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プロローグ

__雪が降っていた。


 高い天井に大きな穴が空いていて、そこから落ちてきた雪が、僕の頬を濡らしていた。

 周りをぐるりと見回す。瓦礫や人の煤けた手足があたりに散乱していて、血潮や小さな炎が、それらを赤く染め上げながら広がっていくのが見えた。

 生きる者の居ない、死の世界。その真っ只中に僕は仰向けで寝転がっているらしい。身体は鉛のように重く、動かない。じきに僕もあの手足の持ち主と同じ末路をたどるのだろうか。


 逃げたいけれど、指先に力を込めただけで猛烈な痛みが体中を駆け巡った。精一杯目を動かして自分の身体に目を向けてみると、大小様々なナニかが、分厚いジャンパーから血と一緒に飛び出している。一番大きいのはスマホサイズのガラス片だった。傍目にもどうにもならない事はわかる。諦めが心の中を覆い尽くし、身体から力が抜けていく。走馬灯なんてものを見ることはなかった。そんな気力も残っていないのかもしれない。


 しばらくして、薄暗い空間に目が慣れたのか、僕はここが教会だと気づくことが出来た。窓があったらしい場所から差し込む月明かりをバックに、微笑みを浮かべ両手のひらを上に向けた男の像があったからだ。人々に救いと希望を授けたと伝えられる髪の長い男はしかし、今は微動だにせずこの地獄を見下しているだけだったけど。


「ねぇ……注射は苦手?」


 唐突に響いた声に、僕の心臓は大きく跳ねた。この場に不釣り合いな鈴のような声音もそうだが、僕以外に生きている人が居るとは思わなかった。声のした方へ視線を向けると、少女が立っていた。天井の穴から射した月光の淡い光が逆光となって、表情はわからない。


 返答に窮していると右腕を引っ張られた。そのまま彼女の肩に支えられ、立たされる。少女とはいえ二回りほど向こうが年上だろうし、背丈も大きいから逆らえない。当然、僕は痛みで視界が眩み、うめき声と一緒に口から赤い塊が零れた。教会の出口へ向かって歩を進める。ペースこそゆっくりだが、足を止めさせるつもりはない。そんな意思が伝わってくる。


 彼女の有無を言わせない強引さは相変わらずだった。初めて会った時から変わっていない。一瞬安心するけれど、安堵の息は痛覚に押し流される。二、三歩歩いたところで思わず、「痛い」と言おうとしたけれど、口から出せたのは出来損ないの笛のような音だけ。それでも、彼女は僕が何を言おうとしたか察したようだった。


「我慢してよ…ここじゃ危なすぎる……それに、キミを助けるためなんだからさ……」


 物腰は柔らかだけど、どこか芯の強さがある。彼女の性格を引き写したような声音。だけど、僕にはそれがとても危ういもののように感じられた。


「姉ちゃんは……どうなるの……?」


 彼女は答えない。そして、充満し始めた煙が邪魔をして表情も窺い知ることは出来なかった。ただ、記憶では、艷やかだった筈の彼女の長い黒髪には今はベッタリと血や煤が張り付いていて、それが暗に彼女の運命を物語っているようだった。


「……私は、助からないよ……助かっちゃいけないんだ」


 彼女はもうすぐ死ぬ。


 いや、自ら死を選ぼうとしていることを。


「どうして?」

「だって私、悪魔に魂を売ったからね……もう人間じゃない。そっちには帰れないよ」


 だから、僕はそれを止めなくちゃならない。


「そんなの関係ないよ」


 この人が悪魔だなんて思わないし、たとえそうだろうとなんだろうと構わない。なけなしの語彙力と掠れた声で僕は必死に言葉を紡ぎ出そうとしてみる。


「何もしてくれない神様なんかよりよっぽど良い」

「……そっか」


 肩に回された腕の締め付けが強くなった。


「ふふ……優しいんだね……」


 彼女はそれだけ言うと、全身の力が抜けたように倒れ込んだ。足に力が入らないのはお互い様のようだった。つられて僕も地面にうつ伏せになる。最悪の結末が一瞬頭を過った。けれど、耳を澄ますとわずかに呼吸音が聞こえた。今にも途絶えてしまいそうなか細さだったけど、まだ生きている。


 安心したのもつかの間、後ろからパチパチと何かが弾けるような音が聞こえた。さっきの火の手が、僕たちを飲み込もうと徐々に近づいてきているのだろう。煙はいよいよ濃くなってきて、目が染みて、肺が焦げ臭くなる。ただでさえ僕たちの身体はボロボロで、もう五感は殆ど機能しなくなっていた。ただひたすら、前へ前へと手足を這わせる。その度に痛みが身体を貫いて、悲鳴の代わりに血が吹き出た。


