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紫露草  作者: 九JACK
10/14

十輪目

 研究室に帰ると、しばらく室長は専用の研究室に籠りきりで研究を始めた。機嫌が悪い証拠である。報告書を書くと言っていたが、そんな心の余裕もないのだろう。

 室長の機嫌が悪くなり、研究室に引きこもることはよくあることだ。そして大抵、引きこもっている間にしているのは同じことの繰り返し。途方もない回数を繰り返すことで頭を空っぽにするという変わっているが実に室長らしいストレス発散方法なのだ。

 しばらく治らないのは検証済みである。ならば助手のすべきことは一つ。今回のことに関する報告書の作成だ。

 今回の一連のことはカタギリ氏の要望もあり、極秘裏に行われている行動だ。室長がひきこもった今、報告書を書けるのは助手のみである。今回は協力してもらった記憶研究室にも報告書を提出する必要があるため、二種類書くことになるが、毎日アンデス山脈のごとく連なる書類を片付けているのだ。たった二つの書類処理なんてお手のもの。溜まっている他の書類から目を背けつつ、室長に提出と決裁に向かう。

 室長は変わらず研究室に籠りきりで、カタギリ氏の検体を破壊しては再生、破壊しては再生、とその様子を顕微鏡で熱心に観察している。得るものがあればいいが。

 助手が見た限りで六回ほどその作業が繰り返された後、室長はようやく助手に気づいて振り向いた。振り向いたが、何も言わない。

 沈黙が息苦しくて、助手が口火を切る。

「今回の件の報告書をお持ちしました」

「ふむ」

 差し出された手にそっと報告書を差し込む。すぐさま室長は目を通し、ざっとしか読んでいないようなのに、ほう、と感嘆の息をこぼす。

「これをこの短時間で仕上げてきたのか。さすが私の助手だ」

 助手。その言葉がまたちくりと胸を刺す。やはり助手としての自分しか評価してくれない。それが悲しくて、虚しい。自分の……紫露草を渡した後だから言い出せない恋情が、無駄であると示されているようで、苦しい。

 何故好きになってしまったのだろう。

 そう思っていると、室長は机に報告書を置くなり、ずいずいと助手に詰め寄った。助手は室長の表情に滲んだ気迫に圧されて一歩、また一歩、と後ろに下がる。それがつかつかと静かな空間に音を立てて十秒ほど続くと、助手の背中は壁に当たり、咄嗟に逃げ場を見失う。室長は更に逃げ場を奪うように、だんっと助手の傍らの壁に手をついた。

「しつ、ちょう……?」

 ずり、と少し崩れながら、助手は俯いた室長と目を合わせようとした。すると、がばりと室長の顔が上がり、至近距離で目と目が合う。顕微鏡を使っていたため、眼鏡をかけていない室長の顔はなおのこと近く感じた。

「何故……」

 地を這うような声で室長が問いかける。

「何故、私からは逃げる?」

「え?」

 額と額を突き合わせ、吐息のかかる距離で、室長はやるせないような表情を浮かべて、続けた。

「あのアイリーンとかいうやつからは逃げなかっただろうが。何故私からは逃げる?」

「そ、それは……」

 室長とアイリーンの違いならいくらでもあった。

 アイリーンは一撃が重いだけでなく、瞬発力、反射神経、共に秀でており、一般人の助手が逃げる暇を与えずに飛びかかってくる。それだけだ。

 付け加えるならば、今の室長の気迫は相手を退かせるには抜群の効果を放っている。……助手は今、室長が怖かった。

 そんな中、懸命に紡いだのは、頓珍漢な解答だった。

「星が、綺麗ですね……」

 それ以上は苦しくて、息をするのさえ、誰にも許可を得ずにすることができないような感覚に囚われて、助手は逃げ出した。室長が助手を押さえ込むような形になっているが、室長は一般女性だ。アイリーンとは違う。男である助手は、振り払って逃げるくらいはできたのだ。




