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事実証明のフィロソフィー

作者: 七島新希

「観測者がいなければ、全ての事象は無であるのと何ら変わりない。観測者がいない事実は、それが事実であると認識されない。つまりないも同然だ」

「……観測者がいなくても、起こったことは起こったことでしょう? 何もないことと同じにはならないはずよ」

 僕の突然の言葉に、同じソファーで少し離れた位置に座っていた彼女はペラペラめくっていたファッション雑誌から顔を上げ反論した。

「起こったことは確かに起こったことだ。その事実は正確には確かに揺るぎない。けれど観測者がいなければそれを知覚できないだろう?」

「どういうこと?」

 彼女は首を傾げた。決して眉を潜めたりはせずに、純粋な好奇心からとでもいった感じに。

「例えば僕がネッシーを見たとしよう。だけど君にはそれが本当かどうか知る術はない。それに僕がそのことを話さなければ、ネッシーがいたという事実すら知らないままいないものと思い続ける。さらに言ってしまえば、もしネッシーが本当にいたとしても誰も目撃していなければそれは存在しないのと変わりない。観測者がいなければその事象はなかったものと認識すらされずに処理される」

 じっと耳を傾けてくれる彼女に僕は語る。休日、ダイニングでお互い無言のままただ一緒に、各々のことをしながらいるだけの時間。そんな中、声を掛ければ彼女は反応してくれるし、逆に彼女が何か話してくれば僕も言葉を返していた。

「確かにネッシーがいるかどうかは直接自分の目で見なければ絶対とは言えないわね。でもネッシーが本当にいるとしたらそれはいるってことでしょう? 誰も目撃していなかったとしても、それはいないことにはならないわ」

「ネッシー自身にとっては確かにそうかもしれない。けれど僕らはそのネッシーの姿を観測しなければ、ネッシーがいると判断できないだろう。本当にいたとしても目撃できなければ僕らにとってはいないも同然だ。見ていないものをいるとは認識できないんだから」

「でもネッシーが本当にいるんだとしたら、たとえ姿とかを誰かが目撃したりしなくても、何かいたような痕跡とかは残るんじゃないかしら。だからそこからいるって判断することもできると思うわ」

「その痕跡を見つけることができなかったら? 痕跡というか証拠を見つけることも観測だ。それを見たんだから。痕跡を見つけること、あるいはネッシーが痕跡を残さなかったら、ネッシーがいるとはわからないだろう。そうだったらいないのと僕らには何ら変わりない」

「……」

 彼女は黙ってしまった。僕はさらに続ける。

「もう一つ、たとえ話をしよう。僕が実は正義のヒーローで、夜な夜なこっそり誰にもバレないように悪と戦っていると仮定しよう。辛く苦しい戦いを毎夜繰り広げて世のために尽くしていて日中、仕事中に疲れ果てて居眠りしたりしてたとしたとしても、観測者がいなければ君や周囲には怠慢な奴としか映らない。僕は僕がしている戦いという苦渋を身に染みて認識しているだろうけれど、周囲はそれを観測――見ていないからそれがわからない。だから君や他の誰かが僕が悪と戦っているという事実を観測しなければ、君や僕以外の人間にはそんな事実はないのと変わりないだろう。もっと違うたとえを出してもいい。僕が誰かに対して、別に君と仮定してもいいけれど、とにかく罪悪感を覚えるようなひどいことをしてしまったとしよう。それに対してうまく謝れずに影でどれだけ懺悔していたとしても、そのことを相手が知らなければ僕は平然と素知らぬ顔をしている冷淡な人間としか思えないだろう。観測されない懺悔の事実はないものと見なされる。だから観測者がいない事実は事実としてすら認識されず、無であるのと変わりないんだ」

「……確かに観測者がいなければ、というよりもその事実を見たりして観測できなければ、その人にとってその事実はないものになってしまうかもしれないわ。最初からわからない、わからないとすら知りえないものを認識することはできないもの。ネッシーみたいに誰もその存在を観測できなければ、それは実際にいたとしてもないものとしてみなすしかないのかもしれない。でも誰か一人でも観測者や事実主体が――あなたが『ネッシーを見た。だからいるんだ』とか、ヒーローとして戦っているだとか懺悔してるんだって話してくれたら私はそれを信じるわ。たとえ見たり証拠に触れたりしなくても、私はそれを事実だって認識する。伝えてくれればそれを私は絶対に信じる。観測者が全くいない事実は確かにないのと変わりないかもしれないけれど、あなたのたとえはほとんど観測者がゼロじゃない。その観測者が何か発してくれれば、それを聞いて信じることで私もその事実を認識できるわ」

 ファッション雑誌を閉じ、彼女は僕のすぐ隣へと接近してきた。至近距離でまっすぐ僕の目を見つめながら、彼女は僕の頬へ手を伸ばし、触れた。

「私は聞くし信じるわ、あなたのこと」

「僕はただ例え話をしただけさ」

 僕は彼女から目を逸した。

「……そう。ならいいけれど」

 じっと僕の方へ視線を向けたまま彼女は言った。そして次の瞬間、僕は彼女の腕の中にいた。彼女の肩に頭がもたれかかった。

「でももし悪と戦っていたりしたら話してね。ネッシーみたいに人間に観測されずにいないものとして扱われた方がむしろいいかもしれない事象もあるけれど、観測して欲しい、された方がいい事象だってあると私は思うの。百パーセント正確にってわけにはいかないかもしれないけれど、事実を少しでも共有することはできるはずだから。認識することぐらいはできるから」

 彼女は包み込むかのように腕を回し、片方の手は僕の頭を撫でていた。僕は別に子供じゃないし、強い力ではなかったから振り切ることも逆に抱き締め返すこともできたが、なぜかそうする気にはなれなかった。彼女に寄りかかったままでいた。

「……」

 何も言葉は発せなかった。ただ彼女の腕の中にいた。彼女も何か声を掛けてくることはなかった。

 視界がなぜか滲んできたから目を閉じる。何かが頬を伝うのを僕は感じた。









END.


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