三輪目
「明日、同じ時間に来い」
そう言われ、帰された。最後まで警戒心を解かない黒服たちの様子に、愛されているのだなぁ、ここのボスは、と考えた。研究室と似ている。
助手はもちろんのこと、研究室の全員が室長を敬愛している。だからこそ、室長の負担を減らそうと、多くの研究員が日夜研究に励んでいる。もちろん、室長ほど研究漬けにはなっていないが。
ただ、問題がある。これも助手に不相応に選ばれたトウル・ワトソンへの嫌がらせなのか、研究員は研究に没頭しても、書類仕事はなかなか片付けない。やればできるとは思う。だが、誰もやらない。きっと、室長からそういう声掛けをすれば、鶴の一声で皆書類仕事を始めることだろう。
トウル・ワトソンが採るべきは室長へのその嘆願なのだろうが、当の室長が書類仕事を片付けない人間なのだ。示しがつかなくなるだろう、と助手は思い悩んでいた。
結局答えの出せない助手は一人で膨大な書類仕事をやることになる。さすがに実験結果などの報告書は自分で書いてもらっているが、組織のNo.2である室長助手は決裁のために全てに目を通さなければならない。もしかしたら、研究を積み重ねるのすら、嫌がらせとして負担にするものなのかもしれない。
だが、それは考えてもどうしようもないことなので、ひとまず仕事をこなすことにする。
帰れば、いつもなら机で山脈を作っているはずの書類が一切なかった。助手は思い至り、驚く。室長は宣言の通り、助手の仕事を肩代わりしてくれたようだ。
彼の人物が書類仕事ができることにまず感動し、それから処理スピードに感嘆した。山脈クラスの書類を片付けておきながら、何事もなかったかのように、いつも通り研究に励んでいる。非常に涼しい顔で。改めて、エリサ・クリスティという人間の優秀さを思い知らされたような気分だ。
さて、仕事がないとなれば、考えるべき案件に心おきなく取りかかれる。
室長用の研究室のドアをノックした。「ただいま帰りました」というと、「合言葉は?」という謎の文句が返ってきて、助手は合言葉なんて知らないため、適当に「紫露草」と答えた。
「入りたまえ、ワトソンくん」
「あれで合っていたんですか」
驚きである。曰く。
「朝の顛末を知っているのはワトソンくんしかいない。人間は咄嗟に質問されたとき、直近の最も印象深かったことを口走る傾向がある。よかったよ、蜂の巣とか返って来なくて」
「蜂の巣にされそうでしたけどね。そしてそうなるように僕に命じたのは貴女です」
「その通り。まずは無事の帰還を祝福して珈琲でも飲もうか」
悪びれることなくそう答える室長に、助手はすかさず合いの手を入れる。
「カフェインの過剰摂取は体に良くないと聞きます。ここは紅茶で手を打ってはくれませんか?」
「紅茶と珈琲ではさしてカフェイン量は変わらないだろうに。だがまあ可愛い可愛い助手のワトソンくんが紅茶を飲みたいというのならばそうしよう」
「待ってました、と言いたいところですが可愛いの二乗は余計です。まあ、僕の秘蔵の品が日の目を見られる機会が得られたので、文句は言いませんが」
戯れ言のような言葉を交わし、本題に入る。助手はマジシャンさながらに手から二つのティーバッグを出して見せた。装飾の凝った袋には洒落っ気を感じる。
「ほう、それがワトソンくんの秘蔵の品と?」
「僕のお気に入りです。レディグレイというフレーバーティーですが、飲み口に深みがありつつもあまりしつこく感じないという代物です。レディグレイの名前の由来まではわかりませんが……僕はアールグレイよりこちらの方が好みですね」
「ふむふむ。それは興味があるな」
早速レディグレイを淹れて、一休みとなる。助手として助かるのは、自分の報告を聞くときはさすがに室長が研究の手を止めてくれることだ。
一休み、とは言うものの、助手にとっては出張の報告である。機密性の高いものであるため、報告書は作成せず、口頭で室長に伝えることを選んだ。頭脳明晰な室長のことだ。記憶力はそこそこにある。事研究に関わることであれば、尚更その記憶力は異様に発揮される。
助手は一つずつ説明した。
