8年め
(** 8年め **)
モリヤが私の職場にやって来た。以前の職場では居室があったが、今の職場はオープンオフィスだ。私は上司から小さい会議室の使用許可を得る。
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私は内ポケットから10数枚のジャミング・タイル――よくあるカードの類いよりは厚い程度の――を取り出し、会議室のあちこちとテーブルの上に置き、起動する。
「こういう場所だと、こういう用心が不可欠でね」
「そうだろうね」
モリヤも言いながら、カバンからスレートを取り出し、テーブルに置く。
「まぁ基本的には既に発表してあることだが。それ以外のこともあってね」
モリヤがスレートを操作する。スレートの上に地球と月が立体投影されている。月がゆっくりと――とは言え、実際の速度よりは速いのだが――、地球の周りを回っている。
「さてと」 モリヤが切り出す。「月はなぜ存在していると思う?」
私は予想もしなかった問い掛けに、その意味がわからなかった。
「言い方が悪かったかな。まぁその可能性は置いておくとして。どこの神話にも月が出てくる。なぜだろう?」
それは当たり前だろう。
「太陽の次に目立つ天体だからじゃないのか? 暦の基準にだって使われていたし」
モリヤは楽しげに笑みを浮かべている。
「うん。それはもちろんそのとおりだ。だが、地球では月があることは当たり前だ。当たり前のことになぜ神話を作る? 当たり前なら考える必要があるだろうか? もし、考えなかったら、月は存在していると言えるのだろうか?」
私は、どういうことなのかを考える。確かに、ただあるというものに名前をつけ、何かを考えるということはあるのだろうか? たとえば、知性化の前の動物たち。彼らは月をどう呼んでいるのだろう? あるいはどう考えているのだろう? だが彼らは言葉を持っていない――あるいは持っているようには思えない。
「それは月に限らないだろ。文化にもよるだろうが、あらゆるものに神話が作られている」
モリヤはうなずくと続けた。
「そうだ。大地と空、昼と夜、そしてもちろん他の惑星。地球から見える銀河にも神話が作られている」
「そういうものが見えたからだろう?」
モリヤが笑う。テーブルの上のスレートを指さしてさらに続ける。
「では、君は、このスレートについて神話を作るか?」
「作るわけないだろ」
「なぜ?」
「なぜって、それは誰かが作っていることを知っているから」
モリヤは声にはしないが「ほお」と言いそうに口を動かした。
「では君は、具体的に誰が作っているのかを知っているのか?」
「いや、誰がというのは知らないが」
モリヤが乗り出してくる。
「なら、『神がいる』で――神でなくても、何でも構わないが――済ましておいたとしてもおかしくはないだろう」
私は少し考える。言葉があり、文字や記号を使い、そして誰かが設計し、誰かが作っている。それは「神がいる」のと、どう違うのだろうか?
「いや、具体的な誰かが設計して作っているのと、神が――それが何かは知らないが――作ったというのとはやはり違うだろう。前者には明らかに実在の誰かが関与しているんだから」
モリヤがまた笑いながら答える。
「なぁ、わざわざそう言っているんだろ? その『誰なのかはわからないけれども、実在の誰か』というのと、『神』というのと何が違うんだ? どちらも君はそれが誰か、あるいは何かを知らないのに」
確かに知らない。ただ使い方を知っていて、魔法のように使えるだけだ。そう考えると、ますます区別があやふやなものに思えてくる。
「アーサー・C・クラークの『充分に発達した科学技術は魔法と区別がつかない』ってやつか?」
うなずきながらモリヤが答えた。
「うん、まぁそれも関係しないわけじゃない」
そう言うと、モリヤがスレートを操作し、太陽系を表示する。当然比率はおかしいわけだが。その外側に天球を表示し、星座も表示される。
「さて、惑星にせよ星座にせよ、大雑把に12時間ごとに現れるわけだ」
私は頷いた。
「おまけに地球の自転も公転もある。なのに、なぜある星はその星――星座でも同じだが――だとわかるんだ?」
