5話
土曜日。学校が午前で終わると高縁はバスを自宅の最寄りで降りず、そのまま学校とは正反対の方向へ揺られていった。向かうは水城市南東部の外れ、工業団地が幾つか立ち並ぶ川津地区。その中でも一際目立つ場所だ。
水城川に沿うように四角い工場が6つ、二列縦隊で並んでいて、そこから通りを一本挟んで十三階建てのビルが二棟と、寮らしきマンションが軒を連ねている。水色と青のグラデーションで塗装された施設群は緑と遊歩道で囲まれていて、他が団地ならこちらはニュータウンとでも言ったところか。
そのニュータウンのど真ん中にあるロータリーでバスを降りると、直ぐそこに例の十三階建てのビルの入口がある。全面ガラス張りの玄関の前にはプレートがあり、仰々しい字体で「バンテック水城総合病院」と刻まれていた。
別に身体の何処かが悪いわけではない。高縁はここでバイトをしているのだ。もっとも売店や清掃のような物ではなく、ちょっと特殊な内容では有る。それを差し置いても日数は月二回、時給換算にして二千円近い破格の賃金は代えがたい魅力がある。強いて苦言を呈することが有るとすれば、
「ヘーイ、コーウェン!Are you feeling OK?」
職場の人間がハイテンションすぎることだろうか。そう思いつつ高縁は声のする方に振り向くと女性がいつの間にか後ろに立っていた。白人ゆえか高縁より頭一つ高い身長とその他色々デッカイ身体はダボダボの白衣を着込んでいて、首から下げられた名札には「モニカ・ステファンス」とカタカナで書かれている。
「コーウェンじゃなくて高縁です」
「アー、ごめんなさいねコーウェン。漢字難しいカラ」
そうは言いつつも聞いているのかいないのか、モニカはウェーブの掛かったブロンドの毛先を弄るのにご執心のようだった。溜息しか出ないとはこのことだと高縁は思う。初対面の時に名字の読みを間違えられてからずっとこう呼ばれているのだ。
「まぁ…コッチのほうがシンプルでいいでショ?さ、ゴーアヘッド!」
と、物腰こそ柔らかいが有無を言わせない強引さは外国人のバイタリティか。スタスタと歩いていくモニカの背中を高縁は追いかけるしか無かった。
バンテック総合病院はいわゆる企業立病院の一つで、社員だけではなく高縁のような一般市民も利用できる。新興の医療ベンチャーが母体なだけあって設備は勿論、医師も国籍問わず腕利きが集まっている。人目が多い都心を避けたいVIPも入院しているともっぱらの噂だ。高縁もモニカがスペシャリストと呼ぶに相応しい知識の持ち主だということは、今までの付き合いでよく知っていた。性格は古典的日本かぶれという表現がピッタリ合うが、頭の良い人間は大抵ネジがどこかしら吹っ飛んでいるものなので気にしないことにしている。
賑わうロビーを通り過ぎ、まだペンキの匂いが漂う階段を下る。大型検査機器の名前が書かれた表札や、赤黄オレンジの色とりどりのハザードマークを抜けて、また階段を降りる。それを何回か繰り返して、高縁は学校の保健室のような場所に通された。パイプ椅子に腰掛け、テーブルを挟んだ対面にモニカが座る。
「オーケー。それじゃあ先ずは血を取らせて」
手慣れた手付きで駆血帯を巻き、注射器で血を抜いていく。ツンとした痛みを感じる間もなく絆創膏を貼られた。素人目にも手慣れているのがよくわかる。
モニカはそのまま採血した血を、部屋に備え付けられた馬鹿でかいコーヒーサーバーのような機械に投入した。気の抜けた電子音と機械の唸る低い音だけが場に響いている。機械に繋がれたコンピュータを見ている表情が徐々に険しくなっていった。なんかマズイのかと思いつつも聞く気にはなれなかった。
高縁は所在なさげに周りを見渡す。面白いものが特にあるわけじゃ無いが、はバンテックの広告ポスターで、「先端ナノマシン医療で新しい未来を」などという文言が書かれている。
ナノマシン。正式名称はマイクロメディカルシステム88型とか言うらしい。これこそがバンテックの躍進のカラクリだった。
