一輪目
「室長、紫色の露草を発見しました」
紫色の通常の露草とはだいぶ異なる三枚の花弁を携えた花だ。ただ、露草と称するに相応しい儚さを湛えている。
それを携えた青年は茶髪を揺らして室長、と呼んだ人物に首を傾げてみせる。
一方、室長と呼ばれた人物は、ゆらりと顕微鏡から顔を上げる。背中の中央の辺りまで伸びた髪を適当に項でくくった人物だ。目の下の隈と白い肌が不健康さを彩っている。
それから、傍らにあったピンクの下縁という濃い目の眼鏡をかける。それから、青年が握る花を見て、眉根を寄せる。
「それはただの『紫露草』という品種だ。露草の突然変異ではない」
はあ、と溜め息を吐く。
「君とて知っているであろう? ワトソンくん」
「……その呼び方、どうにかしてくれませんかね」
今度は青年が眉をひそめる番だった。「ワトソンくん」と呼ばれたことが気に食わない。
だが、それを否定することはできない。
青年の名前はトウル・ワトソンなのだから。自分の名前を呼ばれているにはちがいない。苗字だが。
青年は紫露草を一輪つまみ、無表情でそれを見つめる。
「まあ、知ってましたけど。あんまり綺麗だったから、室長にプレゼントしようかと思ったんです」
「ほほう、だがワトソンくん、それは女性に贈るにはどうかと思うぞ? 博識なワトソンくんのことだ、紫露草の花言葉くらい知っているだろう」
どうやら名前の呼び方改善はないらしい。トウルは喉まで出かけた溜め息を飲み込み、それから室長の指す花言葉を告げた。
「『尊敬はしているが、恋愛ではない』ですっけ」
「ご名答」
ぱちぱち、とまだ他に誰もいない朝の室内に乾いた拍手が響く。
そこで青年は意趣返しとばかりに口角を吊り上げた。
「僕と室長の関係にはちょうどいいじゃありませんか」
「……ほう?」
室長は少し訝しげな表情をしたが、青年の意見を聞くつもりのようだ。
青年はさらりと告げる。
「僕は室長のことを尊敬はしていますが、恋愛感情は抱いていません。ほら」
「……なるほど」
青年は紫露草を室長に突き付ける。室長はそれを受け取って、その中の一輪を指でちょんちょんとつついた。
「現実とは厳しいものだ。だがまあ、尊敬されているんなら、悪い気はしない」
実を言うと、と室長は続けた。
「私はワトソンくんを無理矢理引き抜いたからね。恨まれていても仕方ないと思っていたのだよ。それが、尊敬、ねぇ」
少し、トウル・ワトソンの経緯を話そう。
まず、青年が所属するのは生命学という生命を一から造り出すという無謀な挑戦をする新しい科学の道を切り開く研究室だ。国の管轄下にある。
トウル・ワトソンは生命学に興味はあった。ただまだ大学院を出たばかりのひよっこ新人に過ぎず、なんとなく、その学問と研究室に憧れる日々を過ごしていた。
そんな一新人研究員に転機が訪れたのはあまりにも突然だった。転機は生命学研究室設立の記念式典のとき。研究室室長に任命された生命学の金字塔とも呼ばれるエリサ・クリスティが、式典に参加した研究員の中から助手を選ぶことになっていた。
トウル・ワトソンは他人事だと思って誰が選ばれるのだろうか、と思って見ていた。実際、エリサの助手になりたい人物は大勢いて、そのために各々の研究の時間を割いてこの式典に参加している者もいた。そこそこに成果を挙げている人材も。それを知っていたら、ひよっこの自分なんて選ばれる余地はない。トウル・ワトソンは物見遊山で式典に来ていた。
だが、トウル・ワトソンは見通しが甘かったと言わざるを得ないだろう。彼は熟知していなかったのだ。エリサ・クリスティの性格を。気質を。異端性を。
エリサは席順の名簿を見るなり、すたすたと迷うことなく、彼の前に立った。選ばれると思っていなかった彼の顔はさぞかし間抜けであったことだろう。ぽかん、と自分の目の前に来た人物のことを眺めていた。肩に手を置かれるまで。
「君がワトソンくんだな?」
「はい」
聞かれて、ほぼ反射で答えてしまったそのときにトウル・ワトソンの運命は決まった。
エリサ・クリスティはその不健康な顔に妖しげな笑みを浮かべ、こう宣告したのだ。
「よし、では今日から君が私の助手だ。頼むよ、ワトソンくん」
「…………はいっ?」
飲み込みに時間がかかったことは仕方のないことだろう。何しろ自分はぺーぺーのぺーだ。一体何を基準にこの人はそう決めたのだろう? そもそも何故自分がほぼ一瞬で選ばれたのだろう? 疑問は尽きなかった。
それは周囲も同じで、特に助手の座を狙っていた研究員なんかは臍を噛んだことだろう。同じ研究室に所属することはできたが、助手は研究室内で実質No.2。一研究員とは立場が雲泥の差だ。
妬み嫉みは激しかった。何せ、特に何の常識もないひよっこ新人が組織のNo.2になんか選ばれたのである。何かしら実績のある人物がなるのなら諦めもつくだろうが、ど素人同然の人間がなったのだ。鬱憤は溜まりに溜まったことだろう。
室長助手に就任してからは様々な意味で目の回るような思いをした。思いも寄らなかった室長助手の就任、それに伴う仕事、嫉妬からの嫌がらせ。その上エリサときたら、とてつもなく破天荒な性格をしているのだ。
先日も、戦争用に造らせられた失敗作の人造人間の御披露目の際、文句をつけてきた国側に、国側の依頼内容の粗雑さを指摘した上で、依頼が国家機密レベルであることを逆手に取り、他国にこの情報を売る、だなんて脅しをかけていたときは胆が冷えた。何回目撃しても、あの破天荒と勝負師のような行動には慣れない。先日が三回目の失敗だったため、前に二度の失敗があるわけだが、あのときも酷かった。
室長的には渾身の出来だったらしい三体目の人造人間は廃棄費用がかかりすぎる、という理由でそのままエリサが個人的に運用し、廃墟のお化け都市伝説になっているとか。その思考回路の突飛さも、なかなかついていけるものじゃない。
研究室室長助手という立場において言えるのは、おそらく、エリサのカリスマというのはものすごいもので、それを剥がせば、ものすごく残念とすら言える……そんなことだ。
だが、室長である責任からか、単に好きなだけかわからないが、エリサはこの研究室の研究員の中で最も研究熱心だ。それこそ寝る間も惜しむほどに。
その結果が目の下の色濃い隈と不健康に白い肌なのだろう。
室長助手は、そんな室長を追いかけるように仕事に励んだ。室長のスケジュール調整、書類仕事、お茶汲み等々。時に嫌がらせでスケジュールのブッキングを起こさせたり、書類にわざと不備を作ったりされるが、それも一つの試練と思い、乗り越えてきた。
スケジュールの急な変更や書類仕事などがあっても、エリサは文句一つつけずに処理する。破天荒だが、そこはしっかりしているのだ。
だからこそ、助手は室長のことを尊敬していた。
真に尊敬すべき人間はやりたくないことでもできる人間だ。やはり尊敬に値するだろう。
故に、気紛れに紫露草を送ったりなんかしたのだ。
例えば、何故トウル・ワトソンを助手にしたか理由を聞いた際に「ワトソンって助手っぽいだろ」なんて陳腐な解答を持ってきたとしても、それを実績だけで打ち消せる能力を持つ人物。それがエリサ・クリスティだった。