世界の代償
ピタ、とジェイドとシルヴィアの動きが止まった。続く沈黙に違和感を覚える。あれ? 聞こえなかったのか。
皿を洗う水道の音で聞こえなかったのかと思って、水道の蛇口をひねってもう一度質問した。
「だから、王子の──」
「……無いのです」
ハッキリとした声が聞こえたと思ったら、シルヴィアが飲んでいたコーヒーのマグカップをテーブルに置いた。さっきまでの空気とは一変した冷たいものがシルヴィアの表情に浮かんでいた。
「私には王子様の記憶が無いのです」
「え?」
──はぁ!?
「記憶が無いって……どういう……だって探しに来たんだよな。その……王子、様とやらを」
「はい……」とシルヴィアが頷いた。飴色の睫毛が濃く頬に影を落とした。お腹いっぱいでウトウトし始めた黒猫を細い指で撫でるシルヴィアの横顔が急に大人びたものに見えた。
「世界を渡るには代償が必要なのです。私は愛する人……つまり、王子様の記憶を代償にするしかこちらを渡ることができなかったのです」
「そんなことって……」
「あるのじゃよ。それが世界の理じゃ。ワシは竜としての魔力の源を代償に、姫様は愛する者の記憶、思い出をすべてじゃ」
「じゃあ、そんなの……」
探しようがないじゃないか、と喉元まで出かけた。シルヴィアの顔を見たらその先を言うことなんてできなかった。
だから竜の御珠が必要だったのか。
「でも、なんか他にあてはあるんだろ? 竜の御珠以外にもさ、なんか……魔法だってあるんだし」
軽率な言葉だとは思った。シルヴィアの浮かない顔がすべてを語っていた。
「世界を渡る際は、元いた世界のものは最低限のものしか持ち出すことはできないのです。なので王子様に関するものも……なにも……」
「なら、」
ジェイドの方を見る。ジェイドから王子の情報を聞き出せばいいじゃないか、そう思ったが、ジェイドはそっぽを向いて丸くなった。
「ワシにきいても無駄じゃぞ、ワシには我が血統の王族以外、どの人間も同じに見えとったから区別なんてつかぬ」
──この、ポンコツ猫め。
わなわなと怒りが立ち込める。ジェイドの魔力が枯渇した時のシルヴィアの落胆した姿が脳裏によぎる。竜の御珠とジェイドの魔力だけが王子探しの頼みの綱だったんだ。
愛する人の記憶がないって、それでもその人を探したいって、それはどういう気持ちなのか、俺には理解できない感情だった。
シルヴィアがゆっくりと両手を胸にあてた。
「私には記憶はありません。けれど心は、心だけは世界の理でさえ奪うことはできなかった」