少しの不自由や不便を楽しめてこそ人生なんだね
大宮から電車ですぐの、昼間は学生だらけの小さな駅で降りてタクシーで10分程走ると、夜8時くらいでもう歩く人影もめったにないような広い新しい道路に入り、
少し遠くにポツリと建つ三棟の大きなマンションがきらきらとオレンジ色に光っているのが見える暗い道をそのまま数分進むと、
何本も日向夏や八朔が重そうにぎっしりと生っている樹がある大きな家に着いた。
すぐに電動門扉が開いて、背はそう高くないが細身でスタイルの良い30代後半の男が少し長めのウエーブ髪を風になびかせながら暖炉の煙突がスタイリッシュな北欧風の家から、待ちわびたようにパタパタと草履の音をたてながら走り出てきたが、家の様子は玄関からでは本土見えない。
昨日LAXから成田に着いてまだジェットラグ状態のリョウは、日比谷の事務所に急に呼ばれてカジュアルな装いで一人で顔を出しに行ったのだが、
事務所では次々に面会や打ち合わせのための顔合わせをさせられてしまい思ったより時間が遅くなり、
車よりよほど早いのでNYCで地下鉄に一人でサッと乗るように身軽に電車で移動して帰ってきてしまった。
リョウは昨年くらいからアメリカでも誠実samuraiキャラの東洋人アクターとして顔を知られ始めていて、若手トップ俳優の一人と言われるようになるのも時間の問題だろうと噂する日本の業界関係者も現れ始めていた。
世間には内緒にしていた年上の妻のユウコが亡くなってからは、
マネージャー兼運転手のスドウと2人で三ヶ所、Los Angeles、さいたま、京都の、のんびりした地区の拠点からそれぞれ近い仕事場に行くように探した家が、ポンポンとそう時間もかからずに容易く見つかった。
そもそも三ヶ所とも、ゴーストになっているユウコが決めたようなもので、
大きな撮影所に行きやすく、周辺住人は少なく、広い土地の付いた隣人の目や音を気にしなくて良い広い家、そして、
一番近いコンビニには車で行くしかない不便な立地、ガスが通っていないような不自由なものでも可、
という条件を見事に満たしていた。
1000平米を軽く越す広い庭で屋敷が覆い隠されていて造りもそれぞれ個性的な三軒は、
オーナー側にしてみれば偶然のようなきっかけでなんとなくリョウに貸すことになった、というものだった。
リョウとスドウは明日からは、
時代劇の撮影のためにしばらく京都に入るので久しぶりに亡き妻ユウコが好きだった廣沢の池の奥の竹藪の中の、
散歩道からは家があるとはまるでわからない和風建築の古い邸宅に移動することになっている。
その京都の家は、
紫式部が20歳の頃に実際に具平親王と大顔が廣沢の池までお忍びでお月見に出かけた時に今の場所より北西になる当時の遍照寺があった辺りになるのだという。
その大顔という女人は、紫式部のラブストーリー源氏物語のヒロインの一人である夕顔のモデルとなった人物で、
恋する男と月見を楽しめる環境に身を置きながらも、その幸せなひとときの最中、はかなくも消え入るように急死してしまったという悲恋のヒロインで、
その話は宮中では知らないものはいないというほどの噂になったという。
亡くなった大顔という女人の恋のお相手の具平親王こそが、光源氏のモデルだとも言われている。
リョウのさいたまの家は東京駅から40分もかからないのに北海道のさらに端にでも居るかのような静かさで、プライバシーが完全に守れる首都圏住まいで、
仕事以外では知らない人と顔を合わせたくないリョウにとってはとても落ち着け、その広さゆえにユウコとはなしをしているところをスドウに知られるなどもまったく気にしなくて済む。
今でもリョウにだけはユウコが見えて声は無いはなしが出来るのだが、大きな邸宅をシェアしているスドウにはそのことはなにも言っていない。
スドウには、美しいハヤトのゴーストが見えていることをまだリョウは知らない。