ドクター・ストレンジグローブ MLB選手 ディック・スチュワート(1932-2002)
年季の入ったホエールズファンの方なら覚えておられるかもしれない。昭和40年代前半にメジャーリーグのタイトルホルダーが日本の球団でプレーすること自体が奇跡的な出来事だったので、相当な話題になったはずだ。なんといっても当時のアメリカと日本のレベルの差を考えるとメジャーでシーズン40本以上もホームランを打つなんでまさに化け物で、王や長嶋でさえその半分も打てたかどうか。
守備だけで拍手喝采を浴びる選手というと、近年なら「リトル・オー」ことオマー・ビスケル遊撃手(インディアンス他)、それ以前なら「オズの魔法使い」ことオジー・スミス遊撃手(パドレス、カージナルス)を挙げる人が多いだろう。
守備の花形である遊撃手は他にもカル・リプケン、デレク・ジーター、ノマー・ガルシアパーラといったスーパースターが目白押しだが、彼らは守備も一流ながら打撃人としての評価の方が高く、「守備の人」という印象はやや薄い。
その点、前述の二人は打者としては非力で、ファンはあくまでも彼らの華麗な球さばきを見るために球場に足を運んだといっても過言ではない。特にスミスに至っては、二割二分~三分程度の打率でさえスタメンを外れることがないどころか、年俸はチームトップクラスだった。「一試合で二本はヒットを防ぐ」といわれる妙技で客を呼べる選手だったからだ。
ところが同じく守備で観客を沸かせたディック・スチュアート一塁手の場合は大きく事情が異なる。
たかだか一塁への平凡なゴロを二つ三つさばいただけで観客席がどよめくのは、この男、「本当にメジャーリーガーか?」と勘繰りたくなるほど守備が鈍臭く、野手の中で最も運動量が少ない一塁ですら満足に務まらなかったのだ。
正一塁手で年間の失策が平均二十を超えるというのは、グラウンドコンディションが悪く、野球用具の品質も低かった戦前であれば平均値かもしれないが、戦後では相当お粗末な部類に入る。来日経験のあるドジャースの名一塁手ギル・ホッジスで平均十個前後、守備の堅実性ではオジー・スミスをも上回るビスケルは、遊撃手という激務にありながら平均十個に過ぎないことを考えれば、スチュアートのレベルの想像がつくだろう。
もっとも守備範囲が狭いがゆえに打球自体に触れる機会も少なく、一塁への送球を捕り損なったとしても、それは送球した野手の失策としてカウントされるため、数字以上に守備では足を引っ張っていた。
比較するのは失礼かもしれないが、「打撃の神様」川上哲治もゴロや送球をグラブに触れることなく後ろにそらすことが多く、記録上の失策数だけでは測れない陰のエラーが山ほどあった。おかげで何度もファインプレーを失策にされた広岡達朗はストライク送球に磨きをかけ、巨人軍史上最高の遊撃手と謳われる名手になったのである。
失策王スチュアートの場合は守備だけでも悪い意味で観客をハラハラ、ドキドキさせる要素を多分に持っていたため、守備を無難にこなしただけで観客が拍手を送るという不思議な選手だった。
それでついた綽名が「ストーン・フィンガー(石の指)」「ドクター・ストレンジグローブ(不思議なグローブ)」という。リアルタイムで彼のプレーを見た人の多くが「メジャー史上最低の一塁守備」と評価したのもうなずける。
選手生活の晩年に来日し、大洋ホエールズでプレーした時も、前評判どおりの「ストーン・フィンガー」ぶりを発揮し、大洋ファンを落胆させたものだ。
では、そんな草野球並みの選手がなぜ長年メジャーでプレー出来たのかというと、守備の酷さを補って余りある長打力を持っていたからだ。
