魔法の言葉
幼い頃、隣家に住む幼馴染の実凪と喧嘩をすると、弦矢は自宅の庭のすみに隠れた。このまま実凪に嫌われたらどうしよう、と不安になっていつも膝をかかえる弦矢に、五歳上の兄、道弥が魔法の言葉を教えてくれた。
好きならちゃんと謝らないとね、と兄に励まされ、胸を張って実凪のもとに戻るのが決まりごとになったのはこのときだ。今考えると堂々としすぎていると思うのだが、すごいことを教えてもらったと無敵になった気分だったのだ。
「実凪のこと好き。だからごめんなさい」
道弥に教えられたとおりに謝ると、実凪は弦矢をぎゅっと抱きしめて「僕もごめんなさい」と言ってくれた。
それから喧嘩のあとはいつでもそのやり取りをして、実凪のぬくもりにほっとしたのを覚えている。ブラウンに近いオレンジ色の瞳が優しく細められて、真似をして弦矢も微笑み返した。
喧嘩をしても、仲直りの言葉があるから実凪とずっと仲がよかった。でも小学校二年生になるくらいから、可愛い顔立ちだった実凪が恰好いい外見になっていった。弦矢は鏡を見ては平凡な自分に落ち込むばかり。そのうち引け目から距離を置きたくなり、そのままの気持ちを実凪に伝えた。
「明日からひとりで学校行く」
実凪の目を見ないで俯いて言った弦矢に、実凪はなにも答えなかった。ただ沈黙だけがある。あまりになんの反応も返ってこないので顔をあげると、今にも泣き出しそうな顔をした実凪がいた。噛み締めた唇が痛々しくて、目を逸らしたいのに動けない。弦矢が戸惑っていると、実凪がゆっくりと口を開いた。
「いつもの言って」
普段柔らかい声が震えている。
「いつもの?」
実凪が傷ついていることが視覚からも聴覚からも伝わってきて、ひどい後悔が襲ってきた。風に揺れる実凪の薄茶色の髪の動きが、心細さを起こさせる。流れるように揺れる実凪の髪の動きに呼応して弦矢の心まで揺らされ、声が震えてくる。
「『実凪のこと好き』って。『だからごめんなさい』ってして、そんなこともう言わないで」
瞳を潤ませながら乞われ、実凪はそれほどに弦矢のことを好きでいてくれているのだと知った。実凪のことを軽い存在と思っていたわけではないが、弦矢のひと言で泣きそうになるほどに大事に思ってくれていたことに、胸がぎゅっと掴まれたように痛む。同時にほわりと温かい気持ちが胸に広がった。
「ごめん、もう言わない」
弦矢が頭をさげて告げた謝罪に、実凪はようやく笑顔を見せてくれた。縋りつくのに似た動作で抱きつかれ、その勢いに圧されながらもしっかりと受け止める。弦矢の黒髪に顔をうずめた実凪は、ほっとした様子で吐息を零した。
実凪には自分がいないとだめなんだ、とそのときわかった。自分も本当は実凪が大好きだから、ずっとそばにいたい。見た目への引け目より、実凪に向ける好意のほうがずっとずっと大きい。弦矢が一緒にいれば、実凪はいつでもにこにこと笑って楽しそうにしてくれる。
実凪との関係は、ずっと変わらないと思っていた。
高校入学を翌月に控えた春休みのある日、異変は起きた。
「……?」
スマートフォンを確認して首をかしげる。実凪からのメッセージが来ない。
いつもは弦矢が返信をしなくても送ってきて、そのうえ部屋まで来て「メッセージ読んでる?」と子犬のような目をするのに、今日は一件も実凪からメッセージが来ていない。どうしたんだろう。
忙しいのかもしれないので、とりあえず今日は様子を見ることにした。結局実凪からのメッセージは来ないままで、違和感のような変な感じがする一日だった。明日には来るだろう、と思いながらベッドに入ったが、落ちつかなくて何度も寝返りを打った。
「来ない」
