泡沫の蝶々
風が吹くと、藍色の空に桜の花弁が舞い上がった。夜空に浮かぶまあるい光。
この世界には毎夜形を変え、夜空に月というものが昇る。
太陽が沈んだあとは、見馴れた蝋燭やランプの灯りではなくて、街や家々に一斉に灯る太陽の子供たちみたいな眩い光。
それを夜、高台から街中を見下ろしてみると、まるでそこには夜空の星々が煌めいてるようだった。
そこかしこに咲き誇る奇跡と唄われた異世界の花。大勢の人を運ぶ乗り物、書物にも記されていなかった奇怪な物、見たこともないお料理と、感極まる美味な味。そして、親切で優しい人々。
ここに身分の差もなく、皆が平等で、争いの火も魔物の咆哮もしない、あたたかく平和そのものの世界。
この世界には、そんな奇跡が極普通にありふれている。
「リ、ディ、ア、ス......王子」
ふたたび紡いだ言葉に、どうしても実感が湧かない。
私の愛する人、唯一無二の大切な人、その方の名前なのに。
私は私の存在を確認する為に、胸をギュッと抑えた。蝶々の姿でいる時は感じることができない"私"という感覚。
蝶々の姿になると、世界がすべて淡い幻想の世界に見える。それは、私の存在そのものが世界に溶けてしまうような、世界と私の境界線が曖昧になってしまう感覚。
泡沫の姿のまま、私が消えてしまいそうなった時、あの方のあたたかい手のひらに包まれた。
あの方が、私の存在を"私"としてこの世界にとどめてくれた。
"──シルヴィア"
優しくかけられる声音が、時おり見せる寂しそうな眼差しが、この世界には異質な存在の私を許し、受け入れてくれる。
あたたかく、居心地のいいこの感覚を、はじめて感じるこの感情を、人はなんと呼ぶの──
◇ ◇ ◇
なかなか眠れずに、部屋から出て水を呑みに行こうとすると、縁側でポツンと座り込むシルヴィアの背中が見えた。
薄着の寝間着に、カーディガンを羽織っただけの姿で、手元には県立図書館で借りた本がある。
「その本、気になる?」
声をかけると、シルヴィアはハッとした様子で振り返った。考え込んで、いまの今までこちらの存在に気付いてないみたいだった。
「......シルヴィア、ありがとな。なんか怪我の治癒はシルヴィアがやってくれたって」
「私は、当然のことをしたまでです」
うつむくシルヴィアは、また膝に置いた本に視線を落とした。焦げ茶色の表紙に、ちいさな動物たちの絵。
「童話集? なんか手掛かりあった?」
シルヴィアはふるふると頭を横にふる。本の表紙には"世界の童話集"としか書かれていない。
「このお話のなかに、人魚姫のお話があったのです。優都様は御存知ですか」
「あぁ、まぁ、そりゃあ......人魚が王子に恋をする話だろ」
「えぇ、王子様と逢う為に、美しい声と引き換えに人間の足を手に入れて」
──それはまるで、シルヴィア自身のことみたいだと思った。記憶を無くして、見知らぬ場所で魔女に命を狙われながら、王子を......求めて。
シルヴィアの横顔が、どこか遠くに感じた。
"シルヴィア姫は今この時も姿を現さない愚かな王子のことを考えている"
今更、ジークフリートの言葉が胸に刺さった。
「......王子の手掛かり、少しずつ見付かって......良かったな」
言うや否や、シルヴィアは顔色を曇らせた。どうしたのかとシルヴィアの顔を覗き込むと、シルヴィアは眉を寄せて顔を反らした。
「私のことよりも、優都様はご自身の心配をなさって下さい。優都様の肩の傷はとても深くて......本当にギリギリの状態だったのですよ」
「あ、あぁ、そうだったんだよな。なんか、必死で......ごめん、......ありがとう」
「お礼、なんて......優都様は、何故あのような......ことをなさったのですか」
「あのようなって......」
「......そのお体を、ご自身のお命を、なぜ軽く扱うのですか」
シルヴィアは語気を強めてこちらを見上げた。心なしか頬が紅く上気している。さっきの寝室での出来事とはあきらかに違うその表情にまた別の意味でたじろいた。
「か、軽くって......そんなつもりは。あの状況で最善な方法が、他に思い付かなかったんだ」
「私は優都様と生き残り、あの場を逃れる方法を必死に考えていました。けれど、優都様はご自身ひとりで危険を犯す道を選ばれた。なにも言わず。私はそんなに信用なりませんか? 私はあなたにとって、未だに物語のなかの世間知らずのお姫様のままなのでしょうか」
唇を震わせ、こちらを見つめるシルヴィアは、あきらかにいつもと様子が違う。胸を抑えて、潤んだ瞳が強い感情を訴えかけてくる。
──そりゃあ、ただの世間知らずのお姫様だと呆れた時もあった。物語のなかの架空の人物じゃないかと、どこか他人事のように感じていた自分もいた。
けど、いまは──
「いや、違う! シルヴィアが必死なのもわかってる。けど、俺もシルヴィアの後ろでただ見てるだけなのが嫌だったんだ」
そうだ。俺は、シルヴィアが俺たちとなんら変わらないひとりの人間なのを知ってる。腹が減ったらぐーぐー腹も鳴らすし、泣いたり、赤くなったり、今みたいに怒ったり、俺の前ではシルヴィアはお姫様なんかじゃなくて、いつでも普通の女の子だった。
でも俺は、......俺の場合は、無力な自分のままでいるのが耐えられなかった。シルヴィアの王子の代役は俺にはできない。
......そんなのは、わかりきってる。