2話
バス停に着くと、狙ったようなタイミングでバスが滑り込んできた。濃緑とクリーム色、都営バスもどきなツートンカラーで塗り分けられたバスは、水城市の「歴史とカエルの街」というスローガンにあやかったのか、「青ガエル」と愛称がついている。が、誰もそうは呼んでいない。
系統と行き先を確かめて乗り込み、整理券を取る。客より空気を運んでいる事が多いと揶揄されるだけあって、エアコンの涼しい風がとても心地良い。
真っ昼間の水城交通67系統「河鹿平アウトレットパーク行き」は高縁の予想通りスカスカだった。最後尾で騒ぎながらコチラに好奇の視線を向けるケバいオバサマ三人組以外は誰も居ない。座席の一つに腰掛けて、高縁はようやく一息。一拍遅れて少女が座った。
高縁の後ろの席に。
あーそーですか俺の隣は嫌でございますか。ただ、面と向かって嫌悪の言葉を投げかけられるより、こういう方が深く刺さるのは内緒だった。まぁ、自分が相手の立場だったら同じことするしねーと精一杯の強がりを言ってみる。
オバサマがたの声のトーンが控えめになり、代わりに視線が痛いくらいに突き刺さるのがよく分かった。なぜあの手の連中は向けられる視線は気にならない癖に時に周りの異変には目敏く気付くのか。こういう時は自分の殻に閉じこもってしまうのが一番。高縁はイヤホンを取り出そうとポケットに両手を突っ込んだが、安っぽい塩化ビニルの手触りを見つけられない。どうやら家に忘れてきてしまったらしい。バスは空いている道路を誰も気にしちゃいないのに法定速度で走るので、高校の最寄りまでどう計算しても三十分。その間マシンガントークの射撃目標で居続けるのは中々にキツかった。
後ろに座っている少女はどうしているのだろうかと気になった。知ってどうにかなる話でもないが、何となく気になったので振り向く。
少女は窓縁に頬杖を付いてじっと外を見ていた。そんなに視線を合わしたくないかと思ったが、違うようだった。瞳がせわしなく動いている。虫でも追っているのか。外に視線を移す。視界の奥の方には、水城湖と対岸側の市街地中心部が鎮座していた。水城湖は日本有数の大きさで市内北部に点在する寺社群共々観光資源の一つだ。それだけあって他所様には珍しいかもしれない。
しかし、少女の視線はそれとは別のものを追いかけているようだった。バス停を三つほど通過した後、それが追い越されていく歩行者や、流れていく建造物、車、看板、そんなありふれた田舎風景に向けられている事が分かった。
どこかおもちゃ売り場を眺める子供のようだ。と高縁は思った。初めて目にするものに対する羨望と、どうせ手が届かないという諦めの混ざったような仕草。さっきまでの高圧的なイメージとはかなり外れていた。
「なんか珍しいものでもあった?」
「クソ虫が話かけないでよ」
まだ続いてたんだそれ。まさか第三者がいる場所でやられるとは思わなかった。後席からの射撃が一瞬止まり、激しさを増して再開された。そうしてまた幾つかのバス停を過ぎた頃、それまで無視を決め込んでいた少女も流石に気まずくなったのか、控えめなトーンで口を開いた。
「別に……ただ、こういう景色はテレビでしか観たこと無いから」
高縁は一分ほどして、さっき話しかけた時の応答であると気づいた。バスが停まる。オバサマ方がこちらを時折振り向きながら市民なんちゃらセンターに消えていき、代わりに荷車を押したお婆さんが乗ってくる。バスが動き出した
「こういう所の人ってどんな暮らしをしてるのかなって」
「都会そんなと変わらないよ。コンビニもユニクロもあるし」
少なくとも公共施設に関しては。今止まったなんちゃらセンターも、市の規模に見合わない諸々の設備やバスロータリーがある。このバスにしてもそうだ。台数はアホみたいに多い。
吉幾三じゃないんだから。と噴き出してしまう一方で高縁は、結構感受性というか想像力が豊かな人なのかもしれない。とも思った。大方スマホで陰気な内容のツイートをして、似たり寄ったりの危ないメンヘラ連中とつるんでいそうなイメージが有ったから意外だった。
「なんか失礼なこと考えてない?」
「別に」
高縁にバカにされたと勘違いしたのか「それに何かこのバスの内装、気味悪いのよ」と不機嫌そうに呟く。そうか?と高縁はぐるりと見回してみた、どっかの有名なデザイナーが考えて、地産のヒノキを活かしたモダンで温かみのある云々。とか言われている内装にはそこまでおかしなところは見当たらない。
そこで「広告っていうか…….」と聞こえて、ようやく高縁は合点がいった。普通なら葬式会社や路線沿いの診療所、ゴシップ誌で満たされているデジタルサイネージやら中吊り広告は、全部が同じ会社の、判を押したような内容で統一されている。別にプロモーションやらタイアップというわけでもない。市内のバスやタクシーは皆この調子。片田舎の街では他にスポンサーが居ないのだ。