朝からスマートフォンとにらめっこをしているけれど、実凪からのメッセージが来ない。昨日だけではないのなら、具合が悪いとかなにかあったとかかもしれない。
急いで自室を出て隣家に向かい、インターホンを押す。反応がなく、留守だということに、ほっとしたようなますますもやもやしたような、なんとも言えない気持ちになった。実凪になにかがあって留守にしているとしたら、と考えたらさっと血の気が引いて、すぐに家へ帰って母に声をかけた。
「母さん、実凪が具合悪いとか聞いてる?」
「聞いてないけど?」
「そう」
実凪の母親と仲がいい弦矢の母がなにも聞いていないのなら大丈夫だろうか。いや、急病の可能性もあるから簡単に安心できない。
「なにかあったの?」
「うん……昨日も今日も、実凪からメッセージがなにも来ないから。隣に行っても留守だし」
心配すぎて声が震える弦矢に、母は目をまたたいて、からっと笑った。
「ほんとに実凪くん大好きね。そんなに心配なら電話してみたら?」
「あ、そっか」
メッセージにばかり頭がいっていて、電話のことを忘れていた。母にお礼を言って階段を駆けあがり、部屋で実凪の番号に電話をかけた。メッセージアプリの通話にしようか悩んだが、電話番号にかけるほうがつながるのではと思ったのだ。
コール音が鳴るばかりで出ない。ぷつっと途切れたコール音に期待をしたら、留守番電話に切り替わってしまった。本当にどうしたんだろう。
電話を切ってメッセージアプリで『なにかあった?』とだけ送った。本当はもっとあれこれ書きたかったけれど、一番聞きたいひと言だけにした。
送ったら今度はそわそわと落ちつかない。早く既読にならないかと何度も確認して、部屋の中を歩きまわる。
十何回目かに確認すると、ようやく『既読』のマークがついた。今度は返信を待って落ちつかない。またうろうろと部屋中を歩きまわったが、窓の外の景色が暗くなって空に星が光りはじめても、スマートフォンの通知音は鳴らなかった。
翌日もう一度隣家に行くと、実凪が顔を出した。ドアを開けて弦矢を見た途端、慌てた様子でドアを閉めようとする。その反応に弦矢が茫然としたのは当然だ。まるで弦矢を避ける動きで、心臓が嫌な音を立てる。
「なに?」
どこかよそよそしい声にひやりとしながら、頭の中で言葉を探す。
「えっと、メッセージ来ないからなにかあったのかなって思って」
体調が悪そうな感じもないので、逆に心配になる。なにもないのにメッセージを送ってくれないなんて、本当になにがあったのだろう。
「別になんでもないし、あんまり来ないで」
「え?」
一瞬、話している相手は本当に実凪かと疑ってしまった。実凪の口から出たとは思えない冷たい言葉に、身体が硬直する。
「実凪、本当はなにかあった……?」
「本当になにもない。弦矢は気にしなくていい」
「実凪のこと気にしないなんてできない。なにかあったなら――」
言葉を続けている途中でドアを閉められた。閉まりかけたドアから見えた実凪の表情は歪んでいた。
閉ざされたドアの前で茫然と佇む。こんなことは今までになかった。
茫然としたまま日々はすぎていく。実凪と話さないどころか、顔すら合わせない日が続き、あっという間に入学式の日になった。入学式には実凪と実凪の母親、弦矢と弦矢の母の四人で高校に向かった。また以前のように一緒に学校に通えるのか不安になっていた弦矢を待っていたのは、ひとりで登下校する毎日だった。想像どおりと言えばそのとおりだが、納得したくないし、現実を受け止めたくない。
「……」
入学式から二週間、いい加減ひとりに慣れてもいいのに、慣れられるはずがない。隣を見ては実凪がいないことにため息が出る。
