依り代
ヒョンなことからこちらに渡ってきてしまったジークフリートは、どうやら凛花の家の古い書庫に置かれていた本を入り口に渡ってきてしまったらしい。
黒の魔女がこちらに邪竜ファフニールを召還してしまったが為に、竜殺しの英雄として活躍するはずたったジークフリートは、その剣の納めどころが無くなってしまったのだ。
「なんだか、気の毒な話」
いつの間にか凛花も加わり、ジークフリートと離れの居間にみんなで集まって茶をすする。
黒猫ファフニールは凛花の膝の上で丸くなって寝ている。てんこもりのかき揚げ入りうどんを平らげて大満足なジェイド様はお腹を向けて縁側で日向ぼっこ中だ。
周辺を探してみたけれど、シルヴィアの姿が見当たらない。ジェイドがここにいるなら、そう遠くへは行ってないとは思うけど。
「陰陽道は式神を使うけど、この子みたいに急に他所の世界に召還されたらたまったものじゃないわね」
「よちよち」と凛花は黒猫を撫でるけれど、黒猫が邪竜ファフニールだった時に一度殺されかけた俺としては、なんだか複雑な気持ちになった。
「まさか、ファフニールがこのような姿になっていようとは」
ジークフリートがあらためて黒猫を見て感嘆の声をあげる。じ、とジークフリートが見つめる先で「ふぁあ」と黒猫はちいさな欠伸をして手足を伸ばした。
「ジークフリートも、こっちに来るのになにか代償を支払ってきたんだろ」
シルヴィアもジェイドも致命的な代償を支払わされてる。ジークフリートだって例外ではないだろう。
ジークフリートは茶をテーブルに置いて、姿勢を正した。
「世界の狭間のこととそれを渡る時に求められる代償のことは、ファフニールの行方を調べているなかで私も知ったのだが、それが私はなにも代償を求めれなかったのだ」
これには驚いた。ジークフリートの瞳の力は相変わらず鋭いままで、嘘を言っているようには思えなかった。
そんなこともあるのか。世界の理にも贔屓があるのか。
「だが、しかし……」
言い澱むジークフリートが落胆して肩を落とす。手に持っていた剣をテーブルの上に静かに置いた。
茶色いなにかの皮にくるまれているが、所々垣間見える鞘や柄の作りは精巧で、剣そのものに重厚な存在感があった。
「ファフニールを倒す為に鍛えあげた剣であったが、すべてが徒労だったようだ……」
落胆したジークフリートの顔に疲れが滲んだ。いや、ジークフリートは明らかに代償を支払っていた。こちらに渡るそもそもの目的をジークフリートは見失っている。
よもや代償は竜殺しの英雄として吟われるはずだったジークフリートとしての"将来性"とでも言うのだろうか。
お! これはなかなかうまいこと言ったな。
ずず、と茶をすする。
うん、茶がうまい。
「じゃあ、ジークフリートはずっとあの離れのそばで身を隠していたってことなのか?」
「いや、見張ってはいたが、こちらに渡って来る時に依り代として陰陽道の式神を使った。日中は式神として屋敷のなかに隠れていたんだ」
「そうだったの!?」
凛花が思わず大声をあげた。
依り代?
「ジェイド、依り代ってなんだ?」
縁側で毛繕いするジェイドに訊ねると、「よっこいしょ」とジェイドは重たそうに体を起こして、ちょこんと両前足を揃えた。
「お主にはまだ話しておらんかったの。こちらに渡って来るには魂の入れ物が必要なんじゃよ。一度世界の狭間にワシらの肉体は預けて、魂だけ異世界に運ぶのじゃ。依り代はその渡った先の世界で生きるものでなくてはならぬ。ワシはこのようなケモノの姿を借りておるし、ジークフリートは式神とはの、なかなか考えたのぉ」
そもそも俺にはその式神がなんなのかすらよくわかっていない。アニメや本の式神は人の形だったりケモノの姿だったりするが、まさかその式神か?
凛花が懐から取り出した一枚の紙を見せてくれた。前に青い炎になって消えた人型の紙だ。
「見てて」
凛花が何事か唱えると、人型の紙は蒼白い光を放ちながら姿を変えた。
鱗粉の代わりに青い光を撒き散らしながら舞うちいさな青い蝶だった。
「前に優都の前で使った時は、猫ちゃんの霊力が不安定そうだったから私の力を分けてあげようとしたんだけど、猫ちゃんの潜在的力の方が強くて強制的に解除されちゃったんだ」
「依り代って、じゃあ、みんな何かを入れ物にしないとこの世界にいられないってことか」
──あれ、
「じゃあ、シルヴィアの依り代って……?」
俺はまだ肝心なことを訊いていなかった。凛花とジェイドはなぜか言いにくそうにふたりして視線を畳に落とした。
凛花が放った式神の蝶々が俺の目の前をひらひらと舞う。凛花が一声呼びかけると、それに答えて式神はふたたび青い光を放って消えた。
あとにちいさな人型の紙だけを残して。