迷宮へ
何かを引きずる音が更に大きくなった。廊下の先の曲がり角をじ、っと見詰める。明滅する蛍光灯が、途切れ途切れに姿が見えないものの影を廊下に映す。
大きな影だ、まるで大男のような。けれど、頭の部分だけがやけにデカい。
鎖がジャラッと廊下に落ちた。息を呑んでそいつの姿を待ち受ける。影がひときわ大きく濃くなった瞬間、ぬ、っとせりでた鋭角なものが突き出た。それは、頭からそそりたつ二本の角。徐々に姿を現したその姿を見て、思わず悲鳴を呑み込んだ。
あり得ない。絶対に、あり得ない。
一歩、一歩、それが近付く度に重たい足音が廊下中に響いた。手に持った大斧が引き摺られ、廊下をゴリゴリ切り裂きながら前に進む。
巨体に巻かれた鎖が、冷たい音を立てる。
人間の体に牛の頭、それはまさしく──
「ミノタウロス……」
半獣半人の人喰いバケモノだ。
鉄の錆た匂いがさっきよりも更にキツく感じる。パニックになりそうになる自分をなんとかなだめて、静かに扉を閉めた。物音を立てないように慎重にドアノブの位置を戻す。
「ウ、ソだろ……」
扉が閉まったのを確認すると、全身の力が抜けて床にへたりこんだ。鍵は内側からは掛けられない。そもそもあんな大斧を振りかざされたら鍵や扉なんてなんの効力も持たない。
「あんなの……作り話のなかだけのバケモノだろ……」
ドラゴンの次は白雪姫の毒林檎、そして、挙げ句に人喰いのミノタウロス。黒の魔女は確実に俺達を消そうとしてる。
「優都、さま……」
シルヴィアのか細い声が聴こえて慌てて掛けよった。ヘタる足に力を込めると、なんとかシルヴィアの所までたどり着けた。
空咳が止まらない。喉からなんとか声を絞り出す。
「シルヴィア、大丈夫か……!」
肩を揺さぶると、さっきよりもずっと蒼白なシルヴィアの顔がこちらに向けられた。瑠璃色の瞳に、うっすらと涙が浮かんでいる。細い指が、ぎゅっと俺の制服の袖を掴んだ。
「申し訳、ありません……。罠だとわかっていながら、黒の魔女の魔力には抗えずに……毒を……」
こんな時まで俺の心配をしてるのか。頭を振って答えた。
「目を離した俺が馬鹿だった。大したことない、ふたりでここを出よう」
言っていながら視界はグラグラ揺れる。焼けるような熱が身体中を貫いて、冷や汗が額を伝う。魔女が白雪姫に食べさせた毒林檎。確か、食べた人間は仮死状態になる。従者の誓いの力が発動したお陰でシルヴィアは無事だけれど、その代わり、俺への反動はなかなかだ。
こうして意識が保っていられるのも、あとどのくらいなのか……。
「……シルヴィア、ジェイドの気配は探れるか」
当然だけど、俺達だけじゃあ、あんなバケモノ相手にできない。まずは生き残る事を考えないと。ジェイドとシルヴィアは離れていても繋がっている。ジェイドと合流さえできれば、なんとか外には出られるだろう。
けれど、シルヴィアは力無く首を左右にふった。
「わかりません……。黒の魔女は、ジェイド様と私を引き離す事が狙いだったのかもしれません……」
絶句した。黒の魔女にとっては、シルヴィアとジェイドがそれほどまで目障りなのか。
俺とシルヴィア、ふたりでどうやってミノタウロスに立ち向かえって言うんだ。ましてこの状態なら、逃げる事さえままならない。こうしてやり取りをしている間でさえ、扉の向こうから鎖の音が聞こえてるってのに。
「とりあえず、ここを出よう。ここだと逃げ場が無い……階段は直ぐそばだ。行こう、シルヴィア」
毒林檎の影響が、俺の身体を徐々に蝕んでいる。膝から崩れ落ちそうになると、シルヴィアが俺の肩に手を回した。抱き抱えるように触れたシルヴィアの身体が、思った以上に華奢で……あまりに頼りない双肩に、どうしようも無い焦燥感にかられた。俺の体重なんて、とても掛けられない。
「ごめんなさい……。本来なら、私が受けるべき苦しみなのに……」
眉を寄せ、必死に俺を支えるシルヴィアの横顔を見てると、考えずにはいられない。
あの日、この場所で、あの時間、たまたま俺が居合わせただけだったのに。"なんで俺だったんだろう……"と。運命とやらがあるのなら、時間を巻き戻して、せめてもっと頼りになる奴を選ばせてやりたかった。