七輪目
室長はしばらく助手を見つめる。助手は何かを思う気力もなく、ただその黒洞の瞳を見つめ返した。
やがて室長は助手の無気力を察し、助手の手にする携帯端末を摘まみ上げた。数分前の通話履歴を見るなり、助手が止める間もなくリダイヤルした。
「やあ、さすがは裏組織を牛耳るボス。話を最後まで聞かずに通話を切るとはいい度胸をしているな」
室長の不遜な言葉に、助手はまた始まった、と諦念を漂わせた表情を浮かべた。マフィアを敵に回しやしないだろうな、と冷や冷やしながら、聞こえてくる会話をただぼんやりと耳に入れていた。
「そっちこそ、そんな嫌味を言うためだけに電話を寄越すとはいい度胸だな」
電話向こうの声には険が滲んでおり、助手はただならぬ緊張感にこくりと生唾を飲み込む。しかし、その言葉を向けられている当の本人は意に返した様子もなく、続ける。
「別に我々はそんな暇人ではないよ。あんたのやりたいことはわかっているんだ。ギブアンドテイクといこうじゃないか」
そこから一気に室長は語る。この室長ならではの奇策を。
それは、人間の記憶について研究する研究室と繋ぎをつけて、記憶回復後のアフターケアつきで記憶を取り戻す、というものだ。アフターケアがあれば、精神錯乱などの心配はない。一気に懸念事項が取り払われる上、生命学側は直接カタギリ氏の口から過去を聞くことができるという利点が生まれる。そういうギブアンドテイクだ。
研究やら実験やらを忌み嫌っていそうなカタギリ氏が条件を飲むか不安だったが、カタギリ氏は頷いた。彼も彼とて徒に裏社会を混乱させたくないのだろう。
隣で聞いていた助手は、こんなやり方があったなんて、と思った。もちろん、これは室長のつてがあるからこそできる策であるというのは承知している。それでも感嘆と……無力感は抑えられなかった。
自分にはできないのだ。
そう思い知らされて、呆然としていた。自分なんて所詮、そんな程度の存在だ。
後ろ向き思考に苛まれる中、室長から携帯端末を手渡された。どうやらまだカタギリ氏と繋がっているらしい。
上手い言葉が出て来ず、拙い言葉を二言三言交わして、電話は切れた。
電話が切れる前、また飲みに行こう、なんて言って。
その日は助手は目も当てられないほど憔悴していたらしい。室長の計らいで早く帰れ、と言われた。普段なら「それだと室長また徹夜するでしょう」などと言い返すのだが、そんな気力もないらしい。
無力感に苛まれながら帰った助手は、行きつけのバーの前でカタギリ氏と鉢合わせた。気まずい空気が流れる前に、カタギリ氏は中に入ろう、と誘った。
やはり、いつも通りではなかったのだろう。普段ならカクテルを頼むところ、ウイスキーをロックで頼んでハイペースで飲んだ。カタギリ氏は怪訝な顔をしたが、助手は忘れたい一心で飲み続けた。「酒は飲んでも飲まれるな」という言葉があるが、今は飲まれてしまいたい、そんな気分だった。
だが、助手は簡単には飲まれなかった。わりとザルなのである。それを少し呪わしく思いながら、大きな溜め息を吐き出した。
「所詮、僕は何もできない、無力な存在だと、今日思い知らされました」
誰に語るでもなく、ぽつぽつと呟く。
「あの人にできることが僕にはできない。……当たり前なのかもしれませんが、それで、助手でいいのかなぁって。もっと優秀な人はもっとたくさんいて、僕なんか非力で」
あの人には敵わないし届かない、と嗚咽混じりに助手は語った。
カタギリ氏もその日の一件が影響をもたらしているのだろうことを察し、助手の愚痴のような後ろ向き発言を黙って聞いていた。助手が口を閉ざすと、「終わりか?」と訊いて、それから続けた。
「確かにお前はあのエリサとかいうやつには劣るかもしれない。だが、エリサにできることがお前にできないように、お前にできることでも、エリサができないことがある」
同じく頼んでいたウイスキーを一口飲み、からんと氷の涼やかな音を出させた。カタギリは続ける。
「エリサは確かに天才だ。だがな、天才にだってできないことがある。天才は気が多いからな。一つのことだけに集中させるのは至難の業さ。だから天才の傍には凡人が必要なんだ」
凡人、という言葉に助手の肩がぴくりと反応する。凡人という言葉を助手はあまりよく思っていない。それに、自分が凡人であるほどは胸がきりきりと痛むほどに自覚している。
ただ、「天才の傍には凡人が必要」という言葉に心惹かれた。
カタギリ氏はそうだなぁ、と一つ間を置くとつらつらと述べた。
「あの日、お前が来なければ、こうして出会うことはなかっただろう。お前がいなければ、あいつの横柄な態度に苛ついて、検体採取に応じることだってなかっただろう。お前がいなければ……俺は今日、大きな過ちを犯していたかもしれない」
ほら、凡人にもできることがこんなにある、とカタギリ氏は仄かに笑ってみせた。
そうか、と助手は思う。自分は誰かのためになれていたんだ、と。
カタギリ氏は更に言った。
「お前がいなければ、俺はあのエリサとかいうやつを殺していたかもしれない。そしてあらゆるものの未来を閉ざしていたかもしれないんだ」
それ以上は何も言わず、カタギリ氏は助手の肩をぽんぽんと叩いた。助手ははっとしたように顔を上げ、泣きそうな顔で破顔した。
「そうか……そうなんだ……僕にも、できることが、僕は、あの人を、守れていたんですね」
自分は無力だと思って、それを嘆き、飲み下しながら過ごしてきた。けれど、カタギリ氏はそうではないと教えてくれた。
そのことに感情の箍が緩んだのだろう。両の目から感情が、つらつらと零れ落ちていく。
その日は泣き腫らして、払いをカタギリ氏にさせてしまった。その上家まで送るというのだからカタギリ氏も人がいい。まあ、家はバーの隣なのだが。
それから少し家でもカタギリ氏と酒を飲んで話をした。助手は何かが吹っ切れたような清々しい思いでいた。
一つ、引っ掛かることがあった。
カタギリ氏の名前──もっと厳密に言えば、記憶の最初にただ一つしかなかった「ジン」という名前。
それにどこか聞き覚えがある。
酒が入ってへべれけな状態では上手く思い出せないだろうから、メモをしておいた。
それから、カタギリ氏を見送り、ベッドに潜った。気持ちよく眠れそうだ。




