お姫様と缶ビール
私たちは八年前から終わっていた。
とっくに終わっていたのに最後のほんのひと押しだけを先延ばしにして、ようやく二ヶ月前に、本当に終わった。
二ヶ月前の八月の半ば、私はクーラーの効いた部屋でこう言った。一字一句、間違いなく思い出せる。だってそれこそ八年間も、胸の中で繰り返し練習したのだから。
「私たち、離婚したの」
自分でも意外なほど落ち着いた声を出した私に、一人娘の律は唖然としたようだった。
彼女の反応も当たり前だ。それこそ私たちは、この子に疑われないために細心の注意を払ってきたんだもの。
昼食のカルボナーラからバターとベーコンの幸せな香りがする。当てつけみたいで嫌らしかったかなと私は少し後悔した。別れた夫の好物をなにもこんな時に作らなくてもよかったかもしれない。知ったことでは、ないけれど。
「相談もせずに決めてごめんね。二人で話し合って決めたことなの」
何一つ嘘は無いのに、何故だか自分が大嘘つきみたいに感じた。
離婚届はつい三日前に提出した。書き込んだのはもっと前だけれど。
律は戸惑った様子で、俯いたまま口を開かない浩二さんの方を見た。ずるい人だ。娘への報告を私一人にさせる気なのだろうか。
「私はまだしばらくここに住むけど、父さんはすぐに引っ越すから、また色々落ち着いたら連絡するね」
伝え終わると、私の心は荷が下りたように軽くなった。きっと今までずっと、言いたくて仕方がなかったのだ。酷い母親だと思った。娘に離婚の話をしたかったなんて。だけどこの事実ばかりは、重たすぎて私一人には抱えきれそうになかった。なぜなら、離婚の原因は浩二さんの浮気だから。誰かが彼を、責め立ててくれればいいと思った。
「申し訳ない」
浩二さんは律に向かって頭を下げた。少し薄くなった頭髪を眺めて、私は彼を嫌いになろうとしていた。
律は何にも言わなくて、あっさりと私たち家族は終わった。成人した娘の反応なんて、こんなものなのかもしれない。心のどこかで期待していた。律が私たちを止めてくれるのを。とっくに手遅れだとしても。
静かになった食卓にフォークがお皿を叩く音ばかりが響く。
八年間も先延ばしにしたのに、まるでたいしたことではないような感覚がした。こう仕向けたのは間違いなく私自身なのに胸が苦しくなって、私それをカルボナーラの胸焼けだと思い込むことにした。
八年前、浮気を告白した浩二さんは「別れてくれ」と言った。結婚して十七年が経った冬の日だった。律はもう高校生で、浩二さんは四十二歳だった。
この人はいい歳をして何を言っているのだろうと、怒りよりも不思議な気持ちが真っ先に浮かんでいた。
私はまるで物わかりのいい振りをして、胸中に渦巻く全ての感情に無視を決め込み冷めた声を出した。
「恋人が出来たからって父親としての責任を放棄するのは違うでしょう」
取り乱さない私を浩二さんは不気味そうに、それでいて少し寂しそうにみやった。私が勘づいていないとでも思っていたのだとしたら、おめでたい人だ。
「養育費なら出すよ。律が大学へ行くというなら学費も出す。君にはもちろん慰謝料も払う」
弁護士をしている浩二さんの口から金銭の話を聞くと、事務的で酷く腹が立った。
「そういうことじゃない。私が言ってるのは、家族の形の話でしょ。離婚だなんて、思春期の娘にどんな影響があるのか少し考えたら分かることじゃない。あなたは仕事でも少しは見てきたんじゃないの」
自分に非がある事を大々的に認めているらしい浩二さんは、私の言葉に押し黙ってしまった。
仕事ではあんなに弁が立つのに、自分の弁護は案外下手なのね。言ってやりたいけれど、口にしたら私の方が醜くなる気がした。
「じゃあこうしましょう。律が独り立ちするまではこのまま、きちんと父親としての役割を全うして。その後なら、好きにしてくれていいわ」
この提案に浩二さんは中々首を縦に振らず、話し合いは長引くことになった。どうやらその新しい恋人と相談をしているようで、私はたった一人で戦っているのに最低な奴らだと思った。
律の幸せと日常を私が守るのだ。私は心底、使命感に燃えていた。それ以外の考えは浮かばなかった。浅はかな逃げ道だったと気が付いたのはずっと後になってから。浩二さんがいい歳なら、私だって間違いなくいい歳なのに。
結局その後、浩二さん達は私の提案を受け入れた。私たちは律が大学を卒業するまで不自然の無い夫婦関係を演じ続けた。浩二さんは元々仕事が忙しかったから、帰りが遅い日や泊まりがけの日が増えても律は勘ぐったりしなかった。
律は大学を卒業と同時に家を出て、私たちの間には同居する理由が無くなった。ごく当たり前のように別居が始まり、ついに二ヶ月前、浩二さんは綺麗さっぱり引っ越してしまった。それはもう、ものの見事に痕跡という痕跡を消し去って、家中から彼のものが消えてしまった。
