小さな魔女と都市伝説の遭遇
暑い日が続く夏ではあるが、夜にもなれば多少は涼しくもなる。
だが、だからと言って小学生くらいに見える女の子が一人で出歩くには、誰がどう考えても遅い時刻である。
そう、少女は確かに一人であるはずだが、「……流石にもう帰りませんか、ご主人様?」と女性の声が語りかけてくるのに驚きもせず、足を止めて声の主を見下ろした。
「う~~ん? そーだね、アイン」
少女がアインと呼んだのは、街灯の光がなければ夜の闇に溶け込んでしまいそうな黒い猫であった。 その猫がルビーめいた紅い瞳で見上げる女の子は、エターナという名の魔女でありアインの主人でもある。
エターナが気まぐれでこの町に遊びに来たのが夕方より少し前、その後はずっと気の向くままにふらふらとしていたのである。
エターナが妹や師匠らと暮らす家があるのは人間の世界とは違う幻想界という世界だ、そのため人間世界から幻想界へと転移する魔法を使おうとして、「……ん?」とやめたのは、前方から近づいて来る人影に気が付いたからだった。
エターナ達幻想界の住人は普通の人間には視えないので気にする事はないはずなのだが、この時は何か奇妙な気配を感じ取った。 それはアインも同様だったらそく、険しい顔でその人物を見据えていた。
年齢は二十歳くらいであろうか、袖のない赤いワンピース姿の長い黒髪の女性である。 この時期に風邪でもひいているのか白いマスクを着けているのがやや奇妙ではある。
「あなた……誰?」
エターナの問いに答えず近づてくる女性は、しかし彼女の一メートル程手前で停止した。 この距離になってはっきり見える女性の目は、不気味に笑っているようである。
「ねえ、お嬢ちゃん……私、キレイ?」
唐突にそんな事を言ってきたのにキョトンとなったエターナだったが、それでも目の前の女性を改めて見てみる。 マスクのせいで顔はよく分からないがきちんと手入れされていそうな黒髪も、すらっとした細身の体系も美人の範疇だとエターナには思えた。
だから、「うん、キレイだと思うよ?」と素直に答えたてから、「……じゃなくてっ!!」と声を上げた。
「あんたは誰だって聞いてんのっ!!」
しかし、女性はそれにも答える事なく「そう……」と呟くと、「キヒヒヒヒヒヒ!」と実際不気味な声で哂い出したのには、エターナも寒気を感じてぞっとなった。
いよいよ危険と判断し人間形態へとアインが変わろうとするよりも、女性がマスクを外す方が早く、その下から現れたものにぎょっとなった。 続けて「これでも?」と言葉を発したその口は、耳くらいまで裂けていたのである。
「……あ……!!」
しばし唖然となっていたアインが我に返ったのは、主人である少女の「あー!」という納得したような声だった。
更に「そうかー!」と自分に向かって指を指すのが予想外で「な……何?」と僅かにたじろぐ女性。
「あんた、あれね! 口裂けババアっていうんでしょ!?」
少し興奮した様子でエターナ叫ぶには、お化けと遭遇した恐怖ではなく、珍しい動物でも発見した時のそれであったのは、女性にはあまりも想定外すぎて呆然となってしまう。
「……って! 誰がババアや~~~~~~!!!!!」
ただでさえ大きな口を全開にしてツッコミをするには、流石にかなりの迫力であったが、「あり? 違った?」と首を傾げるエターナはまったく怯えていない。
いつも通りと言えばいつも通りな小さな魔女の様子に、アインは脱力したように溜息を吐いた。 おそらくは、口裂け女と砂かけババアあたりを一緒くたにしているのであろうと分かる。
しかし、「お、おのれ~~!」と口裂け女がどこからか出刃包丁出したのに再び緊張が戻った。
「出刃包丁!? もしかしてナマハゲだったっ!?」
「それも違う~~~~~!!!!」
見当違いの事で驚いている少女に怒りすら込めて叫ぶと、大きく街灯の光を反射させる包丁を大きく振り上げる。 口裂け女のメンツにかけてこの訳分らない少女をただで返すわけにはいかない。
……と、思った直後に、「ご主人様!」と叫んだ黒猫が闇に包まれた後にメイドさんめいた服装の女性になったのに驚き、「え? ば、化け猫?」と思わず手を止めてしまう。
「……何だか知らないけど……」
「……え?」
いつの間にか、今度は女の子が大きなピコハンを構えていたのに目を見開く口裂け女は、自分が間違いを犯した事にようやく気が付いた。 この少女は人間ではなくれっきとしたこっち側の存在だったという事に、更に喧嘩してもおそらく勝てそうもないだろうともだ。
「ちょ! ちょっと待って……!!?」
慌てて降参しようとした時には、エターナル・ピコハンを振り上げたエターナはアスファルトの道路を蹴って跳躍していた。
「正当防衛のエターナ・インパクト~~~~!!!!」
掛け声と共に振り下ろされたエターナル・ピコハンは、愕然となった口裂け女の頭部にヒットしピコハンの名の通りに可愛らしい音を響かせ、同時に実際本物のハンマーで殴られたかのような衝撃を与えた。
「あばがぁぁあああああああっっっ!!!!?」
この世の者が発するとも思えぬ口裂け女の悲鳴が響くのと、エターナ着地した後に危く転びそうになるのはほぼ同時だった。
そして夜の闇の中に静寂が戻った時には、白目をむいて気絶する口裂け女と、彼女に向かって「いい! せいとーぼーえーだからね!」と言うエターナ、それに呆れた顔で「……過剰防衛では?」と小さく呟くアインの姿があった。
幻想界の夜が明けるのは、日本時間のそれとほぼ同じである。