「……ねえ?」


 耳元から彼女の声が聞こえた。


「最初の質問、まだ答えてなかったよね?」

「注射の話……?苦手だよ……でも、姉ちゃんがしてくれるなら……大丈……」


 血も酸素も足りない頭で考えて、そこまで言いかけた。おそらく彼女は医者か看護師か何かだとはわかっていたから、場を和ませる冗談のつもりだった。僕はみぞおちがすうっと冷えるのを感じた。おそらく注射は助かる方法のことなのだろう。こんな言い回しをするのは、二人の内どちらかしか助からないから。答えてはいけない質問だったのかもしれない。動悸が早くなる。悪い予感を裏打ちするように僕の身体は再び強い力に引っ張られ、仰向けにされた。いつの間にか彼女は膝立ちになって、僕を見下ろしている。


「よし、良い子だね」


 僕はそこで、意識を取り戻してから初めて、彼女と正面から向き合った。血で赤く染まった顔面は、笑っているようで、泣いているようにも見える不思議な顔。諦念とか、悟りとかそんな単語を連想させる顔だった。


 このままでは、彼女は「向こう側」に言ってしまう。直感的にそう思った。そんなつもりじゃなかったのに。他人の、しかも寄りにも寄って大事な人の命を踏み台にしてまで生きたいわけじゃない。


 待って。そう言おうとして、僕は声が出なかった。どうしていいか分からず、腕を伸ばすと二の腕のあたりをぐっと掴まれた。抵抗しようとしても力が入らない。


「もうお別れだね」


 僕は首を精一杯横に振る。彼女は「困ったなぁ……」と言いながらも、手の力を緩めない。もう片方の手にはどこから取り出したのか大型の注射器のようなものが収まっていた。碧い液体の入ったシリンダーの上部には、見慣れたピストン機構ではなくリモコンのような機械が付いている。


「だったらさ……約束しよっか?」

「約束……?」

「そ、約束」


 彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべた。そうして芝居がかった口調で「ひとーつ」と言った。それと同時に、腕に細く鋭い痛みが走る。こわばった腕を握っていた彼女の手のひらが滑り、硬直を溶かすように僕の手のひらに折り重なった。


「キミは優しい正義の味方で、居続けること」

「……よくわかんないよ」

「そのままのキミで……ううん、今はまだわからなくても良いよ」


 子供の僕には、正義の味方といえばレンジャーかライダーしか思い浮かばなかった。役者とか、スーツアクターとか、きっとそういう意味では無いのだろう。彼女の言うとおり、僕にはまだ難しそうだ。


 彼女はそこで咳き込んだ。不規則な呼吸で大きく肩を震わせて、両肘も使ってなんとか身体を支えていた。ぐっと近づいた彼女の顔には汗とも血ともつかない液体が流れている。


「二つ、それが分かるようになったら、私、絶対に会いに行くから」

「……約束だよ」


 僕はそれだけ言うと彼女はゆっくりと、満足そうに頷いた。嘘だ。なんて言えるわけがなかった。きっとそれが出来ないことは彼女自身がよくわかっているはずだから。「ありがとう……ごめん」なんて消え入りそうな声で呟かれたら、この世の誰だろうと彼女を疑うことなんて、出来るわけがない。


 それに、本当は旅立つ彼女になにか一言、肩の荷を降ろさせる言葉を、感謝を、謝罪を言わなくちゃならないのは僕の方なのだ。そんなことを考えていると、僕は自分の身体が不可解な熱を持ち始めたのに気づいた。


「注射……効いてきたみたいだね」


 心臓が大きく脈打ち、酸素を求めて胸を大きく上下させる。視界がぼやけて、お腹の中が火災でも起きたかのように熱い。手でお腹を抑えようとして、腕が全く持ち上がらないことに気づく。呼吸も、指一本の制御さえ効かなくなっているようだった。身体の中で何か大きな異変が起こっている。僕はどうなってしまうのだろうか。彼女は?


「そろそろお別れだよ……」


 白く霞んでゆく視界の中で、悲しそうに微笑む彼女。大丈夫まだ、声を発することは出来る。僕はあらん限りの力で叫んでいた。


「もし…もし……姉ちゃんが来なかったら、僕の方から会いに行くからっ!」


 彼女の表情はぼやけて見ることが出来なかった。ああ、僕が伝えるべきだったのはこんな言葉じゃないのに、そんな事言われたって……彼女が困るだけじゃないか。


 ごめんなさい。さようなら。もう声帯の自由は利かない。萎んでいく意識と感覚の中、後悔だけが僕の中で膨らんでいった。


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