バンテック。確か正式はバイオアンドニューロンテクノロジーだったか。と高縁は思い出す。外資系の医療ベンチャーで、ここ十年間に急成長し、今は水城市の公共交通機関の広告枠を買い占めている企業だった。
ベンチャーゆえの優れたフットワーク、同業者の買収による技術の独占、自社の医療機器がそのまま国際規格に採用等々、その勢いは留まる所を知らない。数年前、水城市の南西部に中核機能を移設。工場やオフィスは勿論、街一つ入りそうな福利厚生施設を建て、水城市に観光以外の産業と膨大な利回りをもたらした。我々と市民の皆様で明日の医療の中心を作っていくのです!というスローガンは市民であれば知っているし、サイネージがオブラートに包んだものを散々垂れ流している。
「なんかカルト宗教みたい。そうは思わない?」
まぁ、確かに。とは思う。ただ、愛知県豊田市に日産のディーラーが無く市民がトヨタ車に乗るように、企業城下町はどこもそんな感じなんじゃないか?と高縁は言いたくなった。
少女の物言いがどこか高縁に考えさせるような含みを持っていることには、まだ気づけない。
「知ってるかしら?」
少しして、もったいぶるように少女が言った。向こうから話題を振ってきたのは、多分初めてだった。
「ある週刊誌がね、バンテックが県と怪しい取引してるって内容の広告を出したの。そしたらその翌日にはここの街から週刊誌の広告が残らず消えてしまったんですって」
「陰謀論かよ」
ようやくマトモな会話のキャッチボールが出来たと思ったら。とんでもない変化球だ。まぁ、この人そういうの好きそうだしなぁと高縁は思った。背もたれからずり落ちた腰を直しつつ、呆れ半分からかい半分で高縁は呟いた。
「そりゃバスの広告なんてしょっちゅう入れ替えやってるだろ」
「バスの広告はバンテック一色。なんじゃないの?」
あ。と高縁は呟いた。水を張った水槽に墨汁を一滴垂らしたように、もやもやが心に生じる。あくまで真に受けたわけじゃない。都市伝説や怪談と同じ、暇つぶしには面白いから。と言い訳し、高縁は少女の次の言葉へ耳を傾ける。
「不自然に思うのも無理はないわ。実際には逆。それからこの街の広告がバンテック一色になったの。この街の住人はあそこに変な感情を抱かないようにされてたりしてね」
「考えすぎだ。第一、その週刊誌自体は買えるだろ」
「ここのあたりのコンビニ、文春売ってないわよ」
まさか。と言おうとしたが、高縁は反論できなかった。コンビニの雑誌売り場のラインナップなんて、気にして生きてきたことはない。本屋には売っているだろうが、電子書籍とアマゾン全盛のこの時代、本屋なんて市街中心部の百貨店にある大型店舗しか知らないし、そこまで出向くことは滅多にない。
「面白いのはここからよ」
大きくなっていくもやもやに追い打つように少女が続ける。高い大陽に雲が掛かった。
「それまでバンテックには色々黒い報道が有ったけれど、それがピタリと止んだんですって」
「転校してきたばっかの割によく知ってるな」
「直接見聞きしたわけじゃないわ。あくまで噂よ」
ほらみろ。高縁は思った。こういうのは都市伝説や陰謀論の常套句じゃないか。高縁は「テレビや新聞、インターネットもか?」と小馬鹿にするような口調で言う。裏腹に声の覇気がないのは、気の所為だと思いたい。
「弱い者いじめってね、殴り返される相手には絶対に行われないわ。マスメディアなんてその良い例じゃなくて?」
捻くれてらっしゃる。そんな古のインターネット至上主義者じゃあるまいし。「或いは……」少女はこちらの心を見透かすように二の句を継ぐ。
「新聞はこの地方版だけ、テレビはローカル放送枠でそこはトリミングしてる、とかは?」
疑問形な、煮え切らない言い方だが還って生々しく聞こえる。一笑に付せばそれまでなのに、そうは出来ない妙な重みが有るのは少女の雰囲気のせいだろうかと高縁は考えた。
それにテレビのCMや新聞の三面広告にバンテックの文字を見つけることはこの地方ではそう難しいことではないのも拍車を掛ける
「そうは言っても病院とか建ててくれたしなぁ。あまり悪いことは言えないよ」
バンテックの恩恵を受けている人間は少なくない。自分だってそうだ。デカイ企業にそういった噂は付き物だし、そういった諸々の話に対して、疑うな。とまでは行かないが、どこで誰が聞いているかわかったもんじゃない。という言外の戒めを込めて高縁は言った。彼女の思考パターンなら思考停止とバカにされるであろうことも、反論になっていないことも自分でよくわかっている。
「あそこ県営のより綺麗だし充実してるんだよな。よく人目を避けたいVIPが入院してるって聞くぜ」