 室長専用の研究室を出て、扉に背を預けてそのままずるずると崩れ落ちる。ようやく許されたように再開した呼吸は荒く、少し嗚咽が混じっていた。

 意味がわからない。

 あんなことをして、室長は一体何が言いたいというのか。何がしたいというのか。

 あんな思わせ振りな行動を採られて、けれど、片想いなのは自覚しているから抑えつけて、精一杯に放った「星が綺麗ですね」。精一杯の皮肉だった。「貴女に僕の気持ちなんてわからないでしょう」とは、紫露草を渡したときに並ぶほどの皮肉ではないか。




 全部、自分に返ってくる、皮肉じゃないか。




 尊敬はしているが恋愛ではないのは今やあちらだし、告げない想いが伝わるわけもない。全部全部、助手の行動は空回りしている。

 勢いのままにあんな突き放すような言葉を口にしてしまった。

 少し頭が冷えると、助手はよろよろと立ち上がり、山脈を連ねている書類の待つ事務室へ戻った。




 それから、室長と助手は仕事の話しかしなくなった。双方共に無駄口を叩かない。他の研究員に対しても対応が淡白になった。特に助手はどれだけ嫌がらせのように書類仕事を回されても、わざとらしい予定のブッキングをされても、淡々と処理するだけで、愚痴の一つも口にすることはなかった。

 国に探りを入れるための会合の日程の打ち合わせも、無理なスケジュール調整にも何も言わず、二人は淡々と仕事に励むだけになった。

 淡白な中に険悪な二人の雰囲気を察して、何人かが心配して声をかけるが、室長は単調に「問題ない」、助手は形ばかりの微笑みを浮かべて「大丈夫ですよ」と返すだけだった。

 けれど誰もが察していた。どちらかが爆発するのは時間の問題だと。






 その懸念の通り、国との会合を控えた前日、先に助手が爆発した。

 誰もいない朝の事務室。習慣で珈琲を淹れているところで、ふと、室長専用のマグカップが目に留まった。というのも、いつもの癖で、室長の分まで淹れようとしていたのだ。

 だが、マグカップを見つめて数秒、助手は思い切り、マグカップを振り上げ、床に叩きつけようとした。マグカップはせとものだ。当然床に落とせば割れる。

 けれど、マグカップが振り下ろされることはなかった。

 助手の手首を女性とは思えない強い握力で押さえる人物。週に一回顔を出せばいいはずのアドラー女史が、助手の行動を止めていた。

「それは駄目です」

 彼女はただ一言、そう言った。

「だって、貴方が大切にしている人の、大切なものでしょう?」

 深奥を突く一言だった。助手の目から熱いものが流れ落ちる。

 そう、このヘンテコなマグカップは、いくらヘンテコでも、室長が大切にしているものだ。──自分の好きな人が大事にしているものだ。壊すなんて、できやしない。

 助手はぼろぼろと涙し、床に力なく崩れた。アドラー女史が優しく支えてくれる。

 アドラー女史の正体がなんとなくわかった助手が、その名前を呼ぼうとしたとき、アドラー女史は悪戯っぽく微笑んで、唇に人差し指を立てた。──彼女にも事情があるのだろう。

 正体については追及せず、立ち直った助手は、二人分の珈琲を淹れ、室長専用研究室へ持っていった。

 そこには相変わらず、目の下の隈の濃い肌が青ざめた不健康そのものの人物がいた。助手が入ってきたことに気づき、戸惑う。

「はい、室長の分、砂糖も持ってきましたよ」

 何気ないその一言に室長は目を見開き──それから破顔してマグカップを受け取った。

 久々に砂糖の匙が十往復するところを助手に咎められ、心持ち、室長は嬉しそうにしていた。

 仲直りは済んだ。明日の会合は上手くいくだろう。











 そう思っていたんだ。



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