私はと言うと二ヶ月経った今も売り払う予定の一戸建てに居座り続けている。荷物を片付けるどころか、むしろ以前よりも散らかした状態で。
「どうしたの、この花」
お土産沢山あるから来て、という子どもだましみたいな誘い文句で呼び出した律が、玄関先であからさまに顔を歪めた。
正式な離婚から二ヶ月と少し。何度かメールで短い言葉を交わす程度だった娘の久しぶりに聞く声は、私を怯えさせるには十分だった。
彼女は一体、不甲斐ない母親にどんな感情を抱いているのだろう。
私は大きな花瓶に生けてある大仰な花を見やってから口角をつり上げる。
「別に。いいから早く上がりなさいよ」
律は頷いたけれど、きょろきょろと辺りを見回しては眉根を寄せた。額縁に入れて飾っているジグゾーパズルや増えた靴を訝しがっているようだった。
玄関なんて、マシな方なんだけどなあ。
私は口内で呟いて、リビングを通ってキッチンへ。アールグレイの紅茶をいれてリビングへ戻ると、少し悲しそうな面持ちの律がテーブルについていた。
テーブルの上には小さなサボテンが飾ってある。部屋の隅の大きなテディベアも、棚の中のこけしもテレビ台の上のフィギュアもベランダのそばに置いた観葉植物もソファの上の大量の袋と箱も、つい二ヶ月前までは無かったものだ。
私はこの二ヶ月で、浩二さんが居なくなったスペースを埋めてあまりある大量のものを買い漁っていた。
「あの人がコーヒー好きだったから合わせていたけど、紅茶って美味しいのね」
紅茶の入ったカップを律の前に置くと、彼女は一度持ち上げて飲まずにテーブルへ置き直した。結構良い茶葉なんだけど、紅茶は好きじゃないのだろうか。娘なのに、そんなこともわからない。
「どうして急にヨーロッパなの」
律がぽつりと問いかけてきて、私は自分のカップを手に取った。豊かな香りが鼻腔から脳に届く。
私はつい先日まで一週間のヨーロッパ旅行へ出かけていた。
「約束してたのよ。離婚するならヨーロッパ一周旅行をプレゼントしろって」
私の回答に他にもっと訊きたいことがあるはずの律は何故だか全部飲み込んで、静かに口を開いた。ああ、私の嫌なとこが似ちゃったな。
「ヨーロッパ好きだったっけ」
「人並みにね」
「なにそれ」
呆れた様子の律が小さくため息を吐いてから続ける。
「父さんに聞いたよ、離婚の原因」
「あの人だけのせいじゃないのよ」
あんなに律を味方に付けたがっていたくせに、私は不思議と浩二さんをかばうみたいに微笑んだ。
紅茶で唇を湿らせて、離婚の経緯を説明する。話し終える頃には律はすっかり下を向いてしまっていた。
私は努めて明るい声色を作る。
「気に入らないことがある度に、離婚の条件付け足しちゃった。実はヨーロッパ旅行以外にも色々させてもらったの。高いエステとか、ホテルのバイキングとか」
よほど私と後腐れ無く別れたいのか、浩二さんは私のわがままに全て頷いた。
駄目だって言ってくれたら、よかったのに。馬鹿みたいに言いなりになって、この二ヶ月間律儀に色んなチケットを郵送してきて、口座にも大金を振り込んできた。私は調理師のパートを辞めてそんな彼の罪滅ぼしを片っ端から消費した。
気が付くと目の前の律が恐い顔をしていた。彼女を育ててきた二十年以上の間も見たことが無いような知らない顔だった。
「そんなんじゃないでしょ? 旅行とかエステとか、そんなもので解決できるんじゃないでしょ。なんで怒らないの? 悔しくないの? 裏切りだと思わないの?」
律は吐き捨てるみたいに言ったかと思うと、用事を思い出したのだと席を立った。私からお土産を半ば奪いとるように受け取り、そしてそのまま、帰ってしまった。
私はまた一人きりになった広いリビングで、冷めた紅茶を飲み干した。柔らかな香りと共に渋みが舌の上に広がる。
裏切りだと、思うよ。
本当はヨーロッパ旅行を選んだ大きな理由があった。
結婚する前、私たちは外国の映画を好んで映画館へ観に行っていた。うっとりと美しいお城やドレスに思いを馳せる私に、浩二さんは言ったのだ。
「きっといつか、二人で色んな城を見に行こう」
私はなんて素敵な約束だろうと思った。この人といれば、幼い頃憧れた本の中のお姫様みたいになれる気がした。
誰にも言ったことが無いけれど、私の大昔の将来の夢は「お姫様」だった。おばあちゃんになったら、浩二さんに打ち明けてみたいと思っていたのだ。その頃には彼はおじいちゃんだから、きっと馬鹿だって笑ってくれると、思っていたのだ。
たった一人で眺めたヨーロッパのお城は、映画で見ていたときよりも遠く感じた。私のもとに残ったのは、ただの疲労感と虚しさだけ。
ねえお姫様、気位の高い貴方なら、こんな時どうしたの。八年もしがみついたりなんて、しなかった?
