1話
七月一日。真夏日。人気の無い神社の境内はその場所の格式も相まって、人に時が止まったような錯覚を覚えさせる。
照り返しで白く光る参道と、影で黒く塗りつぶされた拝殿。四小節位のフレーズを繰り返す蝉の声と、近所の保育園から聞こえる子供の歓声は、聞くものに心地よさとほんの少しの懐かしさを感じさせる。そうしてじんわりと胸を満たす感触に天を仰げば、真っ青な空と太陽が地上を見下ろし、鰯雲だけが時の流れを__「ぶえっくしょい!!」
そんな神聖さをぶち壊す大きなくしゃみとともに、高縁直央巳は夢の世界から帰ってきた。重たいまぶたを擦り、強引に意識をはっきりさせる。今日は午後出勤ならぬ午後出席の日。(当然高縁が勝手にそうしているだけだが)四限目は古文、五限は物理、六限は日本史。担当は揃って半ば更年期障害入ってる爺さん婆さんなので、宿題や小テストの類はない。よし。今日の予定に失念なし。代わりにどんな夢を見ていたのかもう思い出せなくなっていた。
神社の本殿を取り囲むバルコニーのような木造通路。正式名称は知らない。その通路の参道からはちょうど正反対の場所が高縁の寝床だった。流石に中に入るほど図々しくはない。
この時間帯は日陰でどこからともなく涼風が吹いてくるので真夏の屋外にしては結構快適だ。ジメッとしているのが欠点といえば欠点だが、ダンゴムシみたいな生き方をしている自分には還ってお似合いだ。
スマホで時刻を確認すると、午前十一時四十五分。ちなみに今日は金曜日。世の真面目な人間は昼休憩、ひいては直ぐそこにある土日休みに向けて授業や仕事の追い込みを掛けている頃だ。そして高縁自身も、本当は県立西水城高校二年C組在籍出席番号二十一番である以上、そうして居なければならない筈の身分であった。
ただ高縁は、誰もが時たま抱く駅のホームで唐突にいつもとは違う方向の電車に飛び乗ってしまいたい欲求が他者より少し強かった。発作のように学校をサボるので、クラスメイトからはサボり魔と影で、いや公然と言われている。担任を務める現国の早川浩一郎(43)も、最初は学校に引っ張り出そうとあれやこれやしていたが、今は給与査定にさえ響かなきゃ良いと割り切ったのか何も言ってこない。
別にサボっているわけじゃない。授業は欠席数が一定を超えないように配慮はしているし、行事前後とか諸々の予定日は休んでないし宿題なんて電子化されて久しいし要は戦略的温存だし……というのが本人の弁であるが、それをサボっていると言うのが世間一般の常識であるし、実際問題実行してしまった後は後ろめたい気持ちがないわけではない。
「こんな時間からシエスタなんて、いいご身分ね」
天地がひっくり返った。
振り向こうとしたらバランスを盛大に崩したのだ。腰を抜かしたという方が的確かもしれない。通路の欄干に足を取られてそのまま石畳に打ち付けられた。間を置いて、激痛で白んだ視界がはっきりする。
少女が立っていた。
整った顔立ちと、勝ち気そうな目付きの中に煌々と輝く赤紫の瞳。背中を包み込み腰にまでに届きそうな長髪は、日陰に溶け込むような黒さでその華奢な輪郭をあやふやにしている。そんな妖しい雰囲気と神社という場所も相まって、高縁は一瞬、少女は神の化身とか物の怪の類なんじゃないかと考えた。高縁は心臓がバクバクと高鳴っているのを感じていた。あまりにも非現実的過ぎるこの出会いに運命を感じちゃったとかそういうのではなく。むしろこの、少女の姿をした存在が自分の今までの悪事とか恥の多い人生とか、現在進行系の無様っぷりを色々詰り始めるんじゃないかとさえ思った。
動揺して、仰向けで横たわる身体を起こすのも忘れて、なけなしの脳みそであれこれ思案している高縁とは対照的に、こっちを上から覗き込む少女は、身じろぎ一つせずこちらをじーっと冷めた目で見つめていたが、ふと何か思い出したように口を開いた。
「私ね、自堕落とか思考停止とか、そういうのが大っ嫌いなの」
マジかよ。高縁は思わずそう言いたくなった。恥じ入るとか失礼極まりない態度への怒りとか、あるいは図星を突かれて逆上とか、そんなのより先に「ホントに説教おっ始めやがったぞ、この女」という驚愕だけがあった。
「普通の人間は勉学や仕事に精を出している時間よ。貴方の制服や学費だってご両親が働いたお金で買って貰ったものでしょう?」
