四輪目
結局、検体採取と面会の日取りは同日となった。
大規模マフィアのボスに対しても変わらない室長の態度には、さすがというしかなかった。いや、喧嘩を売ってほしくないというのが助手の切なる願いであるが、助手はフォローに徹するしかなかった。
検体採取後何かに予定があった。日程を空けるために消化しなければならないのは仕事だけではなかった。各会合も日程調整をしなければなかったのだ。
エリサ・クリスティという人物は顔が広いばかりではなく、交遊関係も良好であるため、他部門の研究室長などとのやりとりは日常茶飯事なのだ。
ただ、今回の検体採取は生命学の研究室としては重要度が高かったし、相手が相手であるため、秘匿性も高かった。故に、周囲の他研究者たちに悟らせるわけにはいかなかった。
そのため、室長は今、むっすりした顔で電話応対をしている。人付き合いは嫌いではないし、同じ研究者同士、会話が弾むものだが、エリサ・クリスティに直接会えない分、一人一人の通話時間が長く。通話時間が長く、それが何人も続くとなると、無情にも時間は過ぎゆくばかりで。研究大好きエリサ・クリスティの研究時間がガリガリガリガリと削られていくのだ。
嫌ではないのだが、何よりも研究優先のエリサ・クリスティは研究に割く時間が短くなることを招く今の状況を好まない。しかし、こればかりはエリサ・クリスティのコミュニケーション能力が成せる業で、助手にはどうしようもなかった。室長の電話中にかかってきた電話に折り返す旨を伝えるくらいしかできなかった。
ちなみになのだが、他研究員たちは助手が帰ってきたのを見るなり、助手の元に書類を山積みにして何食わぬ顔で研究室に向かう途中、たまたま遭遇した室長に「優秀な我が研究員たちのことだ、書類仕事など当の昔に片付けているだろう」と言われ、泡を食う羽目になった。
いくらかおかげで仕事は減ったが、相変わらず多いことには変わりない。そうは思いながらも、室長のさりげない一言に助手は劣等感を抱えていた。
やはり、この研究室トップの言葉でしか研究員は動かない、ということが露呈したのだ。──自分では、足りないのだ。
やるせなさを抱えながら、一通りの電話を終えて、専用研究室に籠り始めた室長を見、助手は驚く。
室長がやっていたのは所謂寿命の長さを調べるための検査だ。それをやるのは研究室のためではない理由があった。今日同行したからわかる。マフィアのボス、ジン・カタギリからの取引代わりの依頼によるものだ。ジン・カタギリの要望は、「自分の寿命を知りたい」ということだった。検体提供をしてもらったのはこちらなのに、その要望さえ聞いてもらえば、報酬まで出すと言ってきたのだ。その心理が助手には理解できなかったが、室長は二つ返事で受けていた。
普通は研究一筋な室長がおまけに過ぎない依頼を優先するというのは不思議な光景だった。曰く、自分たちにとっても利になるからとのことだが……
ジン・カタギリ氏について思う。彼は四十過ぎだというが、見た目は助手のトウル・ワトソンとそう変わらないくらいだ。不自然に若い。加えて、類稀なる身体能力、記憶力、回復能力を兼ね備えている。そこから推測するに、ジン・カタギリ氏は違法とも言える人体実験を受けていたのであろうことは容易に想像がつく。最初、助手が行った際、研究室という言葉に僅かながらに嫌悪感を表していたことからも、ジン・カタギリ氏が被験者であったことを自覚している可能性は高い。
皮肉にも、違法と思われるその人体実験が、新たな生命学の扉を開こうとしているわけだが。
そんな細胞の詳細を調べるより先に依頼を優先したのは、報酬に目が眩んだわけではなく、ちゃんと室長なりの理由があった。
室長は検体提供とこの依頼で、ギブアンドテイクということにして、金銭関係の発生を防ごうとしていたのだ。