もうタイトルも忘れてしまった物語の名前もわからないお姫様に私は年甲斐もなく訊ねてみて、皺の刻まれた指輪の無い指先をそっと撫でた。
季節はあっさりと秋を通り過ぎて冬となり、私の手には浩二さんから送られてきた最後のチケットが握られていた。
新幹線ですぐの二つ横の県にあるこの温泉宿は、古い歴史を感じさせる景観をしていた。
すぐにロビーでチェックインを済ませる。一人での旅にはとっくに慣れた。
平日の真っ昼間の旅館は人もまばらで、私みたいなバツイチのおばさんにはヨーロッパなんかよりよっぽどお似合いに思えて少し笑えた。他の客も年配の人たちばかりだ。
案内をしてくれる仲居さんの後ろをついて歩く。通り抜けたロビーから見えた庭は立派で、最後まで気を抜かずに浩二さんが私の機嫌を取ってくれているような気がして嬉しくなると同時に、そんな自分が嫌にもなる。一体いつまで、未練がましいつもりだろう。
部屋は海の見える角部屋だった。十二月になったとはいえ雪はまだらしく、葉の落ちた木の向こうに暗い海が広がっていた。
「雪が降ったら綺麗なんでしょうね」
窓の外をみやって私が言うと、仲居さんは「そうですねえ」と相槌をうって、お茶をいれると早々に出て行った。私のことをどう思っただろう。旦那に逃げられて子どもも家を出て行って、ひとりぼっちで温泉になんか来ちゃった五十手前の女? お見事全くその通り。
これが映画だったら、きっと雪が降り出して私は涙の一筋だって流すだろう。
八年もかけてじわじわと別れたせいか、私は感傷に浸りきれていなかった。八年かけたって、浩二さんと浮気相手はちっとも別れたりしなかった。
期待していなかったというと嘘になる。長引かせている間に、彼らが上手くいかなくなることを。そうして浩二さんが後悔して私に謝罪したら、言ってやるのだ。
「バイバイ」
私は浴衣を持って部屋を出た。夕食までまだ随分ある。一度温泉に浸かっておこう。
辿り着いた広い露天風呂はがらんとしていて、私は端っこの岩陰にもたれると空を見上げた。太陽が灰色の雲に覆われている。目を閉じると風の音がした。
立ち上った湯気が頬をかすめる。
あの頃私は三十九歳で、浩二さんの浮気相手は二十代の若い人だった。その事にも無性に腹が立ったのをよく覚えている。だから私はあの家を、必要以上に美しく保った。念入りに掃除をして、手間暇を掛けて凝った食事を用意した。あんな若い人には出来ない芸当でしょう。こんなによく出来た妻はいないでしょう。私は言葉ではない方法で彼を責め立て続けた。
ふいに若い女性の話し声が聞こえてきて、私は瞼を持ち上げた。じゃぶじゃぶと水音がする。どうやら私から見えない位置に違う客が入ってきたようだ。
少しすると再び静かになって、私はのぼせるまえに出ようと腰を上げる。すると同時に、視界へ飛び込んできた光景に目を疑った。
若い女性二人が湯に浸かったまま口づけを交わしている。喉の奥がひゅう、と間抜けな音を出した。
上気した肌が重なりあい、湿った唇の隙間からひどく赤い舌が覗いている。夢中でお互いを貪りあう彼女たちには、周囲のことなんてこれっぽっちも頭にないようだった。永遠にも感じられる長い数呼吸のすえ、ようやくこちら側へ向いている女の子が僅かに目を見開いて、ぱっと離れた。異変に気付いたもう一人が振り返って目を丸くする。私は脳が揺れる感覚がして、慌てて露天風呂から出て行った。
しばらくしても私の身体はふわふわ熱いままで、とっくにのぼせていたことに気が付くまで時間がかかった。
中庭に面したロビーのソファへ深く座って、盛大にため息を吐く。最近の若い子は嫌だなあ。胸に浮かぶ台詞がおばさんくさくて悲しくなる。
隙間を空けた横のソファに誰かが腰掛ける気配がした。横目でちらりと見やると目が合う。
「あ」
声を上げたのは相手の方だった。ついさっき露天風呂で会った女の子の片割れだ。