高縁はそこで有ることに気づいた。少女は同じ西水城高校の制服を着ていた。濃緑色のスカートと、白地に同じく濃緑色の襟や袖口のセーラー服。胸のリボンタイに赤い線が入っているので学年は同じ二年生。最初は早川の送り込んだ刺客かと思ったが、にしては見覚えのない顔だった。県庁所在地の高校とはいえ、少子高齢化のこのご時世は学年当たりの人数もそう多く無い。一通り顔は分かっているつもりだったが。
「それを貴方は現在進行系でドブに捨てているわけだけど、恥ずかしいと思わないのかしら………。ああ、まるでダンゴムシみたいよ?ダンゴムシって知ってる?甲殻類の不快害虫よ」
よくもまぁ知り合って五分と経ってない人間にここまで言えるもんだなぁと高縁は感心しつつあった。本人にしては罵倒している積つもりなのだろうが、生憎ダンゴムシ系人間と自称する高縁には効果は今一つだ。ついでに、説教の一つや二つで心変わりするなら高縁はとうの昔にダンゴムシを卒業し真人間になっていただろう。
「ああでも……。失礼、ダンゴムシは生態系の維持に一役買っているから……」
そこまで言うと少女は一瞬目をそらす。首を傾げて口元に手の甲を当てる。手癖と言い見た目といい一昔前に流行ったラノベから出てきたような感じだと高縁は思った。中学ん時にクラスにそんな感じの厨二病こじらしたやつ居たなぁ。眼の前の奴と比べてアイツは凄いブスだったけど。と、どうでもいいことまで連想する。
「人間社会の役割を放棄した貴方には勿体無いわ。訂正するわね。ダンゴムシ以下の下等生命体さん」
嘲るような薄ら笑いと共にここまで言われると、流石に少し癪に障った。面倒くさい事柄は三十六計逃げるに如かず。がポリシーであったが、高縁はよせばいいのに少女に向かって「人のこと言えた義理じゃねーだろー」と言葉を投げかけていた。
「あら意外、最近のクソ虫って喋るのね」
クソ虫ってなんだよクソ虫って。ダンゴムシ以下の下等生命体にも立派な名前は有るだろうに。
「そっちだって授業投げ出してんじゃねーか。捻くれてんのはお互い様だろ」
親の顔が見てみたいぜ。と付け加えたかったが、止めておいた。少女は「サボりと一緒にしないで」と言い、ぷいと向こうに視線をそらした。自分が問い詰められると逃げるんかい。と高縁は突っ込みたかったが、こらえる。
「何が違うんだ?」
「……ないのよ」
それまで流れるような罵倒を繰り出していた彼女にしてはやけに歯切れが悪い。高縁が「無いって何が?」と畳み掛けてもそのまま沈黙を貫き続けている。突かれると痛いところではあろうが、反論も言い訳も出来ないわけでは無いだろうに。
少々の間を置があって、何か地雷踏んだかと心配になり始めた頃、少女は一回深呼吸をした。こちらを見据えた顔は少し紅潮しているようだと思った高縁だったが、次の瞬間そんなことはどうでも良くなってしまった。
「見つからないのよ!高校が!バス停降りて一分もかからないって聞いていたのに!!」
と少々ヒステリック気味に怒鳴られてはそうなるに決まっている。勢いに驚いたことも相まって、高縁は少女の言っていることが最初理解できなかった。膨大なタスクを押し付けられたコンピューターのように沈黙していたが、段々ととんでもない事を少女が喋っていたことに気付く。
「ちょっと待て。今七月だぞ?今までどうしてた」
「転校生よ….。今日が初日」
ああ、通りで見覚えのない顔だったわけだ。と高縁は理解する。となるとこの女、正真正銘の初対面相手に説教をぶちかましたわけだ。対人関係で適切な距離が読めない人間は珍しくもないがここまで来ると恐ろしい。
高縁はしばし考え込んだ。少女はバカにされると思ったのだろうか、「笑いたきゃ笑いなさいよ……」とか細い声で呟く。威嚇する小動物のような雰囲気をまとわせてこそ居るが、さっきまでの威勢が嘘のようにしおらしい。
「いや……それは災難だな」
一方の高縁は、別に馬鹿にする気にはならなかった。転校初日に大ポカ。と聞かされれば流石に笑えなかった。ただ、正直な話高縁の母校、県立西水城高校では毎年四月五月であれば迷子が出るのはそう珍しいことではないのだ。最も七月に遭難者が出たのは初めてだが。ちなみに迷子の原因も生徒や教員のほぼ全員が周知している。
「一応聞くけどさ、ウチの高校の最寄りのバス停分かる?」
