十二輪目
私は定例の国との会合にいつも通りに出席していた。国側の雑用係が珈琲を淹れにいったのに、いつも研究室でお茶汲みをしている習慣か、ワトソンくんがついていったのを見て、いつもながらにそう固くならなくていいのに、と思った。
だが、それが私の命運を分けたといっても、過言ではないだろう。
給湯室から戻ってきたワトソンくんがいつになく真剣な顔をしているのを、いつも通り、緊張しているのだろう、と私は楽観的に受け取った。
そこにある意味を私は深く知ろうとしなかったのだ。
私は、ワトソンくんを気にいっていた。ワトソンくんという響きが好きだったのもあるが、共に過ごしていくうちに形容のしにくい心地よさを覚えていたのだ。
別にワトソンくんの胃痛の種を増やしたいわけではなかったが、ワトソンくんが私をフォローしてくれるから、私の研究が成り立っているのだということは理解していた。つまり、ワトソンくんは私の想像以上に優秀だったのだ。
故に、助手をワトソンくん以外にやらせるつもりはなかったし、私はワトソンくんを心から信頼していた。──それが職場の上下関係を越えた、恋情に変わっていたのも、一応、自覚はしていた。
今までも、そしてこれからも、私の助手はワトソンくん一人だ。──そう思っている。
私がそれを強く実感したのは、出された珈琲に口をつけようとしたときだ。テンの冬毛の美しい色に変わった私のマグカップに手を伸ばそうとしたそのとき、ぱしん、とその手を払われた。払ったのは、ワトソンくんの手だった。
そうしてワトソンくんは私のマグカップを奪い、一口飲んだ。こくり、と彼の喉仏が動き、黒くて苦い液体を飲み下す。そのときの私には突飛な行動にしか見えず、呆然としていた。辺りの国の連中も呆然とワトソンくんの一挙手一投足を見ていたのを、よく覚えている。
まだ中身の残るマグカップをいやに慎重に置き──それからワトソンくんの体は傾いで、会議室の無機質な床に倒れた。一瞬、何が起こったのか、理解できなかった。ワトソンくんが弱々しく咳き込み、赤い粘性のある液体を口から吐き出すまで、私は動くことができなかった。
「室長は、飲まないでくださいね」
息も絶え絶えにワトソンくんが言ったのが、私が最後に聞いたワトソンくんの声だった。ゆっくりと半分まで閉じられる目。微かに青く見える彼の瞳は、半分開かれた状態で、光を失っていた。
ワトソンくんが死んだ。私がそう察するのに時間はかからなかった。その原因が直前に飲んだ珈琲にある可能性が高いことも容易に察せられた。回転の早い私の頭だからこそ、それから冷静に動けたのだと思う。──大切なものを喪った喪失感に囚われる前に。
自分が多くの人間を敵に回すような言動を取っている自覚はあった。特に国に対してはそうだ。今まで始末されなかったのが不思議なくらいだと思っていた。きっと、ワトソンくんが上手い緩衝材になってくれていたおかげだろう、と改めて助手の優秀さに感謝する。
だが、堪忍袋の緒というやつにも限界はある。まさか、助手であるワトソンくんの前で私を暗殺しようという大胆な行動に出るとは思わなかったが。
おかげさまで私は唯一無二の助手を喪った。そしてその助手は、最後まで私を助けてくれたのだ。
守ってくれたのだ。
私は携帯端末の動画モードを起動する。それから私のマグカップと珈琲を写し、それに懐から出したスプーンを取り出してみせる。国の連中は、私のやることがわからないらしい。それも仕方あるまい。今この場に、私以上の科学の知識を持ち合わせている者はいないのだから。
故に私はわざとらしく、懇切丁寧に説明してやる。
「これは象牙のスプーンだ。象牙とは古来より、毒を見分けるものとして、身分の高い者がスプーンの形にして、毒が入っていないか確かめるために重宝していたそうだ。なんと、毒物に触れると、色が変わるとか」
そんな私の説明に、国の奴らの顔色が変わる。私はわざとらしく首を傾げ、続けた。
「さて、今私の助手を死に至らしめたと思われるこの珈琲に、これを入れたら、どうなるかな?」
それを聞いた国の連中が、やめろ、とひきつった声を出す。私だって、暗殺の警戒はしていたのだ。象牙のスプーンくらい持っている。それをやはりわざとらしく、ちゃぷん、と音が立つように珈琲に入れた。
美しい色は見る間に変わった。相当強い毒を使ったのだな、と私は何処か冷静に認識した。
回したままの動画に、色の変わったスプーンを写し、私は問う。
「さて、これはどういうことかな?」
そこで、動画を切った。真っ先にやるべきだったのだろうが、救急車を呼んだ。……既に彼に息がないのはわかっていたが。
警察で調べればすぐに毒殺だとわかるだろう。そして、私の撮った動画を公開すれば、真実を闇に消すことはできない。
私は動画を簡単に編集し、動画サイトにアップした。インターネットにばらまいてしまえば、どれだけ早く対処しても、簡単に収拾がつかない。現在よく思われていない国の暗殺未遂なんて知ったら、反抗組織が黙ってはいないだろう。国は、潰される。
動画を投稿し、自分のマグカップを提げようとしたところで、傍らに立つ人物に気づいた。それは見覚えのある女性だった。大人というにはまだまだ少女の面影を残している小柄な人物。有り体に言ってしまえば、童顔な彼女は、敵意が存分に込められた眼差しを私に向けていた。
淡いベージュの長い髪を項で二括りにした彼女は私がいつぞや引っ張ってきた研究室の事務員、フィアナ・アドラー女史だった。彼女は何も言わず、唐突に私に日記らしきノートを目の前に突き出してきた。ずいずいと受け取るまでやめないといった気迫で突き出されるので、私はそろそろとそのノートを受け取った。
……目を通し、それがワトソンくんのものであることがわかり、最後の一文に、目を見開いた。眦に浮かんでくる熱いものが零れるのを、抑えきることができなかった。
憔然とする私が顔を上げると、アドラー女史は引ったくるように己の頭に被せていたものをぶん取った。長髪はウィッグで、周りの目を誤魔化すための偽物だったらしい。本来の彼女は淡いベージュは同じだが、ボブカットで短髪だ。その顔にも見覚えがあった。──ワトソンくんの幼なじみで、カタギリ氏のいるマフィアの構成員、アイリッシュ・ワーグナーだった。
「国、マフィア、貴女たちの研究室。私は三重間蝶をしていました。けれど、トウルちゃんは私を信じて、その日記を私に託した。どのように扱っても構わない、と言っていたので、私は貴女に見せることにしました。
それを見て、貴女が何を思い、どう行動するかは、貴女の勝手です。ですが、私からは一つだけ」
すると、ワーグナー女史は私の胸ぐらを引っ掴んでそれから固めた拳を私の頬に思い切り叩きつけた。それは当然痛かったが、その拳に込められた想いもまた痛かった。
ワーグナー女史は無慈悲に告げる。
「貴女はトウルちゃんを殺した。もし、トウルちゃんが貴女を想っていなかったなら、私はここで貴女を殺している。それくらいに私は貴女が憎くて……妬ましい」
……幼なじみであるワーグナー女史もまた、ワトソンくんに恋情を抱いていたのだ。しかも、日記を先に読んで、ワトソンくんの想いの方向には気づいていた。
故に、私を憎み、妬み……けれど、殴るだけに留めたのだろう。
私は答えた。
「日記は有難く受け取っておく。ありがとう」
その先は言葉にしなかった。
ワトソンくんの仇は、必ず討つ。