実凪はいつも弦矢より先に学校に行き、弦矢よりあとに帰宅しているらしい。あんなに楽しみだった高校生活がまったく楽しく感じない。クラスメイトが声をかけてくれたり、新しい授業や環境がはじまったりしたのは嬉しいのに、気持ちが弾まないのだ。実凪がそばにいないから。
ひとりで電車の座席に座り、スクールバッグについている犬のぬいぐるみキーホルダーに触れて、静かにため息をつく。実凪と新しいノートや筆記具を揃えたときに、色違いで購入したキーホルダー。実凪は薄茶色の犬、弦矢は黒い犬をお互いに選び合った。これを選んだときは昔からの実凪だった。それがひと月も経たずにこんなことになってしまうなんて、想像もしなかった。
「俺、なにかしちゃったのかな」
実凪が嫌がることや、嫌われるようなことをしてしまったのかもしれない。考えてみてもわからないが、他に理由がわからない。でも、そうなら直接言ってくれればいいし、昔のように「『ごめんなさい』ってして」と言ってくれていいのに。今さら気を遣われているとも思えないが、優しい実凪のことだから、弦矢を傷つけるかもしれないと言葉を呑み込んでいる可能性もある。
「……はあ」
またため息が出た。ひとりは寂しい。
帰宅すると、大学に入ってからひとり暮らしをしている兄の靴が玄関にあった。遊びにきてくれたみたいだ。それよりどきりとしたのは、道弥の靴の隣に実凪のローファーが並んでいたこと。道弥のことより実凪の来訪のほうが嬉しくて、慌てて靴を脱いでリビングに向かう。
でもリビングに実凪の姿はなかった。弦矢の部屋で待ってくれているのかも、と階段を駆けあがって自室のドアを開けても、誰もいなかった。
「……?」
たしかに実凪のローファーだったから、来てはいるのだ。もしかして、と道弥の部屋に行ってみると、閉まったドアの向こうから話し声がかすかに聞こえた。
「お兄ちゃん、実凪来てるの?」
ノックをして声をかけると、話し声がぴたりと止まった。返事がないのでおそるおそるドアを開けて中を覗き見て、実凪の姿を見つける。
久々に見る実凪の姿は、少し大人びて見えた。オレンジに近いブラウンの瞳に翳りがあるように見える。実凪は手で自身の口もとを覆い、弦矢から顔を背けた。
「み、実凪、久しぶり」
「……うん」
「なに話してたの?」
弦矢から背けた顔を道弥へ向けた実凪は、唇を薄く開いてから俯いた。
「弦矢には関係ない」
「え……」
「俺は道弥くんに会いにきただけだから」
実凪に向けていた視線を兄へ向けると、兄はなんとも言えない顔をしていた。
自分には会いたくないのに道弥には会いにくる。その事実だけでも弦矢を絶望へ追いやった。実凪には自分がいないとだめだと思っていたのに、いつの間にか実凪は弦矢がいなくても大丈夫になっていた。それどころか、弦矢を拒んで関係ないと言う。
「……」
唇を噛んだ弦矢に向けられているのは、道弥からの視線のみだ。実凪は弦矢から顔を背けたまま、俯いている。
「……わかった。邪魔してごめん」
それ以外に言えることなんてない。道弥の部屋を離れ、静かに階段をおりた。
ここでこうするのは、いつぶりだろう。庭のすみで膝をかかえる。幼い頃と違い、今回は実凪と喧嘩をしたのではなく、実凪に拒絶されたから隠れている。もしかしたら、実凪はもう弦矢の姿など見たくないかもしれない。ここでかくれんぼをしたままでいたほうが、実凪は嬉しいかも――。
いろいろと考えては頭を左右に振る。実凪はそんなことを思う人ではないはずだ。そうはわかっていても、どうしても最近の様子を見ていると、嫌な想像しか頭に浮かばない。
「はあ」
ため息が止まらない。実凪はずっと弦矢と一緒にいてくれると思っていた。