あそこの福利厚生施設全体に言えることだが、市民であれば割引、社員だと一定回数無料で診て貰えるらしい。と続けて何となく話題逸らしを試みる。が、少女はそれに乗っかることはない。それどころか、それまでずっと外に逸らされていた視線がこちらに向けられる。
「タダより高いものはないって言うでしょ。却って裏があるかも。そうは思わない?」
話題逸し第一波、効果なし。妙なマウントまで取られてしまった。ならば第二波を投入するまで。
「やけにバンテックを目の敵にしてるけど、最近の転校生って大抵バンテックの関係者だったりするんだよな。貴方もその口で?」
高縁にはこの転校生がどこから来たのかは純粋な疑問でも有った。まぁクソ虫が人間社会のシステム知ってどうするの?とか言われそうなものだが。そんな高縁のイメージに反して、少女はプライベートに踏み込んだ質問をされるとは思わなかったらしく豆鉄砲を食らったような顔をしていた。数秒の間が開く。そこまで返答に窮する質問とも思えないし、単に答えられない、あるいは答えたくないのだろうか。
ゴメン、今のナシと取り消そうとした時、「半分正解よ」という答えが返ってきた。引っかかる物言いだったが、この少女のことだ。問い質してみれば「父が勤めているの。母は専業主婦よ」なんていう答えが返ってくるのだろう。
バスが緩いカーブに差し掛かり、減速帯で揺れる視界をバス停が流れていく。「西水城一丁目、通過します」というアナウンスと、短いブザー音が耳に入った。少女との会話の外に高縁の意識が向いた理由は、杓子定規なアナウンスが教えてくれた。
「次は、西水城二丁目、西水城二丁目。です。西水城高校前、最寄り停留所です」
時間帯の違いこそあれど、ほぼ毎日使用している路線。こういうの押せると一日上手く行きそうな気がする。そんな験を担ぐ高縁は、アナウンスの「次は、」の時点で「次、止まります」のボタンを押していた。
「……ちょっと、早すぎじゃない……?」
少女の声が聞こえた。呆れているのか、大きく息を吐いて、やれやれと云わんばかりに首を振っている。
「子供っぽいわ。みっともないと思わないの?この歳にもなって」
その割に、彼女の右人差し指はきっちりとボタンに乗っかっていた。あと0.2秒ほどこちらが遅ければ、彼女の指はキッチリ押し込まれていただろう。
もしかして負け惜しみだろうか。高縁は喉まで出かかった言葉をかろうじて抑えた。そんなバカな。子供じゃあるまいし。
バスが止まり、間抜けな圧搾空気の音でバスのドアが開いた。「本当、下らないわ」と捨て台詞にしか聞こえない言葉を吐いて、少女は席を立つ。あろうことかバスの中扉から料金を払わず出ていったので、高縁は二百七十円余計に払う羽目になった。
降りてそのままフェンス沿いに歩いて十秒、正門の通用口はいつでもオープンなのでそこから正々堂々侵入する。昼休み。だだっ広い校庭。貴重な四十五分の昼休みすらランニングに勤しむ野球部の掛け声が響いていた。
迫力の割には甲子園どころか県大会上位にも行ったこと無いくせに。一度だけ見かけたことの有る監督は、腹回りを見るにとても野球が巧そうとは思えなかった。それでも健気に動き回るイガグリ頭を見下ろすように、県立西水城高校の校舎は建っていた。四百二十名を収容するL字構造四階建て鉄筋コンクリートの校舎は、昭和の時代から半世紀超、アスベストを取り出した以外殆ど不変である。要はボロい。
「職員室は玄関入ってすぐ右、二年の教室は案内有るだろうけど一応。三階だから」
少女は新しい学び舎を見回していた顔をこちらに向け、「ありがとう」とだけ呟く。お礼言えるんだ。と意外に思いつつも、少女の肩がどこかこわばっている事に気づく。まぁ緊張するよなぁと思いつつ、高縁は返した。
「いえいえ、ダンゴムシには身に余る大任でございました」
少女はプッと噴き出して、「もうそれ終わりにしましょう」と呟くと、今一度ペコリと礼をして、玄関に消えていった。
「ズレてるよなぁ……」
しばらくして高縁はひとり呟いた。なけなしの語彙力ではそう表現するのが精一杯だった。さっきの仕草といい、バスの中での振る舞いといい。表情が豊かどころではない、コロコロ変わる性格は当分忘れられそうになかった。そこでようやく、高縁は名前含む自己紹介を一切していない事に気づく。
まぁいいか。と高縁は呟いた。学校では半ば石像のような存在の自分には、美人な転校生などという話題の中心になりそうな存在には、殆ど関わることは無いだろうと思った。
先ほどとは別種のもやもやとした感触が心に残ったが、高縁はそれがなにか考える暇は無かった。授業開始五分前のチャイムが鳴り、ほかの連中に混じって玄関へ足を向ける。
ただ、願わくは同じクラスになったりしないだろうか。だからどうしたという話でもないのだが。そんな淡い期待を胸に、高縁は歩き出した。