入れ物はES細胞やIPS細胞の延長線だが、投与後に体内で被投与者のDNAを記録する極小サイズのコンピュータチップが核を構成するのが決定的な違い。細胞分離の代わりにそのDNAを転写し、身体の場所に応じた、再分裂しない一代限りの細胞を生成する。
この技術の確立で、既存技術では問題とされてきた技術的ハードル、特に元細胞から引き写したDNAの異常に起因するリスクは大幅に低下。先天的遺伝子異常を除けばありとあらゆる病気、障害は完治することが容易に可能になった。無論、拘束時間や心身の負担も減少している。
万が一のテラトーマなどが形成された場合にそなえて、バックアップのDNAさえ事前に記録しておけば、後は定期的にナノマシンの入れ替えをすれば良い。国保の対象外ゆえ、コストが難点といえば難点だが、バンテックは大量生産ラインでそれに応えた。さらに配下の会社に対応保険を作らせる荒業も相まって現実的な数値に低下し始めている。理系とは言えない高縁でも、昔取った杵柄でコレくらい知っていた。
「コーウェン。お待たせ。取り立てて異常は無さそうよ」
「そうですか。良かった。虚弱体質なもので心配してましたよ」
高縁はその治験のバイトを受けていた。というのも、幼い頃に身体を壊してどうにもこうにも回復しなかったので、黎明期のナノマシンの治験に協力させられることになったのだ。お陰様で虫の息からもやしっ子まで回復できたし、頬を叩ける固まりが一ダース分は作れる諸経費も肩代わりしてもらったので、文句は言えない立場だ。
「ナノマシンの方はね」とモニカが呟く
「神経伝達系のログにイレギュラーがあったわ」
アドレナリンとかセロトニンとか。脳内物質とか言われてるやつだっけ。と高縁は思った。臓器はともかく頭の中までナノマシンをブチ込んだ覚えはなかったので違和感がある。
「それって何か関係有るんですか?」
「わからない。それを調べる為に来てもらってる訳だしね。ナノマシン由来だったら大変だわ」
もっともだった。
モニカが機械のスイッチをいくつか押すと、いかにも記録データ、といった感じの長い一枚の用紙が吐き出されてきた。一メートルはあるソレをテーブルに乗せて、モニカが「here」と指をさす。色とりどりの折れ線の一つが、局所的に大きい振れ幅を示していた。
「ココと、言われましても……」
「ドーパミンが多いわ。昨日の日中の数十分くらい。なにか興奮するような事した?」
モニカは手を顎に当てて、真剣な顔で呟く。
「マスターベーションとか」
「してませんよ!」
高縁は大声で叫んだ。なんてこと言い出すんだこの人は。
「第一昨日学校です」
「でもサボタージュしてたんでしょ?時間は有ったはずよ」
「何で知ってるんです……」
身体のモニタリングが業務な以上、プライバシーについては諦めているが、ココまで来ると恐怖を感じる。高縁はなぜモニカが学校をサボっているのを知ったのか、皆目見当がつかないのも拍車をかけた。だが、熟考させる暇なんて与えないと言わんばかりにモニカが畳み掛けた。
「大丈夫大丈夫。男の子ですもの。それくらいで軽蔑しないわ。マテリアルが二次元だったら警察呼ぶけど」
「そっちの方向に話持ってくの止めてくれません?あと何で既に携帯持ってるんです?」
「ワン・ワン・ツー……あれ、通じない?日本の警察って怠け者なのね」
「隣の姉貴もオフはダメ人間ですしねー……って人の話聞けよオイ」
思わず地が出てしまう。モニカはぎょっとした後、引きつった笑いを浮かべて「ジョークジョーク。ナイスジャパニーズノリツッコミ」と譫言を唱えていた。フォローのつもりなのだろうか。
冷めた視線を振り払うように、モニカは咳払いを一つ。その後、高縁の方へ向き直った。
「実際ソレくらいしか考えられないっていうか。後はドラッグか……病気くらい?」
「病気ですか?」
「恋という不治の病ね」
どやぁ。そんな言葉が思い浮かぶような表情でモニカはそう告げる。一々真面目に付き合うと生気を使い果たしてしまいそうなので高縁は「ありませんね心当たり」とだけ返答した。
「じゃあ何か変わったことあった?」
「転校生が来たぐらいですかね」
「へー転校生……。転校生ですって?」