「……!」
人影が弦矢の隣に腰をおろした。はっと顔をあげると、道弥だった。がっかりしたのにほっとした気もする。道弥なら解決策をしめしてくれるように思ったのだ。昔の喧嘩のあとと同じで、なにかすごいことを教えてくれるのではと期待した。
「……さっき、実凪となに話してたの?」
隣に腰をおろしたまま口を開かない道弥に、弦矢から問いかける。ちらりと視線を向けると、道弥は逡巡するように目を泳がせた。
「悩み相談、かな」
「悩み?」
「恋愛相談」
「れん、あい……」
聞き慣れない言葉に目をまたたくと、道弥は部屋でのときと同じ、なんとも言えない顔をしたあとにゆっくりと微笑んだ。
「実凪に好きな人ができたの?」
「まあ、うーん……僕が弦矢に教えられるのはそこまでだから」
「なんで?」
「気になるのはわかるよ。でも、実凪くんから無理に聞き出したりしないで、少し待ってあげて」
追及を逃れるためか、道弥は立ちあがって去っていく。残された弦矢は茫然とその背を見送る。
実凪に好きな人ができた。
膝をかかえ、心細さを胸の内で押し殺す。でも次々と湧き起こる焦りと寂しさが途切れない。
実凪が弦矢から離れていく。
昨日の衝撃が心に残ったまま朝になった。よく眠れなかった。布団の中からぼうっと天井を見あげ、止まるはずがないため息を零す。
「実凪に、好きな人ができた」
好きな人ができることはごく普通のことだし、当然だ。それなのに受け止めきれない。実凪の隣にはずっと自分がいると思っていた。脳が勝手にいろいろと思考を働かせる。
どんな子だろう。年上? 年下? 同い年? 高校の誰か?
実凪が相手に告白したとしたら、相手は頷かないはずがない。だってあんなに優しくて素敵な男だ。少し情けないところもあるけれど、そんな実凪を弦矢以外が知っていく――。
「俺が邪魔だから離れて……ううん、実凪はそんなやつじゃない」
首を横に振っても、考えているうちに自信がなくなっていく。誰かを好きになる、誰かに恋をする、そんな実凪を知らない。弦矢が唯一知らない実凪だ。
実凪にとって弦矢が『過去の幼馴染』になっていくことが怖い。実凪の隣が他の誰かの居場所になってしまう。
またため息をつきながら家を出た。少し早いけれど、部屋でじっとしていると嫌な想像ばかりが頭に浮かぶから、早くても学校に行こう。俯いたまま門扉を閉めると、隣家から実凪が出てきた。
「お、おはよう」
どきどきと緊張しながら実凪に挨拶をすると、実凪は目を泳がせたあとに「おはよう」とだけ返してくれた。
一緒に行けるのかな、と思ったけれど、実凪はさっさと歩いていってしまい、一緒に歩けない。離れた背中を見ながら、実凪には好きな人がいるんだ、と唇を噛む。それを弦矢には教えてくれず、道弥にだけ相談する。弦矢では全然力になれないが、拒絶されるのもつらい。
実凪の背を見つめていたら、ずっと知っている幼馴染の実凪が、まったく知らない男の人に見えてきた。不安が胸の内で暴れ、どうしようもなく落ちつかなくて走り出す。息を切らせて実凪を追い越し、もやもやを吹っ切りたくて駅まで走った。
実凪が怖い。
幼い頃と同じと思っていた実凪が変わってしまった。
たしかに実凪がわからなくてもやもやしていたのに、そんな気持ちはどこかへ行ってしまった。ただただ怖い。近づきたくない。弦矢が知らない男の人になってしまった実凪が怖い。
実凪はいつでも弦矢のそばにいる幼馴染だと思っていた。幼馴染でもなんでも、実凪はひとりの人間で男の人なのだと今さら知った。弦矢の心だけが幼い頃のままだった。
心がずっと沈んだままだ。