「まあ、見ての通り、僕はなんとか無傷で帰ってきました。死線はくぐりましたが」
「それは何よりだ」
助手の皮肉を込めた一言を室長は軽く受け流す。この人に皮肉の効果がないのは実証済みであったため、助手は気にせずに伝える。
「紆余曲折ありましたが、目的の人物との接触に成功しました」
「ほう、一介の研究員のためにわざわざ首領自らが出張ってきたのか」
「暇だったらしいです。あと、名乗ったので一定の信頼を得たのかと」
「やはり我が助手は優秀だな」
その合いの手に、助手はちくりと胸が痛んだ。室長は助手としての自分は称賛してくれる。だが、トウル・ワトソン個人として、評価してくれたことはない。
まあ、助手として褒められるだけでも充分で、個人として褒められたいなど、高望みに過ぎないということは心得ている。
胸の痛みをなかったことにするように、すらすらと告げた。
「幸い先方も暇があったため、少しの話し合いはできました。その結果がこれです」
助手は先方から預かった携帯端末を出す。これで連絡を取るように言われたことを伝えた。
実際問題、この研究室はハッキングなどに対しての対抗策を持たない。エリサ・クリスティは優秀であることを国からも世界的にも認められているが、その破天荒さと突飛さ、ついでに狡猾さも警戒され、この研究室は国の管理下という名目の監視下に置かれている。何度か盗聴器や隠しカメラなどを設置されたこともあった。この室長用研究室にはエリサが何を起こすかわからないという理由でどちらも仕掛けられていないため、こうして気軽に話しているわけだが、情報セキュリティという面において、この研究室が劣っているのは確かだ。
「ほう、今回一回の訪問で相手との連絡手段まで得るとは」
「これで安心してアポイントメントが取れます」
蜂の巣にもならずに済むだろう。あんな目は二度と御免だ。
「それから、先方が室長と話がしたいということで、予定を作ってくれないか、という要望を受けました。特にデメリットはないので断っていません」
「……仕事はどうする?」
珍しく真剣な眼差しの室長に、助手は満面の笑みで応じる。
「それはこの研究室の優秀な優秀な研究員たちに任せればいいかと。検体採取と面会を同日にすれば一度で済みますし、それならさして支障はないでしょう」
からりと告げた助手だが、これを他の研究員たちが聞いていたなら悲鳴を上げたにちがいない。
室長の一日の仕事量は一般人を遥かに凌駕する。そして、その室長のお守りとして同行する助手の分の仕事量を加算すると……さぞや目の回る思いをすることだろう。嫌がらせのしっぺ返しにしたら、助手からすると、まだまだ軽いものだ。
「まあ、検体採取の日取りについては明日再び訪問して話し合う予定です。こちらでもある程度候補日を決めていた方がいいでしょう」
二週間後とか如何です? と問いかける。だが、室長はスケジュール管理を助手に任せているため、特に異論はなかった。
ただ、その日を空けるために、仕事をある程度片付けなければならない。室長ももちろんだが、助手もだ。
一日空けるとなれば、仕事量は尋常ではなく増えるだろう。室長ではないが、徹夜をする羽目になりそうだ。
「というわけで、会合の予定が入ったとだけ部下に伝えて、仕事の振り分けをしましょう」
「ああ、よろしく頼む」
一通り報告が終わったところで、助手は紅茶を啜る。やはりこの香りと味は好きだ。
だが、気分は憂鬱だ。どれだけの書類をこれから処理しなければならないのか考えると。仕方のないことではあるが。
紅茶を飲みきった後で、助手は退室する。他の研究員に仕事を詰めることを説明するために。
阿鼻叫喚となりそうだったのを宥め、なるべく負担を減らそうと心に誓った。今夜は徹夜になるだろう。
ふと、室長室が開いていたため、気になって覗く。すると、その机には小さな花瓶に今朝採ってきた紫露草が生けられていた。なんだかんだ言って、気に入ってくれたのだろう。そう感じると心がふわりと軽くなり、満たされるような感覚に包まれる。
助手は足取りは先程より軽く、他の研究員が集う研究室へと向かった。




