1.1年め
知性化研究所への移籍の手続きを終え、あとは業者に本などを送ってもらうだけとなった。この空いた時間で、一つやっておきたいことがある。
私はあの資料を持って文化人類学を専門とするモリヤの研究室を訪ねた。彼のやっていることはとても面白い。人類の世界認識――あるいは空間と時間のモデリング――と、その形成過程だ。私がやっているDNAとは異なり、これという物的記録はない。その分、難しく、面白い。たとえば魔術だ。もちろん魔術などというものはない。だが人間はそれを体系化しようとした。なぜ? そしてどういう根拠で? モリヤは、たとえばそういうことを明らかにしようとしている。できるのかどうかすら、私には想像もつかない。
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モリヤがいる大学のキャンパスに入る時に門で一旦車を停めるが、すぐにカメラの上にあるライトが赤から緑に変わる。これまでにも何回か来ているのだから、記録があるのだろう。そのまま車をキャンパスに乗り入れた。フロントガラスには、モリヤの部屋に近い、そして空いている駐車場へのナビが表示される。
車から降りると、やはり遺伝人類学研究所はそろそろ役目を終えようとしていると感じた。この大学のキャンパスは古い。だが手入れがなされ、何より学生たちの活気がある。後から考えればどれほどくだらないものであろうと、友人同士で議論すること、それ自体が彼ら自身の知性の輝きを増していく。
そんな雰囲気に妙に高揚しながら、その反面、モリヤはこう答えるだろうという予想に怯えながら、モリヤの部屋へと足を進める。
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モリヤの部屋には、天井からモビールが吊るされている。昔の文化人類学者がやっていたことを真似ているということだ。以前、来た時よりもモビール全体はずいぶん大きくなっている。空調の風に揺らされ、次々と形が変わる。モビールの一片一片と空調が接続されたら、その系としては何かをやっていることになるのだろうか。昔の研究者が述べた疑問が頭をよぎる。
「まぁ、増えるばかりだな」
モビールに見惚れていると思ったのだろう――間違いではないが――、モリヤが軽く笑いながら話しかけてくる。
「これだけ大きくなると、壮観だな。むしろ計算機の中に入れたほうがいいんじゃないか?」
「イケダ、君ならそう言うと思ったよ。だけど、揺れるのがいいんだ。そう思っているだけかもしれないけどね。真似をしているという雰囲気もね。それに、揺れているモビールは何をしているんだろうって思わないか?」
深く教えを乞うた先生が同じなのだから、考えることは同じか。とは言ってもモリヤは私の10年ほど先輩だ。分野が少し違うこともあり、モリヤと知り合ったのは先生のちょっとしたお祝いでの、研究室のOBが集った時だった。
私は途中で買ってきた缶コーヒーを二本、ポケットから取り出し、一本をモリヤに手渡す。
「君はずっとコーヒー党だな」
そうだった。モリヤは紅茶党だった。
「それだけ、何かが気になっているということか」
モリヤは缶コーヒーの上で指をスライドし、蓋を開ける。
「あぁ、すまない。忘れていたよ。だが確かに気になっていることがある」
モリヤはデスクの方へと動き、計算機をスリープから起動する。私もスレートを起動しながら、デスクの、モリヤの横に行く。途中で椅子を掴んで。
椅子をモリヤの横に広げると、ジャケットの内ポケットからジャミング・キューブを取り出し、デスクの四隅に――獺祭状態になっているデスクの上でできるだけ四隅になるように――一枚ずつ置き、起動した。
「おい、そんなにまずいことなのか?」
モリヤが私を凝視する。
私は無言でうなずく。
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私はロックホルドとの議論の内容と結果を説明し、データをスレートの上に表示する。
「というわけだが、君の意見を聞きたい。どう思う」
モリヤが頭を掻きながら答えた。
「どうと言われてもなぁ。僕にはそっちはわからないよ。僕の専門は文化だぞ」
「だから君の意見を聞きたいんだ。DNAあるいはgene、genomeだけで種分化していると言って良いのかわからないんだ」
モリヤが腕を組み、唸る。
「そうだなぁ。なら、これを見てくれ」
モリヤは計算機からファイルを選び、ディスプレイに表示する。モビールにせよ、ディスプレイにせよ、どこかズレているところがある。意図的にやっているのは知っているが。
ディスプレイにあらわれたアウストラロピテクス属からホモ属以前からの人類史に私もモリヤも目を移す。年代と名前の横、あるいは上や下には小さく、それぞれの骨格と使われていた道具の映像が表示されている。
モリヤは表示を目で舐めると、ホモ・ハイデルベルゲンシスを指さす。
「例えば、ハイデルベルゲンシス」
そう言いながら道具の箇所をつつく。道具の表示が広がり、石器が表示される。
「彼らは石槍を発明した」
そう言いながら、モリヤは私の顔を覗きこむ。私はつられてうなずく。
モリヤは拡大された表示を元に戻すと、ホモ・サピエンスを指差す。
「例えば、サピエンス」
またサピエンスの道具の部分をつつく。
「私たち、なのかな… とりあえず私たちは骨器の縫い針を発明した」
モリヤは道具の表示の部分に指をあて、スライドさせる。片方の端に少し突起がある棒が表示される。
「それに投擲具も」