もう慣れたひとりでの学校からの帰り道。足を前に出すことを繰り返し、なんとか自宅に向かう。
あの朝から二週間。実凪が知らない男の人としか思えず、怖い気持ちに変化はない。
「……」
実凪は男の人なのだ。女の人を好きになり、弦矢ではなく女の人の隣に並び、手をつないでキスをして……そんな想像が止まらない。
実凪のことはなんでも知っていると言いきれた。でも、今「本当に?」と聞かれたらなにも答えられない。実凪のことを、実はなにも知らなかったのだ。
とぼとぼとぼとぼ、俯きがちに歩いていると、ポケットのスマートフォンが振動した。確認するために足を止めて画面を見て、心臓が跳ねあがる。届いていたのは実凪からのメッセージだった。
『明日行く』
ひと言、それだけ。なんで来るのかわからないし、なんの用かも書いてない。もし完全に別離の言葉を言われたらと思うと、また違う恐怖が襲ってくる。
実凪が怖い。でも実凪が離れていくことは、もっと怖い。
スマートフォンの画面上で指が迷う。なにも入力できない。どんな言葉を返すのも怖くて、目をぎゅっとつぶってポケットにスマートフォンを戻した。返信する言葉なんてわからない。
何度も返信しようとスマートフォンを手にしたが、どう考えても返信できない。なにを答えても不正解の気がするのだ。帰宅してからもスマートフォンを手に取っては机に置き、また手に取る。眠りに落ちる間際まで、その動きを繰り返した。
結局返信できないまま翌日になった。授業の内容なんて頭に入らない。ぼんやりと実凪のことを考えては密かにため息をつく。
「……」
ずっと集中できないまま帰路についた。緊張が身体を強張らせる。自室に入って、緊張をごまかしたくて深呼吸をした。
本当に来るのか、なんで来るのか。自分はどう対応したらいいのか。
心の準備もなにもできないでいたら、階下にインターホンの音が響いた。跳びあがりそうになるのを留め、どきどきと脈の速い胸に手を置く。母がドアを開けたようで、話し声が小さく聞こえてくる。聞き間違えるはずがない。実凪の声だ。本当に来た。
逃げたいけれど逃げられる場所なんてない。階段をあがる足音と一緒に心臓が跳ねる。緊張しすぎて指先が震え、椅子に座ったり立ったりと不可思議な行動を繰り返した。
軽いノックの音がして、ぱっと顔をあげる。ドアの向こうに実凪がいる。
「弦矢、入るよ」
「……」
返事ができない。声が喉の奥で引っかかって、なにも答えられない。
ドアがゆっくりと開き、現れた実凪の姿に息を呑む。
しっかりと実凪の姿を見るのはこんなに緊張しただろうか。目が合って動けなくなる。どうしたの、なにか用? 聞きたい言葉があるのに、唇も動かない。
「弦矢」
どこか硬い声が弦矢を呼ぶ。弦矢だけではなく実凪の表情も強張っていて、ますます身体が動かなくなる。
しばし沈黙し、ただ見つめ合う。どうしたらいいかわからないのに、視線を逸らせない。実凪のブラウンの瞳が一瞬揺れたように見えた。
「弦矢、これ」
無声が破られ、実凪が手にしていた紙袋から綺麗にラッピングされた袋を弦矢へ差し出した。
勝手に震える手で受け取り、袋をじっと見る。ブルーのリボンがかかったホログラム加工の袋には、以前実凪と弦矢が色違いで買ったキーホルダーと同じ犬のぬいぐるみが入っていた。横並びで袋に入っている薄茶色の犬と黒い犬のぬいぐるみの手がくっついている。
「……手つないでる」
他に聞きたいことはあったはずなのに、口から出たのはそれだけだった。ぬいぐるみから実凪へ目を戻すと、実凪は少し口もとを綻ばせた。
あ……。
とくん、と心臓が甘く鳴る。不思議なほど優しい鼓動にくすぐられ、頬が熱くなってくる。