彼女は湯上がりで火照った頬を更に赤くして、ばつが悪そうに視線を逸らした。
「……あの、ビール、飲めますか」
長い沈黙の後で、彼女は上目遣いに私を見た。
「飲めますけど」
訳も分からず答えると、女の子は顔を上げてどこかへ歩いていった。呆気に取られている間にまたすぐ戻ってきて、ビールの缶を私に差し出す。
「さっきはごめんなさい。せっかくの温泉なのに、気分を悪くさせてしまいましたよね」
私は思わず受けとって、首を横に振った。
彼女はほっと胸をなで下ろしまた隣のソファへ座る。その長い指先にもビールの缶があった。
女の子がビールを煽って、私もなんとなくそれに続く。冷えたビールが喉を流れて食道を下ってゆくのがよくわかる。久しぶりに飲んだビールは苦くて、でも人生で一番美味しかった。
お酒を飲まなくなったのはいつからだっけ。連れていってもらったレストランやバーで華やかなカクテルを飲んでいた頃の私は、こんなところで缶ビールを飲むなんて想像もしてなかっただろう。
「ご旅行ですか?」
おっとりとした口調で彼女は言って、細い首を傾ける。ずいぶんと綺麗な子だった。白い肌は陶器のようで、大きな目を縁取る睫毛が濃い。お姫様、みたい。
「ええ」
「いいですねえ」
じろじろと見てしまって、気恥ずかしさに私はビールの缶に目線を落とした。冷たい缶が指先を冷やしてゆく。
「……さっきのあの子は、恋人なの?」
私の不躾な質問に、彼女は小さく笑った。
「もちろんです。今は散歩に行っちゃいました」
のぼせた頭にアルコールがすぐ回る。
女の子は見た目に似合わずビールをぐびぐびと勢いよく飲み進めてゆく。私も真似をして喉に流し込んだ。ごくりと大きな音がまるで胸の内側からしているみたいに聞こえる。こんなに美味しい飲み物だったっけ。
少し離れた背後でチェックイン待ちの客が騒いでいるのが耳に届いた。
「娘がね、離婚したの」
「……娘さん、おいくつなんですか」
「あなたと同じくらい」
「そうなんですか」
彼女は悲しそうな表情を浮かべて中庭をじっと見つめた。私は勝手に離婚させてしまったまだ結婚もしていない律に心の中で謝っておく。
「その原因っていうのが、相手の浮気なんだけど」
「酷いですね」
「相手が男だったの」
「ああ」
驚いていたけれど、彼女は腑に落ちたようだった。どうして急に私がこんな話をしたのか。
私は一口、ビールで喉を鳴らす。
「彼は男が好きなのに娘と結婚したの?」
「……男も女も、どっちも好きだという人もいます。でも、」
僅かに言いよどんで、彼女は残酷なほど澄んだ声色を出す。
「たまに、世間体のために異性が好きなふりをして結婚する人もいます」
「じゃあ、本当は好きじゃ無かった?」
「わかりません」
缶の中のビールを残らず飲み干して、私は笑った。
浩二さんとも、こんな風に話してみればよかった。喉を鳴らしてビールを飲んで、馬鹿みたいに笑ってみればよかった。ひとりぼっちでお姫様ごっこなんてしてないで。
「ごめんなさい、こんな話して。本当は娘の話じゃないの。私のこと」
彼女は目をぱちぱちさせながら私を見た。
「……もう一本、飲みますか?」
私は首を振った。元からお酒には強くない。一本のビールがやっとだ。
恥も掻き捨てという気分で、私はガラス越しに空を見上げた。やっぱり雪は降り出しそうも無い。
「最後にもうひとつだけ、聞いていい?」
「どうぞ?」
「あなただったら、どうした? 浮気されたら」
女の子は腕を組んで長い間考え込んだ。やがて形の良い厚めの唇が弧を描いて、私は心臓が跳ね上がる。
「私だったら、泣いて縋り付きます。絶対、奪い返します」
「別れてくれ」
まるで私の方が振られるみたいに浩二さんが切り出したあの日、彼の横には見覚えのある男性が座っていた。ほの暗い照明に照らされた店内にはオルゴールの曲がかかっていて、まあ間違いなく、私の方が振られたのだけど。
