白い鷹
「──シルヴィア!」
最後の力を振り絞って叫ぶ。
「え?」と、シルヴィアが振り返った。長く艶めく金糸の髪が、後を追うように煌めいて眩しかった。
「ごめんな」
一言だけ呟いて、俺は手にもっていた消火器の消火栓を開いた。吹き荒れる白い粉が、眼前に舞い散って視界を曇らせた。
一瞬の出来事だった。
ミノタウロスの手を離れ、プロペラの様に回転した大斧は、一直線にシルヴィアに吸い寄せられる。視界を奪われたシルヴィアは、大斧を避け切れずに、右肩を深く抉りとられた。
けれど、シルヴィアの体から赤く飛び散るはずのモノの代わりに、緑色の閃光が放たれた。直ぐ様それは、俺の身体に衝撃を伝える。
──やっぱり、何だかんだでジェイドの魔法はピカイチだ。
鏡に体当たりする。俺の身体を伝って、鏡の結界が粉々に吹き飛ぶ。従者の誓いの魔力の干渉が、鏡に注ぎ込まれる。あまりに強い魔力の反動で、シルヴィアが意識を無くしてその場に崩れ落ちるのが鏡越しに見えた。
右肩を襲う痛みよりも先に、安堵した気持ちが沸く。シルヴィアに、俺のこんな姿を見られなくて済む。シルヴィアの性格なら、いつまでも気に病みそうだ。
鏡のなかから、虹色の鱗を持つ竜──レティシアがズルリと姿を現した。鋭利な爪が床を掻く、巨大な鎌首を持ち上げ、ミノタウロスを悠々と見下ろす。
「ハハッ、すげぇな……」
笑いが込み上げた。形勢逆転だ。長い尾が鏡から表れた時には、ミノタウロスはレティシアの魔法の力で、その身を石化させていた。
相当大きな魔力の付加がかかっていたのか、レティシアもまた力尽きて、一匹の茶トラの猫の姿に変わってその場に倒れた。
「シ、ルヴィア……」
終わった。倒した、ミノタウロスを。
倒れ込んだシルヴィアの指先が、わずかに動いたのが見えた。良かった、シルヴィアは無事だ。気が緩んだ途端に、意識が遠退く。あぁ、死ぬ時ってこんな感じなのか。俺もまた床に吸い込まれるように崩れ落ちた。
「……親父が、泣くな……」
家族の顔が走馬灯の様に思い浮かぶ。冷静沈着な母親と、熱血漢の親父。最近反抗期が始まった妹の恋菜。うちの家族のなかで、一番最初に泣いてくれるのは、多分、親父だ。
「ごめん、な……母さん……」
次の休みには家に帰るって約束したのに。
呟いた瞬間、ふたたび不気味な鈴の音がして、嫌な胸騒ぎがした。ミノタウロスの大斧が、別の生き物のように動いているのが霞む視界のなかで見えた。
クソ野郎……黒の魔女、諦めの……悪い。
「シ……ィ、ア……」
喉が掠れて、もはや声にならない。渾身の力を込めて起き立ち上がろうとしているのに、指先しか動かすことができなかった。石化したミノタウロスの手を離れ、ひとりでに大斧は踊る。
鈍い光を放ってそれは、シルヴィアの身体を真っ二つに切り裂こうと無情にも振り下ろされた──
「シルヴィア──!」
叫び声は、果たして俺の喉から出たものだったのか。そこから先は、すべてがスローモーションに見えた。
風が一筋吹く。目の前に黒い羽根が一枚、ひらひら舞い落ちる。
──カラスの、羽根?
そう思った瞬間、羽根を舞いあげて、俺の横を誰かが駆け抜けて行った。すれ違い様に、耳元で刃が鞘を擦る音が鳴る。
大斧に向け一直線に駆けていったのは、剣を持ったひとりの若い男。男はシルヴィアに振り下ろされる大斧の一撃を、剣の一振りで止めて見せた。激しいふたつの剣撃が、鉄の激音をあたりに轟かせる。
軽やかに宙を舞う大斧が、男の左腕を深く切り裂く。銀色の髪が激しく揺れ、赤い鮮やかなものが散った。
それでも、男は怯むことなく、毅然と剣を切り返し、大斧を一瞬にして切り伏せた。鋭い剣身が白銀に光る。剣の鍔を彩るのは、翼を広げた一匹の大鷲。
まるで、男の存在そのものが洗練された刃のようだ。ジークフリートが狼なら、目の前のこの男は、白い鷹だ。
肩越しに男の瞳がこちらに向けられる。憂う瞳は、金色。それは、太陽の光を思わせるシルヴィアの金糸の髪にとても似た色だった。
男は剣を鞘におさめて、茶トラの猫に姿を変えたレティシアを抱き寄せると、そのまま片膝をついた。シルヴィアの顔を見詰めて、優しくソッとその頭を撫でる。
「お前、は……」
まさか、シルヴィアの──
瞬間、風が激しく吹き上がった。眼前に、県立図書館で見た大量の黒いカラスが一気に雪崩れ込む。不快な鳴き声と騒がしい羽音を響かせながら、カラスは視界をすべて奪っていった。
「く、……そ……」
俺の意識もまた、そのまま暗闇に飲み込まれていった。