「手にマグネットがついてて、手をつなげるんだよ」
実凪の声は若干の強張りがあっても穏やかだった。いつも隣で聞いていた声だ。
「へえ、そうなんだ」
もう一度ぬいぐるみへ視線を落とす。手をつないだぬいぐるみたちに、一瞬幼い頃の実凪と自分が重なった。
緊張していたし怖かったのに、自然と心がほぐれていく。実凪の声を聞くだけで優しい気持ちになる。もしかしたらまた以前のように仲良くできるかも、とまで思えてきた。
「これ、くれるの?」
「うん。弦矢にあげるために選んだんだ」
実凪がようやくきちんと微笑んでくれる。実凪の笑顔を見たのはいつぶりだろう。胸がどきどきしてくる。
知らない男の人になってしまった実凪が、また弦矢に微笑んでくれている。その事実だけでも嬉しいのに、実凪からプレゼントをもらえた。これまでのもやもやや不安、燻った心や怖さもなにもかも、ほどけていく。
でもはっと気がついて、ラッピングされた袋を持つ指先に力を込める。もしかしたら実凪は別離の挨拶に来たのかもしれない。
「弦矢」
「……っ」
また硬い声で呼ばれ、背筋が伸びる。逃げたい。
おもむろに手を伸ばした実凪は、贈りものを持つ弦矢の手に静かに触れた。
「弦矢が好き」
「……え?」
「俺、弦矢が好きなんだ」
好き。
言葉を頭の中で繰り返し、小さく首をかしげる。弦矢の混乱を読み取ったのだろう、実凪は弦矢の手をぎゅっと握った。
「幼馴染としてじゃなくて、恋愛対象として弦矢が好き。俺とつき合ってください」
「つき、あう……? 俺と?」
実凪はこくんと頷き、弦矢をまっすぐに見た。
好きな人ができたのではなかったのか。実凪はその人と一緒にいるようになって、弦矢から離れていくのでは……。
「じゃ、俺帰るね」
混乱したままの弦矢を置いて実凪が逃げるように背を向けるので、慌てて腕を掴む。弦矢が触れると、実凪はびくんとおおげさに肩を跳ねさせた。振り向いた顔は紅潮していて、弦矢にまで頬の熱さが伝染する。
赤い頬と対照的に実凪の表情は強張っていて、なにかを怖がっている様子に見える。そんなことさえわかるくらいに、実凪とずっと一緒にいた。でも今はわかるからと思う前にきちんと実凪の心の内を聞くべきだ。
「ちゃんと説明して。ずっと様子がおかしかったし、俺のこと避けてただろ」
「……」
迷いの浮かぶ瞳で弦矢を見た実凪は、唇をぎゅっと引き結んだ。ゆっくりと開いた唇をもう一度結び、それから実凪は声を発した。
「弦矢と一緒にいるのが当たり前で、これから先もずっとそうだと思ってたんだ。大事な幼馴染と思ってた」
「うん」
それは弦矢も同じだ。実凪は大事な幼馴染で親友で、言葉では表現できないほどにかけがえのない存在だ。
「でも、春休みに弦矢が新しい制服を着てるところ見て、異常なくらいどきどきしたんだ」
「どきどき?」
頷いた実凪は、自身の胸へ手を当てる。
「すごく、おかしくなりそうなくらいにどきどきした」
今も同じでどきどきしているのか、見た目からはわからない。ただ、実凪の頬には朱色がのっている。ほのかな色気さえ感じて、弦矢まで脈が速くなる。
「それから弦矢のどんな表情も可愛く見えて……俺は夢で弦矢を抱きしめてたんだ」
「え……」
「ごめん」
「いや、別に謝らなくてもいいけど」
幼い頃に実凪に抱きしめられたことは何度もある。でもきっと実凪が夢でしたのは、幼い頃とは違う意味を持っていたのだと表情からわかる。
「弦矢を汚したみたいで怖くなったから、距離を置いたんだ」
ひとつ大きく息を吐き出した実凪は、赤くなった自身の頬を手の甲でこすった。
実凪はすごく勇気を出して話してくれている。内容への驚きよりも感動が胸に押し寄せる。実凪がきちんと向き合ってくれていること、弦矢を瞳に映してくれていることがとても嬉しい。
