、私に与えられたただひとつの物語なのだから。



 "そうだ、お前の名前は、シルヴィアにしよう。森の女神の名だ。清楚で美しい乙女、自然や動物たちを愛する慈愛の心を持たせよう"


 "気高く清廉(せいれん)な私の乙女よ。お前の()()を果たしなさい。その為に、私はお前を創造(つくった)のだから"





 "さぁ、いきなさい──シルヴィア"





  * * *





「シルヴィア......?」



 腕のなかのシルヴィアに問いかける。胸元に体を預けたまま、シルヴィアからはいつまでも返答がなかった。


 まさか、ジェイドの術を破った変な魔法の反動じゃないだろうな。内心、焦りで冷たい汗が流れる。



「シル──」


「まさか、ワシの従者の誓いまで破ってしまうとはの」



「ジェイドかっ!?」



 たんぽぽ畑から、ピンと立った黒い尻尾が近付いてくる。綿毛を撒き散らして、ぬ、っと現れた白と黒のはちわれ猫は、俺の肩に飛び乗ると、目をつむって眠っているように見えるシルヴィアの顔を一緒に覗き込んだ。



「良かった。ずっと、シルヴィアが目を覚まさないんだ」



 さすがに、このままなのはどうしたらいいのかわからない。ジェイドなら、この状況をなんとかしてくれるはずだ。


 ジェイドに視線を向けると、鋭い緑色の瞳が細められて、まるで竜その者に見据えられた気になった。



「お主、姫様の術を返したのか」


「返したって......別に、いや? 返したのか?」


「姫様はいま、姫様自身の物語のなかを彷徨っておる」


「物語を、彷徨うって......」



 ──まさか、俺が彷徨ったように、シルヴィアもまた物語のなかを彷徨ってる? あの訳のわからないもうひとつの世界を。


 確かめないと。



「シルヴィアは、いったい何をしようとしたんだ」


「魔女の力じゃよ」



「魔女?」



 ふたたび、腕のなかで眠るシルヴィアのあどけない顔を見つめる。さっきの子供みたいな泣き顔が脳裏によぎる。涙で濡れた飴色の睫毛を見ても、魔女なんて、とても似つかわしくない言葉だった。



「姫様は、従者の誓いを破ったあと、ワシの竜の力を利用して、物語に直接干渉したのじゃよ。それは魔女にしかできぬ力なのじゃ。黒の魔女は、物語を内側から書き換える力じゃが、白の魔女でもある姫様の力は、物語のページを新たに生み出す力なんじゃ」


「新たにって......なんで、そんな力を、シルヴィアは今更──」


「お主を助けるためじゃろうて」



 溜め息交じりにつまらなそうに放たれたジェイドの言葉に、胸が詰まった。俺を、助ける為にって。



「お主の物語は、すでに黒の魔女に書き換えられておったからの。お主が(つづ)る物語は、すべて黒の魔女の手のなかのようなものじゃったんじゃ。じゃから、姫様は真新しいページを生み出したのじゃ。手付かずの無垢なページじゃよ、それならば黒の魔女とて、ワシとて誰にも手が届かぬ」


「そんな、だって......シルヴィアは、いまから黒の魔女とも戦うんだろ? それに依り代の寿命だって......」



 魔力だって有限なはずだ。俺が身代わりの方がシルヴィアにとっては都合がいいじゃないか。それなのに、俺のことなんて......。



「姫様は、目先のことより、お主の安全を第一に考えたのじゃ。姫様は命の犠牲を一番嫌うからの。ワシにはまったくもって理解できぬことじゃが、それがワシの姫様の気性なのじゃから仕方あるまい」


「命の、犠牲......そんな、シルヴィアは、ちゃんと目を覚ますんだよな? このままなんてことないんだろ?」



 俺が、シルヴィアの術を破ってこっちの世界に戻ってきたから、その反動で今度はシルヴィア自身が物語のなかを彷徨ってる?


 そんなの、聞いてない。



「姫様とて、すべては覚悟の上の術じゃ。魔女の力はそれほど危険が(ともな)禁忌(きんき)の力なんじゃ」



 涙の跡が残るシルヴィアの桃色の頬に触れる。鼻の奥がつんとして、熱い感情で胸が震えた。


 すべて、()()()の言う通りだった。




「......ジェイド......信じられないかもしれないけど、俺は、シルヴィアの術が成功した先の世界を知ってるんだ」



 あの、閑散(かんさん)とした世界を。モノクロのなんの色味の無い世界を俺は知っている。


 白の魔女として、力を使い果たしたシルヴィアは、黒の魔女に負ける。ボロボロになって彷徨って、そして最期はひとりで──



 嫌な記憶を振り払うように、シルヴィアの顔を見詰めた。まだ、シルヴィアはここにいる、体に伝わる体重も、ぬくもりも確かにあった。




「シルヴィアの術は失敗したんだよな」




 自分に言い聞かせるよう言う。あの時とは、違う。


 ジェイドが俺の瞳を覗き込んだ。深い翡翠色の瞳は、いままでよりも力強いものに見えた。



「お主には、なにか強い守護があるようじゃの」ポソッとジェイドは呟いた。



「しかし、姫様にも困ったものじゃ、こちらに来てからというもの、ワシの言うことなんぞトンと聞かなくなってしまいおった。ワシの守護する姫様じゃ、こんな術返しなんぞに惑わされるとは思えぬが......」



 言いながらジェイドは肩からスルリと降りる。その言葉に安堵する。こんな時ほど、ジェイドの存在を心強く思う。


 振り返り様、ジェイドは言う──




「じゃが、忘れるでない。お主がこちらの世界に戻ってきたということは、お主もまた黒の魔女の手の中に戻ってきたということじゃ」




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