モリヤは椅子の背に身を預けで言う。
「常にというわけではないが、種分化の前後に新しい道具が現れている。分化したから発明が現われたのか、発明が現われたから分化したのか… それは分からないが」
今、彼が示したものには何か恣意的なものを感じる。
「サピエンスとネアンデルターレンシスは一時にせよ共存していたんじゃないのか? 針にせよ投擲具にせよ伝わっていなかったのか?」
知っているだろう? そう彼の目は言っている。
「伝わっていなかったようだ。あるいは、少なくとも広くは使われていなかった。おまけに縫い針は氷期の時期の物だ。毛皮を縫って服を作るにはどうしたって必要だろう。だがネアンデルターレンシスは持っていなかったようだ」
あぁ、知っている。だが、私の知識は古いかもしれない。
「それは脳機能の問題なのか?」
モリヤは再びデスクに身を乗り出すと、ネアンデルターレンシスとサピエンスの骨格をつつき、それぞれを拡大し、答える。
「おそらく君が思っているのとは違う。いや、知っているだろう? ネアンデルターレンシスはサピエンスより脳容積が大きかったんだ50mlほどね。さらにIGF1遺伝子かそれに相当するものがあって、筋肉量も多かったんだろうな」
モリヤが椅子をこちらに向け、続ける。
「サピエンスによる道具の発明を支えているのはなんだろう?」
改めて聞かれるとわからない。そもそもDNAやジーンはともかく、文化に明るいわけではないのだから。私は首を振る。
「一つは、コミュニケーションだという説がある。おそらくね、ネアンデルターレンシスはピーチクパーチクしゃべりまくるということが少なかったんだ。サピエンスが言語運用に使っている脳の部位は、もっと前の種から発達の傾向がある。ネアンデルターレンシスは声道の作りから、発音に制限があっただろうとは言われている。だが、それはネアンデルターレンシスが言語を持っていなかったことを意味するわけじゃない」
コミュニケーションと言われても今ひとつピンとこない。おそらく当たり前すぎるのだ。
「コミュニケーションが活発なら、誰かが思いついたことが伝わり、広がりやすい。その過程で改良も行なわれたことだろう」
私は黙ってうなずく。モリヤが続ける。
「そこで話が戻る。言語とコミュニケーションはネアンデルターレンシスも持っていたと思う。では、サピエンスが作った新しい道具はなんだろう? サピエンスによる道具の発明を支えている道具だ」
ホモ属の特徴はメタ道具の作成だと聞いたことはある。モリヤが私の表情を読んだように続ける。
「単なるメタ道具じゃないよ。文字や記号だ。ネアンデルターレンシスも持っていた可能性は指摘されている。だが、おそらくもっと洗練されたものだ」
「文字?」
知っているはずだと、モリヤの目がまた訴える。あぁ、知っているとも。だが、それがこの話にどう関係する?
「実はサピエンスは文字を読む脳機能は持っていないんだ。ディスレクシアという障害があるから、たまに誤解されるけどね。それはむしろ逆だ。機能の再利用や張り合わせで文字を読んでるだけだ。にも関わらず文字を発明し、使っている」
分化前後に現われる新しい発明にその機能が関係しているというのか?
「文字の発明は、新しい種に文字を扱う部位が出来たからか?」
モリヤは首を振り答える。
「いや、たぶん違うな。識字障害でありながら、おそらく君の言うサピエンスでない人もいるのだから。君が言っているサピエンスの種分化のややこしいところはそこだ。仮に種分化の前後に、サピエンスでないものが文字や記号を発明したとしよう。だが両者は交流し、文字や記号の使用も両者ともに可能だったんだ。だが、文字は明らかに新しい道具だ。文字が作られた時点で既に種分化が起きていたとしても不思議ではない」
暫く沈黙が続く。モビールは今も揺れている。
「それはいつ頃だろう?」
モリヤは表示をまたアウストラロピテクス属とホモ属の年表と、それぞれの骨格、そして使われていた道具に戻す。その系統を指で辿りながら答える。
「6,000年前に文字が現れている。そこから遡ると、30,000年ほど前かもしれない。大躍進――Great Leap Forward――と呼ばれていた時代のど真ん中かな。まぁ1万年や2万年の間での大躍進なんてものはなかったとも言われているが。だが、何かが起きたことは確かだ」
モリヤは背を椅子に戻すと、目頭を指で揉みながら続ける。
「おまけにネアンデルターレンシスの絶滅と時期が重なるかもしれないと来たものだ。これは、おそらく、君とロックホルドが考えているよりは緩やかな過程だろう。大躍進か… やっかいなことを見付けたのかもしれないぞ」
私は目をディスプレイからモリヤに戻す。
「可能性はあるわけだ」
モリヤはしばらく躊躇った後、ゆっくりとうなずく。
「おそらく可能性なんてものじゃない。種分化の過程という視点で人類史を見なおしてみると面白いかもしれない。とんでもないタイミングに私たちはいるのかもしれないからな」
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モリヤにこの件については口外しないように頼み、研究室を出る。
モリヤは緩やかな過程だろうと言ったが、それはむしろ今にいたれば、種分化が出来上がりつつあるということではないだろうか。
不安がますます大きくなる。どうするのがいいのだろうか? いや、「どうする」とはどちらの立場に立って考えているのだろう?
車を自分で運転する自信はなくなっていた。自動運転で遺伝人類学研究所へと戻る。