「西水城高校でしょ?西水城二丁目、だったかしら」
「この神社の最寄りのバス停は西水城湖二丁目だ」
あっ。
そんな間抜けな声を発したあと、少女は再び黙ってしまった。破裂するんじゃないかと思うくらいに真っ赤になった顔を高縁から逸らして、石像になってしまう。イヤまぁ無理もないか。と高縁は同情する。高縁達が住む水城市は人口不相応にバスが多いし、その分バス停数もあれば路線も極めて複雑だ。バス停も管轄する県交通局の役所仕事の宿命か、事務的で似た名前ばかりなので紛らわしい。この少女と同様のケース以外にも、二丁目と三丁目を間違えたりする新入生も少なくない。転校生ということは地勢に明るくないだろうから間違えるのは仕方ないとも思った。
「さて、クソ虫君。」
しばらくして少女がこちらへ視線を戻した。ショックから立ち直ったのか、少女は再びどこか棘のある口調に戻っていた。
「出世のチャンスをあげるわ。人間様のお役に立ちたくは無いかしら」
沈黙。数秒かかって高縁は、ああコイツ俺に頼み事をしているのか。と理解した。物腰を柔らかくすると死んでしまう病気にでもかかっているのか単に凄まじくアレなのか。後者だな。今度は一瞬の判断だった。
「いえいえ、ダンゴムシ以下の下等生命体には荷が重いのでご遠慮させて頂きます」
と断ってみる。クソ虫呼ばわりはまだしも、頼み事をする時までこのスタンスの人とは正直関わりたく無い。
「特別にダンゴムシを名乗ることを許してあげるわ」
「どっちにしろ荷が重いですね。あと普通の人間様は切羽詰まってもダンゴムシには縋りません」
お困りでしたら直ぐそこに神様居るんでそちらにどうぞ。と高縁は言ってみた。ネットの掲示板で身についた煽りスキルがここぞとばかりに火を噴いた。が、別にスッキリしないし却って後ろめたい気持ちが強くなる。
蹴りの一つでも入れられるかと思ったが、少女は意外にも「あら、そ。じゃあそこで一生ダンゴムシやってなさい」と言った。
コレで終わり。そう思っていた。だから高縁は、少女が片膝を彼の首根っこに乗っけて、見た目に似合わぬ重みで首を絞めて来た時は物凄くびっくりした。いくら腹立てても殺しにかかるか普通!と叫びたかったが潰れた喉からはひゅうひゅうと掠れた音しか出てこない。
重力で垂れた長い髪のカーテン。その向こうに見える少女の顔は、不気味な位に美しい笑顔だった。目と鼻の先の距離。平常時だったら高縁も見惚れたり、にやけていたりしたかもしれないが、生憎少女のこめかみにはミミズのように血管が浮き出ていているので恐怖しか感じない。
「ダンゴムシはね、腐葉土を食べるそうよ」
少女が高々と右手を掲げたので、目でそれを追う。握られた拳の隙間からポロポロと茶色い塊がこぼれ落ちていた。土だ。
「ちょっと落ち葉は見当たら無いけど、有り難く受け取りなさい。大好物でしょ?」
高縁は手足をジタバタさせて抵抗を試みる。が、首は一ミリたりとも動かないし、還って身体が酸素を消費するので顔がどんどん真っ赤になっていった。
「ほらほら、慌てなくても餌は逃げないわよ」
涼しい顔のまま少女が呟く。無論、高縁の心境など全部お見通しで、その上でやってる。という雰囲気だった。
高縁は思った。あと数秒すればコイツは喉から膝をどけるだろう。しかしそうして酸素を取り込もうと口を開ければ思う壺、不条理な怒りと不衛生な土を載っけた鉄槌がそこに降り注ぐ。
「わ、悪かった」
流石に口に土をぶち込まれるのは辛い。このまま窒息死も論外。高縁は意地もプライドも捨てて屈服するしか無かった。
「人に謝るときにはもう少し相応しい言葉遣いが有るでしょう?ご両親はどんな教育をなさっていたのかしら?」
お前が言うか。と叫びたい衝動を必死にこらえながら、
「申し訳ありませんでしたどうぞこのクソ虫めをご自由にお使いください」
と一口に言い切った。
高縁の渾身の自虐謝罪を少女はそっけなく「よろしい」と受け流すとようやく膝をどける。高縁は盛大に咳き込んだ後、貪るように呼吸して、砂が入ったのかもう一回むせた。
「さ、もう良いでしょ?バス停まで戻るわよ」
少女はそう言うとスタスタと神社の境内を歩いていく。高縁はこのまま逃げて逃げようと一瞬考えたが、結局今日は午後は学校に行かなければならないのを思い出し、ため息と共に足を動かすしか無かった。