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手のひらから飛び立つ蝶

 



 どこからか、歌が聴こえる。


 優しく、すべてを包み込むような声は、昔聴いた子守唄を思い出した。


 透き通る歌声に、胸を震わす旋律。これは、シルヴィアの歌だ。




 四日も眠り込んでいる間に、すっかり身体が鈍ってしまっていた。久しぶりに出た青空の下、見上げた空は、抜けるように爽快だった。時折吹く風は、春の香りを散らしながら、その先の夏の気配を運んでくる。


 たんぽぽの花も、随分と白い綿毛に変わっていた。



 シルヴィアの歌声に誘われるように向かったのは、凛花の家の裏手にある林で、隠れ家みたいに見つけたシルヴィアのお気に入りの場所。


 彼女は、天気がいい日、大抵そこにいるようだった。





「みんな、ありがとう」




 白いワンピースに身を包んだシルヴィアは、蜂蜜色に瞬く髪をなびかせて、羽根のように綿毛が舞い上がるたんぽぽの草原の真ん中にいた。


 シルヴィアは、無数のモンシロチョウに囲まれ、蝶々の一羽、一羽と、会話するように優しい歌をくちずさむ。



 歌声で蝶々を操って、周辺の微細な魔力の変動を探っているらしい。陰陽道と、シルヴィアの魔法を合わせた力らしいが、あまりに幻想的で、目の前の光景が夢のなかのものではないことが不思議でならなかった。


 歌がとまってしまったと思ったら、ゆっくりシルヴィアが顔をあげた。



「やはり、黒の魔女とは別に、なにか強い魔力が働いているようです。......これは、竜の血族......つまり、私達の世界の王族でしか感じることができない、竜に守護された者の力」


「王族......? 竜......」



「その場所には、とても複雑な守護が掛けられていて......まるで、なにか大切なものを隠し、守っているかのようなのです」




 ──リディアス王子。


 思わず、脳裏に浮かんだ言葉が、現実味を増していく。竜の守護、王族、そんなやつは、シルヴィア以外にたったひとりしかいない。



「行く、しかないよな」



 意を決して言うと、シルヴィアもまた「はい」と頷いた。



 シルヴィアが蝶々に触れようとすると、そこに銀色のちいさな魔方陣が現れた。ふわりと和らかい風がシルヴィアの髪を舞い上がらせる。




「......すごい、綺麗......だな」



「えぇ、そこには、この紋様と同じ結界が施されているのです」



 魔方陣なんてゲームやアニメのなかでしか見たことはなかったけれど、目の前に浮かび上がったものは、龍の鱗にも、まるで花が咲いたようにも見える華やかな紋様だった。




「竜の、守護......か」



 ......けど、俺が本当に綺麗だと思ったのは、それだけじゃなかった。シルヴィアは、両手で自身の胸に手をあて、目をつむる。



「......私自身にも、この紋様と同じ守護が掛けられておりました」


「シルヴィアに?」


「はい、陰陽道を学んでいくなかで気が付いて......とても不安定な魔力でしたので、ジェイド様さえ気が付くことはなく、ずっと、私には誰から掛けられたものか分からなかったのです。けれど、レティシア様に見ていただいて、はじめて、私はこの術を掛けた方を知ることができました」



「それは......ッ」




 訊かなくても、答えなんてわかっていた。だから、訊かなかった。


 いや、そういうことにしておきたかった。



 知れば、なぜ、自分がこの場所にいるのか、なんだか滑稽(こっけい)に思えて、そんな惨めな自分が耐えられなかったのかもしれない。


 ただの高校生の俺が、魔法だのなんだのの物語の登場人物になれる訳がないのに。どこか自惚れていた自分がいたことに、嫌でも気付かされる。


 ソッとシルヴィアがこちらに歩みよる気配がした。




「優都様、私には、もう......あまり時間がありません......」




 小さく、か細い声だった。




「そう、だよな......」




 春は、季節のなかでも短い。それは、物語の終わりが近いことをしめしている。夢は、いつか必ず覚めるものだ。


 それを知らないほど、俺はもう子供じゃなかった。




「優都様......」




 知らずにうつむいていた俺は、頬に触れられた柔らかい感触に気付いて顔をあげた。

 目の前に、シルヴィアのどこまでも透き通る瑠璃色の瞳があった。


 真っ直ぐに見つめるその瞳は、海の底、穢されることのない輝きが宿っていた。出逢った時から変わらないそれは、やっぱり、なによりも綺麗だと......見惚れずにはいられなかった。



「私はあなたに、とても助けていただきました。そして、いまこの瞬間さえも......」



 シルヴィアの指先が優しく頬をなぞって、額にたどり着いた。「目を閉じていただけますか......?」と、シルヴィアに言われ、言われたとおりに目をつむると、そこに、心地よい熱が灯る。




「シルヴィア......俺は、」




 胸の鼓動がうるさくて、その意味を探りたくて言葉を続けようとすると、しっ、と唇に人差し指を添えられた。



「優都様に、数多(あまた)の祝福と加護がありますように」



 そうして、一節だけ歌われた唄は、俺だけの為にシルヴィアが唄ってくれた祈りの歌。


 それは、どこか胸を締め付けられるような、切ない歌声。



 風の音と共に、歌声が静まって、名残惜しんで瞼をあける。ひらけた視界の先のシルヴィアは、頬を薔薇色に染め、咲き誇る花みたいに微笑んでいた。



「これで、ジェイド様が掛けた"従者の誓い"は、解除されました。優都様が眠っておられる間に凛花様の力をお借りして、術を少しずつ解かさせていただきました。最後の歌がこれで完成しましたから......もうこれで、優都様はなにも縛られることはありません」


「......シ、......」



 術の解除の反動なのか、視界が揺らいで、身体中の力が抜けていく。それは、強い睡魔に襲われた感覚で、抗えないその力に地面に吸い寄せられるように膝から崩れ落ちた。



「......な、ん......で、」



 シルヴィアの両腕に支えられ意識が遠退くなか俺の身体は、抱きかかえられるようにシルヴィアの胸のなかに沈んでいった。



「......優都様は、とてもお優しい方です。怪我のことも、本当に......ごめんなさい」



 夢うつつの意識のなか、シルヴィアの甘い囁き声だけが耳に届く。




「私は、ずっと、優都様に甘えておりました。いつの間にか、私は優都様と私のなかの王子様を重ねて見ていたのかもしれません......。けれど、......もうこれ以上、私たちのわがままに、あなたを巻き込むつもりはありません」



 少しだけ、声が滲んでいたのは、俺の最後の願望だったのかもしれない。




「......私たちのことは、どうか、忘れてください」




 別れは、いつも唐突にやってくる。






「さようなら、優都様──」





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