昨日あった変わったことといえば、ソレくらいだったか。そういえば結構ひどい目にあった気がする。高縁はそのコトを伝えようとしたが、それよりも早くモニカが身を乗り出さん勢いで食いついて来たので、タイミングを失ってしまった。
「因みに名前は?どんな子だった?パン咥えてた?」
モニカは何処から取り出したのか、ボードの用紙にメモを取り始めていた。パンて。漫画の読みすぎだ。と高縁は思う。モニカは日本人が考える日本かぶれ。の姿を地で行く事が少なくない。演技なんじゃないだろうかと聞いてみたい衝動を抑え、高縁は一つ一つの質問に答えていく。
「えっと、綴里っていう女子生徒で……」
「綴里……?」
二文字目で早速メモを書く手が止まった。オーウ。ビューティフルなファミリーネームですネ―。とでも言うのだろうか。
「レアなファミリーネームね。ワサビを感じるわ!」
「……侘び寂び?」
「そうそれ!」
「わびさび」とメモの下半分に大きく書いて、丸で囲む。
今気づいたんですけど、それ僕の名前書いてあるカルテっぽいやつですよね? 備考欄とはいえそんなクソどうでもいい用途につかって良いんですか?と高縁は呆れ混じりの息を吐いた。向こうからしたらモルモットの飼育日記感覚でも、限度があるというものだ。
「因みに下の名前は?」
「……ありす。だそうです」
ありす。と達筆な平仮名を書き連ねていく。達筆すぎてヘブライ語とかタイ語にしか見えない。「…少し怒ってる?」と視線を落としたまま、モニカは呟いた。
「気のせいですよ」
「ならいいのだけれど……オーケー。じゃあ向こうに横になって」
モニカが視線を向けた先、壁の一面には大きなガラス窓が嵌め込まれている。地下なので風景の代わりに、向こう側にもう一つ部屋があった。壁一面にサーバーのような設備が埋め込まれており、真ん中には典型的な医療用ベット。二つはコードで繋がれており、中継機なのかやはりサーバーのような装置がベッドに隣接していた。
高縁はそのベッドに寝かされ、点滴のような形でナノマシンの補充を受けるのだ。手打ちの注射器では量が追いつかないらしい。
「腎臓のナノマシン丸々取り替えるから、少し時間掛かるわ。抑制剤一緒に投与するから朦朧とするかも。痛みがあったら強制停止ボタン押して」
抑制剤というのはナノマシンの入れ替えの時に身体が拒否反応を起こすことを防ぐため、免疫機能を一時的に低下させるものらしい。麻酔とは色々違うらしく、体の機能を停止させるコッチのほうが危険なのだとか。
モニカは「この16ケタの暗証番号ってどうにかならないかしらね。私面倒だから名札にメモっちゃってるわ」と嘯きながら装置を弄っている。長い電子音が三回なって、「それじゃあ、始めるわね」とだけ言うと、部屋を出ていった。
サーバーもどきが低い唸り声をあげ、上端から伸びているチューブに青色の液体が満たされていく。抑制剤だ。チューブの先は右腕につながっている。
高縁は、その緑の管に目を凝らすのが好きだった。ナノマシンは見えるわけがない。というのは理屈でわかっていても、たまにキラリと光ったりするナニかが管を通ると、もしかしたら。と思ってしまう。自分の体の中に入るものなら、ちゃんとその姿を拝んでおきたい。というのはそう突飛なことではないだろうし、朦朧としてくる意識の中で集中することは、徹夜で迎えた午前五時のような高揚感も与えてくれる。
ただ、その集中は長くは続かなかった。電話の着信音が向こうの部屋から鳴り響いてきたからだった。一度集中の糸が切れてしまうと意識が朦朧としてきて、高縁は夢うつつの中でペタペタという音を聞いた。
足音だ。窓からは内線電話の受話器に手をかけるモニカの姿が伺えた。「ハロー」と小さく声も聞こえる。
「また漏洩でしょ?今度はどこ?」
しばしの間が空く。
「ええ。もう搬送した?後で見に行くから……え、ここ?」
高縁と話しているときとは違う、流暢な日本語だった。
「うちのセキュリティも末期ね。実害は?そう……」
長い沈黙。
「ただちにカバーストーリーと対策案を提出しなさい。そろそろ皆勘付いてるでしょうし。臨床が成功してもコレじゃ元も子もないわ」