「でも距離を置けば置くほど苦しくなって、弦矢のことしか考えられない。どんなに遠くにいても弦矢のことはすぐ見つけられるくらい、弦矢しか見えない」
言葉を切った実凪は、苦しげに眉を寄せた。思わず手を伸ばして実凪の髪に触れる。ぴくんと身体を強張らせた実凪は、それでも心地よさそうに目を細めた。髪に触れる弦矢の手を両手で包み込んだ実凪が、自身の頬へ当てる。
「ごめん。もう幼馴染じゃいられない。俺、弦矢がすごくすごく好きなんだ」
手のひらへ頬ずりされ、どくんと脈が速くなる。実凪が弦矢にどきどきしたときと今の自分の鼓動と、どちらが激しいだろう。ひどく恥ずかしくて目を逸らすと、実凪が弦矢の手を放した。嫌がったのだと思われたかとひやりとして、今度は弦矢が自ら実凪の頬に触れる。
「俺も実凪が好きだよ。だからひとりで苦しまないで」
「弦矢のそういう優しいところや素直なところ、すごく可愛い。でも俺は、誰にも言えないようなことを弦矢にしたいって考えちゃうんだよ」
「……っ」
それがなにをしめすのかは、実凪の瞳を見ればわかった。それを知っても実凪を拒絶する気持ちなんて、ひとかけらも心に起こらなかった。
「避けられてつらかったし、実凪に嫌われたんだと思った」
「弦矢を嫌いになんてならない。ずっとずっと弦矢だけが好き。振られてもずっと弦矢だけ好き」
泣き出しそうな実凪の表情に苦笑する。そう、実凪は弦矢のことになるとこういう顔をするのだ。昔から変わらない。
「振ってないだろ」
「でも今から振るんでしょ?」
小さく首をかしげて問われ、もどかしさが爆発して、言葉より手っ取り早いと実凪に抱きつく。背の高い実凪の首にぶらさがるように抱きつき、ぎゅっと腕に力を込めた。
「げ、弦矢?」
「振らない。だって俺も実凪が好きだから」
戸惑いの声が弦矢を呼び、胸がくすぐったい。実凪の胸に頬を寄せ、本当にどきどきしてる、と実凪の心音を聞く。
「お兄ちゃんが実凪から恋愛相談されたって言ってたのは、俺のこと?」
「うん。道弥くんならいい答えをくれるかと思ったんだ」
「俺たち、似てるな」
おかしくなって噴き出すと、実凪は意味がわからなそうな顔をした。弦矢も実凪のことで兄に答えを求めたことがあると、あとで教えてあげよう。
身体を離し、実凪からのプレゼントを胸に抱く。
「俺が実凪を嫌いだって言ったり振ったりしたら、実凪は泣いちゃうもんな」
冗談めかして言ったのに、実凪は真剣な顔で頷いた。変なところで真面目な男だ。
「冗談だろ、泣かないでよ」
「だって弦矢が意地悪言うから」
「ごめんって」
ふたりでふっと噴き出し、互いに姿勢を正す。
「俺も実凪とつき合いたい。よろしくお願いします」
弦矢が頭をさげるのに合わせて実凪も頭をさげた。動きが同時で頭がぶつかった。おかしくて嬉しくて落ちつかなくて、ふたりで声をあげて笑う。
知らない男の人に見えた実凪の笑顔が、よく知っているものだと思える。でもこれからはもっと近くなっていく。
実凪の部屋で中間テストの勉強中、ふとローテーブルの向かい側を見ると当然実凪がいる。昔から実凪の定位置は弦矢のそばだ。変わらない存在と変わらない距離に、なぜかもやもやとする。テスト前で気持ちが尖っているのか、実凪が恋人らしくしてくれないことになぜか不満を感じた。
実凪とつき合いはじめて二週間ほどが経つが、よそよそしかった期間を埋めるように実凪がそばにいてくれる。でもその距離感が幼馴染の頃と変わらない。
「実凪は全然恋人らしくしてくれないよな」
つい呟くと、実凪が顔をあげた。