私はしばらく考えて答える。
「観測したからか?」
モリヤがすかさず問いかける。
「当然、観測したからだ。だが、なぜ観測するんだ?」
頭のなかから説明になりそうなものを探す。
「それは… 農耕とか」
私がいい終わらないうちにモリヤが更に問いかける。
「それは、春分や秋分、夏至や冬至を基準とした日や日数、言うなら太陽だけで充分じゃないのか?」
虚をつかれたと感じた。
「それは… そうかもしれないが」
「なら、天体についてもそれ以外のものについても、なぜ神話があるのだろう? もちろん、その答えは観測し、観察したからだ。では、なぜ観測、観察をしたのだろう?」
モリヤが何を言いたいのかがわかったかもしれない。
「彼らにはそういうこと――知ること、考えること――に対する抑えられない衝動があるんだな。それらは全て彼らによるものだというのか?」
意外にもモリヤは首を横に振った。
「全てではないだろうな。おそらく、人数が少なすぎただろう。それともう一つ。偶然なのかどうかは知らないが、『彼ら』ではないよ。君にとっては『私たち』だ」
私は驚き、思わず声が大きくなる。
「私のDNAはモデルDNAだぞ」
「もちろんそうだ。だがデザインがほどこされた上に、変異を誘発してあるだろう? いや、君のデザインそのものは、たぶん関係ないだろうが」
確かに変異を誘発してある。そうでなければデザインドのDNAは単一、あるいはほんの数種類になるからだ。
私が考えて黙っていると、モリヤが淡々と続ける。
「それにね、仮説、それもかなり危うい仮説だが、サピエンスは自律的思考を行なわない――少なくとも行なえなかった――という仮説があるんだ。訓練によって考えることを身に付ける。あるいは考えているという幻想を身につける。そして実際、と言っていいのかはわからないが、意識的な思考に使っているのは摂取したエネルギーの1%ってとこだ。脳自体は20%を使っているのに、そのうちの何%になるのかな」
いや、そんなはずが、そんなに少ないはずが…
「皆、考えて仕事をしているじゃないか」
モリヤはまた首を横に振る。そしてどこか悲しげな表情が浮かんでいるように見える。
「本当に? 仕事のやり方、規則など、外部プログラムに従っているだけじゃないのか?」
いや、そんな言い方になるとは思えない。そこまで言っていいのか躊躇う。
「それなら、『充分に発達した科学技術は魔法と区別がつかない』というのはもう遥か昔からそうなっているというのか? 科学技術だけではなく」
うなずく。ゆっくりと。一度深く息をしてからモリヤは続けた。
「そうだ。サピエンスはオートマトン――自動人形――なんだよ。多少高級だとしてもね。そして困ったことに、自分自身をオートマトンだとは思わない。思わないように教育されている。だが仮にそう思うように教育されたとしたら、それが良いことだと思うだろう」
仮にそうだとしても…
「いや、そんなことは誰も受け入れないだろう」
「そんなこと」というのは、オートマトンについてだろうか、教育についてだろうか? おそらくどっちでも同じことを指しているのだと思う。
モリヤはスレートの上の表示に目をやり、それから私の顔の横を通って後ろの壁を見る。
「受け入れるかどうかはどうでもいいことなんだ。いくつもあるユートピアをテーマにした作品を読むなり観るなりしてみなよ。サピエンスは、誰か、あるいは規則のような何かに守られたそれらの世界をディストピアだと当然言うだろう。だがサピエンスが実際に目指しているのはどこだ? それが答えだ」
私は力なく問う。
「それを支持する事柄は何かあるのか?」
モリヤは私に目を戻すと、笑いながら答える。
「宗教、ソビエト、ドイツ、ニッポン、チュウカ。簡単に思いつくな。もちろん個々人となると少しばかり考慮しなければならないことがあるが」
「君はどっちだ。彼らなのか? 私たちなのか?」
自分で「私たち」と言うのはかなりの抵抗がある。
「さぁ? どっちでもいいな。私は私の興味があることをするだけだから」
たぶん、それは彼の答えだったのだと思う。