あからさまに苛ついている。最初こそうん、うんと相槌を打っていたモニカは、「そういうことじゃないの!」と大声でがなった。
「玄関ホールの消毒とかじゃなくて……。ああ、そう」
大きな溜息。頭をボリボリとかきむしる。
「とにかく、策を考えて。でも勝手に動くんじゃないわよ。そしたら首を切るから覚えときなさい。…ええ。物理的にね。わかってるでしょ?」
叩きつけるように受話器を戻す。そして舌打ち。ポケットからスマートフォンを取り出した。「噂をすれば…」とモニカはイヤそうな表情で耳に当てる。今度は流暢な英語だった。なけなしの英語力で意味を読み取ろうとしても、細かい言質を読み取ることは出来ない。ただ、何か言い訳や弁解の類に見える。そう結論づけるのが集限界だった。高縁の意識は白い靄に包まれるように、遠のいていった。
どれくらい時間が経っただろう。高縁が目を覚ました時、すでにチューブは取り外されていて止血もしてあった。腹の上に書き置きが乗っかっており「You must be tired!! P.S.裏口から帰るように」と走り書きがしてあった。
スマホで時刻を確認すると、長針は二周している。意外とかかったな。と思いつつドアを開けて、サーバールームから保健室もどきへ、保健室もどきから廊下へ。おぼつかない足取りで歩いていく。
「何の話したんだっけか……」
高縁は一人呟く。意識を失う前の記憶があやふやなのは抑制剤の副作用だから、覚えていないのは当然だった。風邪を引いた時みたいになるのだ。しかし、高縁はそのことが嫌に不気味だった。記憶があやふやな事自体ではなくて、その内容が何だったのか。ここ二、三日感じ続けている違和感に通じそうな何か。
高縁は階段を一回まで上がると、ロビーとは反対方向へ歩き始める。というのも、ロビーには工事現場よろしくパイロンが置いてあり、一部にブルーシート。清掃中立入禁止。と書かれた看板は、ありものを引っ張ってきたらしい。
そして、そこには白衣の人だかりがいて、彼らの表情が殺気立った感じなことに気付く。トラブルでもあったのだろう。高縁はそう結論づけて撤退することにした。白衣の連中が皆一様にマスクと手袋をして居ることや、マグロのように膨らんだ黒い袋が置いてあることや、中心で指示を飛ばしているのが、ついさっきまで話していた人だということは、見なかったことにする。目があったらマズイ。本能的にそう思ったからだ。
裏口。もとい搬入口は正面玄関に比べれば静かだった。正面玄関に隣接する急患センターを除けば唯一の出入り口だが、職員か出入りの業者くらいしか使わない。
高縁は外の空気を吸って、得体の知れない不安感を追い出す。幹線道路に通じるなだらかな坂は、植林によって公園のようになっていて、空気はそれなりに美味しい。あとは警備員の詰所を抜ければよいのだが、そこまであと数メートル。というところで高縁は足を止めてしまった。
そこでは遮断器を挟んで三人の男女が押し問答を繰り広げていた。二人の男は敷地側で、この病院の警備員だ。見るからに東南アジア系の外国人で、格好こそキチンとしているものの制服から飛び出す浅黒い二の腕にはタトゥーが刷ってあったり、髪の毛も長かったり勤務態度も悪い。日本語も怪しく警備より襲撃側が似合っていそうな連中だ。
だが、高縁にとってそれは問題ではなかった。初めて見るわけでもないし、外資ベンチャー企業だから警備員の採用も外国人をベンチャーな条件で雇っている。と思えば納得はしないが理解は出来る。問題は敷地内への侵入を試みている側の少女だった。県立西水城高校の制服を着て、二年生のリボンタイを着け、髪は今時珍しい黒いロングストレート。
高縁は見つかる前に退こうとした。しかし遅かった。少女の赤紫の瞳がこちらを捉えるのがはっきりとわかった。なんでコイツがココにいるんだ。
「あら、一日ぶりね。ダンゴムシ君」
つい昨日の出来事を再現するかのように、面妖な笑みを浮かべながら立っている少女__綴里ありすを見て、高縁は追い出したはずの不安感がぶり返していくのを感じていた。