「なんか、幼馴染のときと変わんない」
文句ではないし、それで問題があるわけでもない。ただなぜか今はそれが引っかかる。もっとそばに来てくれてもいいのに、幼馴染の距離感のままなのだ。
「弦矢だって変わらないじゃん」
「そんなことない」
「あるよ」
「ない」
言い返されてむっとなってしまい、ついまた言葉を返す。互いに「ない」、「ある」と繰り返し、話は先に進まない。それもまた弦矢の不満を増幅させた。
「もういい。俺だけが実凪を好きなんだ」
言い合っているうちにいらいらしてきて、やけになって部屋を飛び出した。実凪が弦矢をきちんと好きでいてくれていることも、実凪の気持ちが本物であることも、わかっている。だが勢いがつきすぎて収拾がつかなくなってしまった。そんな自分にもいらいらして、自宅へ走って庭のすみにしゃがみ込んだ。
「実凪の馬鹿……俺の馬鹿」
膝をかかえて拗ねていると、幼い頃に戻ったみたいだ。実凪の変わらない距離感も自分の言葉もすっきりとしなくて、大きくため息を落とす。このまま別れることになってしまったらどうしよう。不安が胸の中で渦巻き、視界がじわりと滲んでくる。
つき合いはじめたときより、もっと実凪が好きになっている。涙をこらえて唇を噛むと、人の気配を感じた。
誰かはわかる。でも顔をあげない。
「弦矢」
隣に腰をおろしたのはやはり実凪で、大きい手で頭を撫でられた。触れる手が少し震えている。冷たい指先にも疑問を覚えて、弦矢は顔をあげた。
「どうしたの?」
「なにもないよ?」
ごまかすように笑って見せる実凪が、笑顔を作っているのがわかる。もやもやが起こり、実凪から顔を背けた。
「……本当は俺のこと、そんなに好きじゃない?」
答えが怖いけれど聞いてしまった。実凪の気持ちを疑ってなんていない。でも自信がなくなってきた。
弦矢の問いに実凪は黙った。今度は答えが怖い。
「大切すぎて、どうしたらいいかわからないんだ」
「え?」
おずおずと顔をあげた弦矢に、実凪は泣き出しそうに笑う。
「まさか弦矢と恋人になれるなんて思わなかったから、まだ戸惑ってる」
一度目を伏せた実凪は、強い視線を弦矢に向けた。
「でも弦矢のことすごく好き。だからごめんなさい」
頭をさげられ、つい笑いが零れた。笑うつもりなんてなかったのに、おかしい。
「なんで笑うの?」
「だって俺たち、昔から喧嘩するといつもそれだなと思って」
おかしくて涙が出てきた。指の背で目尻を拭おうとすると、実凪の指が伸びてきて拭ってくれた。
「そうだよ。俺と弦矢の特別な仲直りの魔法」
「ふ、はは……だよな」
そんなにおかしいことでもないのに、笑いが止まらない。弦矢の笑いがうつったのか、実凪も笑い出し、ふたりで声をあげて笑う。
「しょうがないな、許してあげる」
隣の実凪の肩に頭をのせると、優しい手つきで髪を撫でてくれた。視線をあげたら目が合い、互いに引き寄せられるように顔が近づいた。
「……っ」
はっとしたのは実凪も弦矢も同時で、慌てて距離を取った。
ここは家の庭だ。しようとした行為を頭に浮かべ、頬が熱くなっていく。隣を見ると、実凪も顔を赤くしている。弦矢より真っ赤だ。
「続きは俺の部屋でしようか」
微笑まれ、羞恥を感じながらも頷いた。立ちあがった実凪が手を差し伸ばしてくれて、その手を握る。
「えっちなことしないでよ」
牽制すると、実凪は少し意地悪な笑みを浮かべた。
「するよ」
「えっ」
「弦矢が可愛いから、しちゃう」
「……」
そうだった。実凪は男の人なんだ。
緊張と恥ずかしさで顔が火照り、それでも小さく頷く。
「実凪なら、全部いいよ」
「えっ」
今度は実凪が驚きの声をあげた。
終