そして、電気とは違うエネルギー源とはいえ幻想界にも人間界にあるような機器も多数存在し、その生活風景も似ていた。 幻想界は”異界”であっても、人の生きる世界とはまったく異なる”異世界”ではないのだ。
「もう! お姉ちゃんは……そういう時は素直に逃るかアインさんに任せようよ……」
外見的にはエターナよりも年上な妹のリムが、バターの塗られたトーストを口に運ぼうとしていた手を止めて怒ったような声を出すのは、朝食の席で昨夜の顛末を姉から聞かされたからである。
「え~~? あたしがぶっとばした方が早いじゃん?」
「早いとかじゃなくて! 私はお姉ちゃんが心配なの!」
エターナは決して喧嘩は弱いわけではないが、妹としてはやはり心配になってしまう。 鍛練も一応してはいるがパワーによる単純な一撃必殺(殺さないが)一辺倒で戦闘技術に関してはてんでなのである。
その姉妹のやり取りをどこか微笑まし気に眺めていた、師匠である魔女のトキハは、白いティーカップの中の琥珀色の液体を一口啜ると、「喧嘩してないで朝ご飯を食べてしまいなさい」と注意した。
「は~い……」
「すいません、お師匠様……」
二人が素直に従うのは、自分が悪いと思えば素直に反省出来る子達だからとトキハは分かっている。
自身の使い魔であるユリナが用意したトーストと卵焼きを弟子達が全部食べ終わるのを待ってから、「それにしても、口裂け女とはねぇ……」と話しかける。
「うん、本当に口が大きく裂けてたよ?」
「その口裂け女って怖いんですか、お師匠様?」
「人間から見れば十分怖いわね、下手をすれば殺されてしまうわ」
トキハの回答にリムはギョッとした後で、「ほら、危ないじゃない」とでも言いたげに姉を見やる。
「でも、まあ……あなた達なら心配ないわ、彼女達は”都市伝説の具現化”なのだから」
エターナとリムが「としでんせつの……?」「具現化……ですか?」と揃ってした不思議そうな顔は、やはりそっくりであると思うトキハだ。
「そう、具現化よ」
最初はただの見間違いや根拠のない噂だったのだろう、しかし人間達の恐怖や好奇心という感情のエネルギーがやがて形となり、具現化するような事も稀にあるのだと説明する。
「人間の感情のエネルギーですか……」
「そうよ、リム。 都市伝説クラスはそれこそ一国の住民がみんなして気にするものだもの、そのエネルギーは相当なものよ。 とはいっても私達魔女と戦えるほどの力はないけどね」
「すごい魔法だよねぇ……」
エターナが思わずという風に魔法という言葉を使ったのに、確かにそうと言ってもいいかに知れないわねと思えた。
「だから、確かに彼らは人間を襲うのだけど……決して邪悪な存在ではないの、そういう風に創り出したのは他でもない人間なのだから」
「それって……襲われても人間の自業自得って事ですか……?」
リムが複雑そうな表情になるのに、優しく微笑んで返してみせるトキハだが、本心は自業自得な部分があるのは間違いないとは思っている。
「そこまでは言わないわよ、だからってヒトを殺していい事にはならないわ。 ただ、彼らにも彼らなりの事情があるのは分かってあげてね」
それでもあえてこう言うのは、自業自得だから殺してもいいという考えを肯定してほしくないからだ。 魔女としては多少異質であろとも、この姉妹には”人間としての真っ直ぐな心”を持って成長してほしいと願っている。
「じゃあ……どうすればいいの?」
今回みたく自分が襲われたなら、ぶっとばしても問題はないだろう。 だがもしも彼らが人間を襲う場面に遭遇したらどうすればいいのかという事だ。
エターナは正義の味方は気取らないが、悪い事をするのは嫌なのだ。
「やり過ぎない程度で助けてあげるのはいい事なのよ、エターナ。 さっきも言ったけどヒトを殺していい事はないのだから」
エターナが「うん!」と頷くと今度はリムの顔を見る、彼女も自分の言葉に安堵したような表情を浮かべていた。
雲が月を隠している夜空の下、一匹の動物が歩いている。
シルエットから推測すると犬であろうそれが、暗闇から街灯の光の下に入った時に現れたその胴体は確かに犬ではあった。 だが、その頭部は犬のそれではなくおぞましい中年男性のそれであった。
人面犬――彼もまた”都市伝説の具現化”であった、
その彼はヒトの気配を感じ取り「む?」と唸る。 ヒトに危害を加えるまではしないが、存在を見せつけて驚かすというのが、”人面犬”としての在り様だ。
獲物へ向けて駆けだそうとした直後、不意に雲から出た月の明かりが照らす。
人間ならともかく、ヒトの姿を見るにはその程度でも彼には十分な光源だった。
どうやら女の子らしいと思った直後に、彼女もこちらに気が付いたらしくその蒼い瞳で見つめてきた。
「……ん?」
月明りに照らされた銀髪が僅かに輝くのにふと思い付く、確か口裂け女がそんな女の子にボコボコにされたと言っていたのだ。 半ば無意識視線を巡らし、少女の頭の上に紅い瞳の黒猫が乗っているのを見つけた時には確信していた。
「あいぇぇええええっ!!? 冗談じゃねぇぇええええええっ!!!!」
妙な言い方だが、実際怪奇生物に遭遇したかのような恐怖を感じた人面犬は大慌てで反転し、実際時速百キロメートルもなろうかという猛スピードで逃げ去った。
訳が分からずポカンとなりつつそれを見送っていたエターナは、やがて「……何なの? あれ……?」と頭の上のアインに尋ねるが、彼女も「さぁ……?」と首を傾げるしか出来なかったのであった……。