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紫露草  作者: 九JACK
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五輪目

 助手は自家用車で室長を迎えに行った。本人曰く、寝たらしいが、その眼鏡の縁より大幅にはみ出た濃い隈は一眠りくらいでは取れないようだ。

 本当は迎えに来ないでちゃっかり休ませるという作戦もあったが、今日ばかりはそれができなかった。大事な大事な後ろ楯(クライアント)、国との会合があるのだから。

 生命学研究室は国の管轄下にある。だから定期的に会合を開き、研究成果の発表や国からの要望などを取り纏める必要があるのだ。

 この会合には国の代表一人とその秘書、書記と何人かの要望がある者が国側から出席するのに対し、研究室側は、室長と助手の二人だけである。研究室で成果を出せている研究員は今のところ室長一人で、その室長のお守りとして助手が一人ついてきているのである。だが、結局のところ、他の研究員が成果を出したところで室長には「説明責任」が与えられ、発表は結局室長一人になる。

 ただし、そこに問題があった。室長に当然のように説明責任を与えた国だったが、それが大きな間違いだったのだ。

 何を隠そう、論文は上手いくせに、エリサ・クリスティというやつは例え話が下手なのだ。


「それはどういう喩えですか」

 書記の女性が苦々しい表情で、本日何度目かのその言葉を口にする。それに答えようとする室長を遮り、助手が的確な言葉に置き換えて確認を取る。すると、双方共にすんなりと腑に落ちるのだ。

 コミュニケーション能力はあるくせに説明が下手くそな室長に、助手は本日幾度目か知れぬ溜め息を吐いた。時計をちらと見上げると、予定より三時間近くオーバーしている。早く切り上げないと、こちらはともかく、国側のスケジュールが悲鳴を上げることになるだろう。

 否、助手にとってそれ以上に気がかりなのは、この間に溜まる書類仕事の数なのだ。室長と国の会合が長引くのはもはやいつものことであるため、それに比例するようにさりげなく書類が増えていく。研究員はそのうち助手の机にエベレストでも作りたいのではないだろうか、と冗談半分に思っていた。

 さすがに三時間以上の「説明責任」との格闘が不毛であることを察したのだろう。国側が、適当に切り上げ、報告書に目を通す、と語って会議は終了となった。報告書だけで済むなら最初からそれだけにすればいいものを、と毎度ながら思う。だがまあ、国も体面というのがあるのだろう。

 この会合の意味するところは想像に難くない。要は「誰が立場が上か」を示すためのものなのだ。「説明責任」という命令を使って、エリサ・クリスティよりこちらの方が格上だと示すためのもの。

 当の本人──エリサ・クリスティには全く通じていないようだが、通じていれば、国家機密を逆手に取って脅しなどかけないし、毎度毎度わかりにくい説明ばかりを用意することもないだろう。……いや、わかっていてわざとやっている可能性もある。

 何にせよ、国との会合は毎度助手の胆を冷やし、胃痛の原因となる。きりきりと痛む胸を押さえ、助手は室長を乗せて帰途に着いた。

 無論、帰りに軽食を買う際に寄ったコンビニエンスストアで胃薬を買った。

「なんだね、ワトソンくん。胃もたれかい?」

「誰のせいだと思うんですか?」

「さて? あ、このフルーツサンド美味いぞ。ほら、ワトソンくんも一口」

「胃薬服用者に食べ物勧めなっうぐ」

 フルーツサンドを無理矢理口に突っ込まれ、危うく呼吸困難に陥りそうな理不尽な日常が過ぎていく。フルーツサンドは確かに美味しかったのでよしとすることにした。……が、助手はあることに気づき、顔を赤くする。

 事前に室長が美味しいと評価したということは、一口は確実に食べている。それをそのまま口に突っ込まれたのだ。

 室長は女、助手は男。少しくらい意識してしまっても仕方ない。

「ワトソンくんが今何を考えているか当ててあげよう」

 室長は得意げに胸を張り、あっさり正解を導き出す。

「私と間接キスしたと戸惑っている」

「戸惑ってなんかいません」

「人は咄嗟の反論のとき、相手の言葉をそのまま引用し、否定しようとする傾向がある」

 常々思っていることだが、室長には敵う気がしない。

「というかその人はなんたらする傾向があるとかなんですか。生命学やめて心理学でも習得したいんですか?」

「生命学はやめんよ。犯罪心理学には興味があるが」

「犯罪心理学とまでは言ってませんよね。またなんで?」

 信号が赤で停まる。すると室長は悪戯っぽい笑みを浮かべてとんでもないことを口にした。

「気になるじゃないか。犯罪者の思考回路なんて」

「はあ……?」

 犯罪者を理解したいとでも言うのだろうか。

「違うよ。犯罪者にならないために犯罪者の思考回路を理解したいのさ。私はサイコパスじゃない」

「どうだか。室長なら満面の笑顔で詐欺とかしそうですよ」

「むう、失礼な」

 頬を膨らませる室長を見て、一瞬たじろいだ。無縁そうだったのに可愛らしいと助手は思ってしまったのだ。

 しかし現実は無情で、眺めていたいと思うと青信号に変わり、助手は出発せざるを得なかった。




「ただいま戻りましたー」

 誰に言うともなく口にすれば、自分勝手ながら、帰ってきた証明を打ち立てたような気分になる。

 実際誰も聞いている者はないから、助手の自己満足を咎める者はない。さて、今日も机上に連なる山脈を片付けようか、と机に向かう。

 すると、摩訶不思議なことに、山脈はそこにはなく、地方の登山家を満足させられるかどうか、といった程度の山があるだけだった。エベレストには到底及ばない。

 助手が不思議に思っていると、部屋の扉が開いた。そこから入ってきたのは湯気の立つマグカップを一つ携えた少女と言われても頷いてしまいそうな体躯の人物。ベージュの腰ほどまである髪を項で二つに括った女性だ。身長は一五〇あるだろうか。細い黒縁の楕円の眼鏡が似合っているその人物は白衣を着ておらず、灰色のスラックスにシャツ、オレンジのカーディガンを羽織った事務員風の装いだ。

「あ、アドラーさん、今日はいらしていたんですね」

 助手は記憶の中から引っ張り出したその姿に得心する。

 彼女はフィアナ・アドラーという臨時職員。あまり予算がないため、週に一回来てくれればいい方といった具合にあまり馴染みのない人物だった。彼女の方も、他の職と掛け持ちらしく、これくらいがちょうどいいとか。そういえば室長がどこからか引っ張ってきた人物だ。せっかくならホームズでも引っ張ってくればいいものを、アドラーという苗字に食いつく辺り、ずれているというか。

「あ、お疲れさまです」

 聞き心地のよい静かなソプラノの声でおずおずと頭を下げてくる。助手の分も珈琲を、と思ったのだろう。部屋を出ようとする彼女に、助手は問いかける。

「この書類、もしかして君が?」

「あ、はい。差し出がましかったでしょうか……」

「とんでもない。助かったよ」

 助手がとびきりの笑顔を向けると、彼女は何を思ったか、すぐ扉の向こうに消えてしまった。

 助手は疑問符を浮かべつつ、ひとまず、残りの書類を片付けることにした。



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