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黒の魔女

 




 優雅にそびえる富士山と、夕陽に染まりながら咲き誇るタンポポの群生にしばらく見惚れていた。



 この景色がこんなにも綺麗だと思ったのははじめてだった。そんな風に思える自分自身に内心驚く。こんなに世界は色鮮やかな色彩にあふれていたのだとあらためて知った。


 冷たい風が頬を撫でた。風がやけに吹く。もうすぐ夜になる。あまり遅くなる前には帰らないと体が冷える。



「シルヴィア、そろそろ帰ろう。風が冷たくなってきた」



 言ってる間にも風が強く吹いて、荒々しくタンポポをしならせる。ジェイドも黒猫も丸くなって身を寄せて伏せている。


 なんだ? やけに強い風だな。台風みたいだ。



 不信に思っているとシルヴィアに腕を捕まれた。そのまま地面に伏せさせられる。「シルヴィア──!?」何事かと急にしゃがみこんだシルヴィアを見ると、シルヴィアは「し、」と人差し指を口元に立てた。


 その瞳には鋭い気配が宿っている。



 鈍く重たい風音が耳元を騒ぎ立てる。日没まではもう少し時間があるはずなのに、あたりが急に暗くなった。


 なんだ、なにかがおかしい。



 ざわざわと背筋に嫌な気配を感じる。このひんやりと冷たい感じ、そうだ、あの黒いドラゴンにはじめて対峙した時と同じ感覚。


 木々がざわめいている。シルヴィアが景色の一点を見つめ、静かにそして慎重に言葉を紡いだ。




「黒の、魔女です」




 黒の魔女。まさか、こんなところで。


 ある程度覚悟はしていたつもりだったけど、正直、こんなに早くお目にかかる時が来るとは思わなかった。


 ドラゴンを悠々と使役する程の力を持った正真正銘の魔女とやらに。俺達にとっては厄介者でしかない。一番会いたくない相手だ。




「黒の魔女は周辺の魔力を喰い付くします。だから急にこのあたりの空気が攻撃的に、重たくなったのです」



 リーン、と高い鈴の音が耳に付いた。やけに耳障りなその音に反射的にそちらに視線を向けると、巨大な鷲が一羽、街の上空を旋回しているのが見えた。


 甲高い鈴の音が鳴るたびに大鷲が首を傾げて、機敏に尾翼を動かして方向を変えている。



「黒の魔女の大鷲(ウォルグ)です」



 大鷲の背には漆黒のドレスを身に纏った女の姿があった。頭から長いベールを被り、口元も同じように隠している。手には長い杖を持っていて、その杖が左右どちらかに動くたびにリーン、と不気味な冷たい音が鳴った。



「あれが、黒の魔女……」


「はい」



 シルヴィアが神妙な様子でうなずいた。しかも悪いことに、黒の魔女を乗せた大鷲が徐々に高度を上げてこちらに近付いてきている。



「ああして私達の気配を追っているのです。私達に残った僅かな魔力でさえ、黒の魔女にとっては絶好の餌に過ぎません」



 ジェイドが昨夜言っていた、シルヴィアが放つ魔力の香りはとても強いのだと。それは黒の魔女や魔のモノにとっては魅力的なものだと。



「いまはジェイド様が極力魔力を抑えておいでです。このまま静かに時を待ちましょう」



 ジェイドも黒猫もまんまるに固まったまま動かない理由がいまやっとわかった。いまはカッスカスのジェイドの魔力を使って気配を消しているのなら、確かにこの場を動かないことが賢明だ。いま黒の魔女に気付かれたらみんなまとめて終わる。



「大丈夫です」



 シルヴィアが努めて冷静に言うけれど、その白く細い首筋にツーッと冷や汗が流れ落ちるのが見えた。


 もう大鷲の翼の羽根が一枚一枚鮮明に見えるくらいの距離まで近付いている。こちらの呼吸音まできこえまいかと息までしにくい。


 ──くそ、どうしろ、って言うんだよ。




 ……す、となんの前触れもなく黒の魔女の視線がこちらに向いた。冷酷にこちらを見つめるその瞳は、どこか蠱惑(こわく)的な純黒の瞳。その目が細められる。


 ──見つかった! 身体中の筋肉が強張る。心臓が握り潰されるかのように激しく鼓動する。耳鳴りなのか魔女の杖の鈴の音なのかもわからない不協和音が頭のなかに響き渡る。



 大鷲の体が大きく傾いた。こちらに来るつもりだ。走って逃げるか、このまま身を隠し続けるか、どっちだ!?


 考えてる時間もない、慌ててシルヴィアの手を掴んで走りだそうとしたその時──




 "動かないで"




 頭のなかに響いたのはそんな言葉だった。


 またジェイドのテレパシー的なヤツだと思ったが、明らかに声も言葉遣いも違った。もっと少年のような幼い声だった。



 不思議なことにその声がした途端、あたりが柔らかい光に包まれたように明るくなった。さっきまで吹き荒れていた冷たい風がなにかに遮られて、かわりに暖かい風がサーッと吹いた。


 ざわざわと激しくうなっていた木々も、いまはなぜか俺達を守るようにその枝葉が内側に向いている。





「何者かの結界です」





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