世の中というのは実に妙味なもので、金の出所を辿れば、簡単に目的の情報に行き着いてしまう場合がある。今回は情報の漏洩を最小限に抑えるために早いうちに依頼をこなしたのだ。依頼を先延ばしにすると、ギブアンドテイクという形式を取りにくくなる。故に早めの処理を選択したようだ。
結果を聞いた助手は、もう何徹目かわからない室長を無理矢理家に帰すことにした。検体採取という大仕事は終わったわけだし、少しは休んでもらいたい。それは助手のみの願いではなく、室長を慕う、全研究員の願いであった。
助手は室長を車に引っ張り込みながら思う。自腹で買ったこの自家用車の経緯を。
この助手の自家用車は室長のために買ったとも言える。何せ、研究熱心なあまり、自宅に帰ることなく、研究室で夜明かしすることなど室長には日常茶飯事だったのだ。帰ってください、と説得しても、室長の自宅は遠く、室長は自家用車を持たず、徒歩で帰らせては女の独り歩きで何が起こるかわからないし、何より時間がかかる。
そこまで計算済みで自家用車を買わなかった室長を見兼ねて動いたのが、助手である。
つまりは、遠い自宅に帰る交通手段がないという部分を解決してしまえばいいのだ。
そこで助手は貯金を削って、自家用車を買い、自分も帰るついでに室長を送るという手段を手に入れた。反論材料をなくした室長はさすがにこの助手の策にはお手上げで、乗るまでにいくらか抵抗するが、最終的に乗せられて帰る羽目になるのだ。
助手は室長が進んで帰るようになるように、ドライブ中、景色のいいところを通ることにした。幸い、近くに水平線の見える美しい海辺があった。夕陽が沈み、夜に切り替わるタイミングでそこを通ると、室長はその美しさに満足したような笑みを浮かべる。それが助手は嬉しかった。
その日もその海辺を通った。今日は仕事が山積みだったため、少し遅くなってしまい、夕焼けは見逃したが、新たな発見があった。
ギラギラした街灯の少ない海辺では、星がやたら綺麗に見えるのだ。その光が、所々海の水に反射して、美しい光景を作っていた。
男女二人きりのドライブ。しかも助手席に乗るのは尊敬し、憧れている人だ。そこそこに知識のある助手は悪戯心を働かせて、隣にこう囁いてみた。
「星が綺麗ですね」
月が綺麗、ほどではないが、近頃巷ではだんだん有名になってきている成句だ。
……きっと、紫露草を渡してしまった今では、伝わらないであろう想いがそこに込められていた。
すると、即座に返事が返ってきた。
「海が綺麗ですね」
助手席から聞こえた言葉に思わず助手はハンドルを変な方向に回しそうになった。まさかそう来るとは思っていなかった。
単純に星の煌めきを返す海が綺麗だったのか、と思ったが、ちら、と見た助手席の人物は悪戯っぽく笑っていた。本当に子どもみたいだな、と呆れると同時、胸にもやもやとしたものが立ち込めて、少し苛立った助手はにやりとしたその頬を引っ張った。
助手より博識であろう室長が、知らないわけがない。
「星が綺麗ですね」は「私の気持ちなんてあなたにわからないでしょうね」、「海が綺麗ですね」は「私はあなたに溺れています」だ。
まさか、と思って、助手は室長に「海が綺麗ですね」の真意を問わなかった。ただの悪戯かもしれないのだから、真に受けるのも馬鹿馬鹿しい。
そんなことを考えながら、海辺近くの家に帰ると、海辺に見覚えのある顔があった。ジン・カタギリだ。
ちょっとした戯れで飲みに誘い、励まされて帰ったのを助手は覚えていた。
なんとなくだが、気づいてはいる。
ただ、上司と部下の関係に留めておこうと、気づかない振りをしていたのだ。
あの、紫露草を送ったことを後悔する。
露草という種類の儚い紫の花弁が散った後には、新たな感情が芽生え始めていたのだ。
気づいてはいた。けれど、知らない振りをしていた。
まさか上司に恋情を抱いているなんて。




