- Unknown Title -
「杵島!」
ハッとした。目の前には、ひろげた数学の教科書。周囲からの刺さるような冷たい視線を感じて顔をあげると、鬼の形相をした先生がいた。
「杵島!! 授業中に寝るほど余裕があるならこの問題は楽勝だろうな」
黒板に書かれた数式を見て、やらかした、と思った。授業中に居眠りなんて、俺らしくもない。昨日、夜遅くまでゲームしてたからか。
最近、ことごとく後輩の稽古に付き合わされて、体力的にもヘロヘロだ。夏が終われば、直ぐに受験シーズンに突入する。
* * *
「お前、明後日から夏休みだってのに、浮かない顔してんな。加藤に嫌味言われたくらいでヘコんでんのか」
「いや、なんか......最近疲れててさ、寝ても寝ても眠いんだよな」
数学の先生の説教をなんとかかわして、橋口と食堂に向かう。開け放った窓から、時折涼しい風が吹く。落ちる影は濃くて、蝉の声も賑やかだった。
「杵島センパーイ!」
一階の中庭から声がして見てみると、剣道部の後輩が集まっているのが見えた。瑞希が満面の笑みで二階にいる俺たちに手をふっている。
「ゲッ!! お前の取り巻きじゃん。うっわ、捲き込まれないうちに俺は逃げよー」
そそくさと足早にその場を去ろうとする橋口の目の前に人影が現れて、橋口が慌てて後退りした。
「あ、ふたりとも! いいところに! この資料、図書室に戻してきてくれない?」
段ボールの箱を台車にのせて来たのは、新婚一年目の国語の先生だった。ふっくらしてきたお腹が少しだけ目立つ。
「ごめんねー、先生、今日定期検診の日でね。このまま帰るからさ、あとお願いね」
「あーいいっすけど、先生、この借りは次回のテストで返して下さいよ。なぁ、杵島」
「先生、大分お腹大きくなってきましたね」
「でしょ? もうそろそろ女の子か男の子かわかりそうなのよね」
「悪いね」と言いながらも先生は、テキパキと資料の置き場所を俺に伝える。そりゃあ、大事な体の妊婦さんに無理をさせるわけにはいかない。橋口は、「今日はなんか色々とタイミング悪ぃわ」と呟きながら、それでも素直に台車をコロコロと転がしはじめた。
橋口と図書室の扉を開けて、そこにひろがる静まりかえった空間に、逆に窮屈さを覚えた。
昼休みの図書室なんて、基本的に誰もいない。もう少し時間も過ぎれば人も来るだろうけど、いまの時間なら、食堂や教室の方が賑やかだ。
「うっわ、図書室とか久しぶりに来たわ俺」
「たまには本もいいぞ。お前も読めよ、そのままじゃ脳みそが筋肉になる」
図書委員の俺としては、さして珍しくもなんともない図書室で、先生に言われた通りに資料を片付けていく。普段あまり人が入らない書庫を空けると、あまりの埃臭さにふたりでむせた。
「ヤバッ! 杵島、ちょっと窓開けるぞ」
「ッあぁ、......古い本ばっかだな」
段ボールから大量の専門書を取り出して、書庫の本棚に戻していく。そこそこの量があるから、それなりに時間はかかりそうだ。
「先生どんだけ貯め込んでんだよ」と、ぶつくさと言う橋口に揃えた本を渡していく。
「──お前、卒業したら進学か?」
もうそろそろ終わるかな、って時に橋口は何気なく訊いてきた。そう言えば、橋口に俺の進路は伝えていなかった。
「あぁ、まぁ、親にはそう言われてるからな」
「へぇ、お坊っちゃんはやっぱり違うねぇ」
「別に、俺はお前と違ってやりたいこともないしな」
橋口は親の店を継ぐらしい、やりたいこと、やるべきことがある橋口を、俺は羨ましいと思った。
資料を片付けている途中で、本棚におさまった一冊の本に目がいった。なんてことのない普通の本だ。なのに、瞳が釘付けになった。
「じゃあ、これで最後だな。台車はこのままでいいだろ。さすがに腹へったわ、さっさと食堂行こうぜ」
「あ、あぁ......ちょっと、俺はもう少し残る」
「はぁ? やっぱ本好きの気持ちは俺にはわかんねぇな。じゃあ、俺は先に行ってんぞー」
呆れて書庫から出ていく橋口に軽く返事だけして、何故か気になって仕方がない本をひらいてみる。内容は、よくあるようなファンタジーの物語だった。魔女やドラゴン、お姫様が出てくる。
今時羊皮紙で書かれた古い本だった。
"姫はひとり、見知らぬ異世界の地で、戦うことを決めた"
「......彼女の命の灯火は儚く、この先の希望もなかった。拠りどころであるはずの人のそばを離れ、姫の心は、張り裂けんばかりに哀しみにうちひしがれ......それでも前に進むのだった」
──変な話だ。お姫様が主人公で、囚われの王子を助けだそうとする話なんて。
「......なんだこの部分」
姫は、心のなかで必死に誰かの名前を呼んでいる。なのに、その名前の部分だけが滲んで読めなくなっていた。
他の文字は読めるのに、綺麗にそこだけボカされている。
「誰かの悪戯か......?」
それにしてもやけに手の込んだ悪戯だ。
不意に、風が窓から吹き込んできて、本から視線を上げた。夏のこの時期、カーテンを靡かせる風がなんとも心地いい。
しばらく涼んでいると、窓から一匹の白い蝶々が舞い込んできた。
──こんな時期に?
「......モンシロチョウ?」
ヒラヒラと頼りなくただよう羽根も破れた見すぼらしいモンシロチョウだった。弱々しく俺の目の前まで来ると、そのまま本の上に落ちそうになって、慌てて手のひらで受け止めた。
もう命が尽きるまで幾分もかからない......そんな様子だった。
「お前......ひとりか?」
思わず、声が出てしまった。こんな時期なら、仲間ももういないだろう。一匹で死ぬのは、可哀想だ。
"──優都様"
誰かに呼ばれた気がして、あたりを見渡す。優しい声だった。
「......誰、だ?」
"優都様"
もう一度、聴こえた。懐かしいような、胸に響く声音。逆光のなかで笑う誰かの笑顔が脳裏によぎった。
──なんだ、これ。
なんか、わからないけど。瞼が熱く、喉がつまった。
一粒の滴が、頬を滑り落ちる。
それがなにかと理解する前に、視界が滲んで、それは次から次へと沸き上がって、最後には瞼からボロボロと溢れ落ちた。
なんだ、涙が......止まらない。
「......ッ......」
嗚咽が漏れた。喉の奥は締め付けられるように苦しくて、胸は引き裂かれる痛みで悶えそうだった。それはまるで、自分が一番大切にしていたものを突然目の前で失ったそんな焦燥感と、哀しみだった。
──なんだ、これ。俺は、なんで泣いてるんだ。
「君の物語は、これでおしまいなの?」