喫茶店へ呼び出された時には、私は何を言われるのか薄々予想がついていた。以前から浩二さんの様子があからさまに可笑しかったから。だけどまさか、相手が男性だとは夢にも思わなかった。
男性の名前は藤基くんといった。浩二さんが経営する法律事務所の事務員だ。何度も会ったことがある。藤基くんは大学生の頃から事務員のアルバイトをしていて、浩二さんが独立する時に引き抜いたのだ。私は無邪気に「藤基くんなら安心ね」と笑った。本当に、馬鹿だった。
藤基くんは眼鏡を掛けた地味な風貌で、私が「彼女はいないの?」と訊ねるといつも「モテないもので」と頭を掻いていた。
女の子にモテなくても、私のたった一人の夫は落とせたみたいね。
私は思わず睨み付けて、浩二さんはそれをかばうみたいに口を開いた。それがとにかく癪に障った。
「浮気して、本当にすまないと思ってる。精一杯の償いはするつもりだ」
「浮気って、そう思ってるの? 藤基くんの方を選ぶなら、そっちが本気なんでしょ? じゃあ私の方が、浮気になるんじゃない?」
自嘲的に笑うと二人は揃って下を向いた。浮気されたのは私の方なのに、私が振られる側になるのはどうしても納得がいかなかった。
「申し訳ない」
やがて浩二さんの口からは謝罪の言葉しか出てこなくなった。最低だ。私が悪者みたいじゃない。
重たい沈黙の末に、ずっと黙っていた藤基くんが意を決したように面を上げた。
「すみません。僕が好きになったんです。どうしても、この人がよかった」
「……ずるい」
私の心はぐるぐると汚い感情ばかりが渦巻いていて、美しい言葉で自分たちを飾りたてる藤基くんが憎らしかった。
夫婦って、大変で、嫌なことばかりで、もっともっともっと難しいものなのに。結婚するって、家庭を持つって、そんな好きとか嫌いとか、そんなものじゃ。
頑張って頑張って頑張って、手に入れたはずだったものは、こんなに簡単に無くなってしまうものなんだ。
私たち、十年以上も夫婦だったけれど、愛していたのは私だけだったの? 訊ねてやりたいのに、唇が固まって動かなかった。
温泉旅行から一週間がたって、私は引っ越し先を決めた。離婚から三ヶ月。私にはたっぷり時間があったのに、引っ越しを決めるまでこんなにもかかってしまった。
ゴミ袋と段ボールをいくつも用意して、溢れ返してしまったリビングを片付ける。つい最近買ったばかりのものも沢山あるけれど、おかまいなしにどんどんゴミ袋へ。
手伝いをしにきてくれた律は、段ボールを手に部屋をぼんやりと眺めている。
私はそんな彼女に努めて明るく声をかけた。
「引っ越し先の近所で新しい仕事が始まるから、早く引っ越しちゃわなきゃと思って」
「何の仕事?」
「料理教室のアシスタント。知り合いが独立するから手伝う話が結構前から出てたの」
離婚したからには、一人で生きていかなくちゃならない。私は以前から仕事を探していて、ようやく始める踏ん切りが付いた。違う町で、新しい職場で、どうにか生きていきたいと思えた。
「引っ越し先、どんなところなの?」
「普通のマンション。律の所からも遠くないし、遊びに来てね」
「うん」
律は首肯すると、段ボールを持ったままで立ち上がった。彼女はずいぶん大人になった。もう結婚だってする年齢だろう。どうか幸せになってと切に願った。結婚してもしなくてもいいから、どうかこの人生を悪く思わないで。
どうやら自分の部屋を片付けにいくらしく、律は二階へ向かった。彼女が階段を踏み鳴らす音がやけに懐かしい。不思議と、足音だけで誰が階段をのぼっているかわかったものだ。
私は彼女がゴミ袋を忘れていることに気が付き後を追った。
二階へ着くと律は廊下に佇んでいた。視線の先にあるのは、浩二さんの部屋だった場所だ。
律はこの部屋を気に入っていた。本棚の取りそろえが面白いのだと言って、コーヒーを片手に写真集や古い本を開いていたらしい。
