52年め
(*** 52年め ***)
社会システム管理者として観察記録を残しておく。
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まず、何から書いておけばいいのだろう。
7年前に、アシスタント・システムの着用が推奨された。謳い文句はこうだ。
「よりよい理性をあなたに」
それは、必ずしも間違いではないだろう。犯罪は減った。
だが、アシスタント・システムを着用した人間は、人間と呼べるのか?
たとえば、プログラミングをしているとしよう。没入していると、周囲のノイズは耳に入らない。そこまでは誰しも経験しているだろう。だが、その先がある。
ディスプレイが視野そのものになる感覚。
あるいは、指はキーボードの上で動いているが、どういうプログラムを組んているのかも意識に上らない感覚。こうなると、一旦注意を逸らせば、今、何をやっていたのかを思い出すのに少し手間がかかる。
そうなったときに、私は思う。記憶に残っていないなら、今、プログラムを作っていたのは誰なのかと。私が作っていたのだろうか? 少なくとも、作っていたという意識もなければ、もしかしたら記憶も残らない。計算機、あるいは今、作られているプログラムが、私にコードを打ち込ませているのではないか。そう思うことがある。
人間と計算機は簡単に系になる。
アシスタント・システムは常に指示を出し続ける。ユーザが興味を持ちそうなものが、すぐ先の店で売っていれば、そこにナビゲートする。ユーザは疑うこともなくそのアンビゲートに従う。店についたら、買うかどうかだ。アシスタント・システムは買うように指示する。絶対とは言えなくても、ユーザは買う。
誰が考えているのだろうか?
そこでは、アシスタント・システム、あるいはアシスタント・デバイスと人間との系が出来上がっているのではないだろうか。
このようなシステムは、昔は、人間の知的能力の拡張を実現すると言われていた。拡張していることは確かだろう。何かの状況に陥いったとき、あるいは陥いりそうなとき、アシスタント・デバイスは気付かぬ内に、資料や指示を出す。確かに拡張してはいる。だが、私にとっては、そこには不安が付き纏う。人々は、アシスタント・デバイスが示した資料や指示を疑う人は少ない。
監視者としての特権を使い、会話している人にアシスタント・デバイスが提示するものを覗きみたことがある。会話しているどちらも、提示された言葉を、そのまま口にしていあ。
「よりよい理性をあなたに」
そうなのかもしれない。だが、その「よりよい理性」はどこから来ているのか。
ある時、やはりアシスタント・デバイスが提示する内容を覗き見ながら、会話を観察していたことがある。その時、片方の人は突然、提示されている言葉とは違うことを口にした。喧嘩になったか? いや、ならなかった。もう一人が、提示されたとおりには話さなかった人のアシスタント・デバイスを手に取り――多少悶着があったが―― 、そこに提示されている内容を確認した。そしてこう言った:
「ちゃんとアシスタントの指示どおりにしないとだめだよ」
それは、その人のアシスタント・デバイスに提示されていた言葉だった。
「よりよい理性をあなたに」
確かにそれは提供されているのだろう。だが、誰にとって? そして、誰が?
アシスタント・システム、あるいはアシスタント・デバイスと人間が系になった場合、誰が/何が考えているのだろう? 主体は誰/何なのだろう?
「よりよい理性をあなたに」
それはつまりこういうことだ:
「あなた自身のものよりよい理性をあなたに」
もちろん、アシスタント・デバイスの提示する内容に従わない人もいる。アシスタント・デバイスを使わない人もいる。そのような人たちは今後どうなるのだろう?
誰かが彼らを守らないといけないように思う。誰も守っていないのなら、私が。
私に何ができるだろう? どのようにすればいいのだろう?