「ねえ律」
声をかけると、律は飛び上がって驚いた。そんなに驚かれると思わなくて私の方がびっくりしてしまう。
「はい、ゴミ袋。ちゃんと分別してね」
私は未だ動揺したままの律が持つ段ボールの中にゴミ袋をねじ込んだ。それから首を回して、開いているドアの隙間を覗く。カーテンすらも見事に取り払われた室内には、律が好きだった空間は残されていない。
「やっぱり、嫌だよね。両親が離婚するなんて」
空っぽの部屋をじっと見つめる。すると律は大人らしく気遣って笑みを作った。
「もう私もいい歳だし、平気」
私は彼女の方を見ることが出来なかった。
「ごめんね」
「お母さんが謝ることじゃないよ」
「でも、母さんのせいだから」
律が身じろぎをして訝しがる気配がした。
「どういうこと?」
「私の下らないプライドのせいで律に辛い思いさせちゃった」
「なに、プライドって」
「父さんが別れ話を切り出したとき、理性的なふりをして律のためだなんて言って先延ばしにしたけど、本当にするべき事はたぶんそんなことじゃなかったんだって、やっと気付いたの。泣いて縋れば、あの人の心だって戻ってきたかもしれないのに。強がって聞き分けが良いふりをしたら、取り返しが付かなくなっちゃった。家事を頑張ったのだって、今思えばただの当てつけ」
努力の方向性が間違っていたのよねえ。私が喉の奥で笑うと、律は唇を噛んだ。
どうして出来なかったんだろう。別れたくないって、渡したくないって。私にしか守れないものだったのに。
律が帰って、家は一段と静かになった。選別をしている内に想定外に少なくなった段ボールの中で私はコーヒーを入れる。ミルクを溢してスプーンでかき混ぜると、黒色が焦げ茶色になった。本当に必要なものなんて、ほんの少ししかなかったのだ。
とうとう明日、この家とお別れをする。私は浩二さんが好きだったメーカーのコーヒーに舌鼓を打って、やっぱり美味しいなあと思った。
携帯電話をタップして電話帳を開く。彼は今頃、藤基くんと二人でいるのだろうか。
冷たくなる指先をコーヒーの熱で温める。ごくりと唾を飲んで、大きく深呼吸。目を閉じると苦い香りが脳を支配する。
か行を開く。か、き、く、け、こ。下までいくと、その名前がある。人差し指の先で触れるとコール音が鳴って、恐る恐る携帯電話を耳に当てる。
五回目のコールで、彼は出た。
「もしもし?」
三ヶ月ぶりに聞く彼の肉声は、掠れていて年齢を感じさせた。老けたなあ。貴方も私も。
「一つだけ、聞き忘れてたことがあるの」
声が震える。鼓動が五月蠅くて、自分の言葉がよくわからない。けれど彼の緊張した息づかいは、よく聞こえてくる。
「浩二さんは、男しか愛せないの?」
二呼吸ほどの沈黙が、あまりに長くて胸が張り裂けそうだった。
「そんなこと、ないよ」
私は携帯電話を下ろして、ほんの少し笑った。
目の前が滲む。熱くなった目の奥から、次々と涙が溢れてくる。私がこの八年間、聞きたかったのはこんなに簡単な台詞だったのだと、やっとわかった。
私より好きな人が出来たって、それまでの私たちの関係は嘘じゃなかったって、信じてもいいの? 私は女として愛されていたって、そう思ってもいい? 一瞬でも、私をお姫様みたいに思ったって、信じても、いい?
嗚咽が上がってきて、上手く呼吸が出来ない。思えばこの八年間一度だってこんな風に泣いたりしなかった。
私はどうにか腕を持ち上げて、また携帯電話を耳に当てる。もしもし? 大丈夫? 心配そうな声が聞こえる。
ねえ今から言う四文字は、私からのありったけの愛情だから、よく聞いて。
「バイバイ」
彼が何かを言う前に電話を切る。私は目元を拭って、ぬるくなったコーヒーを口に運ぶ。
明日からは忙しくなるから、カフェインはこれくらいにしておこう。
ばいばい。みんなみんな、忘れてあげる。
ふと見やった窓の外で、粉雪が降っていた。