一九五二年、C級ビリングス・ムスタングスで三割、三〇本塁打をクリアした十九歳のスチュアートは、兵役による二年間のブランクの後、復帰したばかりのムスタングスで再び三割、三〇本塁打をマークし、翌一九五六年に1Aリンカン・チーフスに昇格した。
すでにメジャー級の打力を有していながらマイナーにとどまっているのは、三振が多い荒削りなバッティングと見るに耐えない守備のせいだった。
しかし、1Aの投手ではとてもスチュアートの強打を抑えられるものではなかった。この年スチュアートは打率こそ二割九分八厘ながら、六六本塁打という凄まじいパワーを発揮し、ファンの度肝を抜いた。
三振が多いのは相変わらずで一線級の投手にはきりきり舞いしても、二線級が相手となるとピンポン玉のようにホームランをかっ飛ばすなどムラッ気も多かったため、スチュアートの実力に関してはメジャーの首脳陣も懐疑的だったが、一九五七年は1Aと2Aを行き来しながら四五本塁打、一九五八年には3A八十試合で三割一分一厘、三一本塁打と打ちまくり、シーズン途中で急遽パイレーツに引き上げられた。
メジャーの打球はマイナーとは段違いである。守備に難ありのスチュワートは六十四試合で十六個もの失策を喫してファンの罵声を浴びる一方で、打撃に関しては二割六分八厘、十六本塁打、四十八打点と大物の片鱗を見せている。
もしフル出場していれば新人で三五本塁打、一〇〇打点は堅かっただろう。もちろん従来なら新人王当確の数字だが、この年のペースであれば三振数、一塁手の失策数ともにメジャー記録を塗り替えていた可能性もあり、新人王の選考は困難を極めたに違いない。
ちなみに同年の新人王はカージナルスのオーランド・セペダ一塁手で三割一分二厘、二五本塁打、九十六打点であった。
メジャー三年目の一九六〇年には開幕から四番に座り、二割六分〇厘、二三本塁打、八十三打点の成績で貧打のチームを支え、リーグ優勝に貢献した。キャリア唯一のワールドシリーズでは本命のヤンキースを撃破して世界一を勝ち取ったが、主砲のスチュアートは十五打数三安打〇打点と牛耳られている。
初のオールスターに選出された一九六一年は、守備機会はなく代打で一打数一安打(二塁打)だったが、初の大舞台で結果を残したことで自信をつけたのか、シーズンを通して打撃は安定し、三割一厘、三五本塁打、一一七打点と本領を発揮している。
レッドソックスに移籍した一九六三年は二割六分一厘、四二本塁打、一一八打点で初のタイトルとなる打点王を獲得。塁打数もリーグトップであった。
一九六五年までが全盛期で、一九六六年に七本塁打と大スランプに陥ったのを機に自由契約となり、大洋ホエールズが獲得した。
長距離打者が桑田武一人という大洋にとって、元メジャーの四番打者の加入は大きかった。
日本初打席で阪神の新人、江夏豊からいきなり左翼席に痛烈な一発を浴びせるという鮮烈なデビューを果たすと、随所で桁外れの特大弾を放つなど打線の中心として活躍した。二割八分〇厘、三三本塁打、七九打点はメジャーの実績からするとやや物足りなさは拭えなかったものの、大洋では打撃三部門で桑田を凌ぐ成績だった。
ただし、守備は非常にお粗末で、彼の入団によって他のポジションをたらい回しされることになった一塁守備の名手、松原誠が気の毒だった。
一発はあっても穴の多いスチュワートは故障もあって二年目は二割一分二厘、十六本塁打、四十打点と冴えず、起用法をめぐる別当監督との確執もあってシーズンオフにはお払い箱となった。
幸い長距離砲を探していたエンゼルスに代打専門で雇われるが、泣かず飛ばずでシーズン途中でクビになり、最後は3Aフェニックス・ジャイアンツで選手生活を終えた。
3A七十四試合で十二本塁打、四十二打点はまずまずといったところだが、失策が二十二個というのでは話にならない。
打撃での貢献度が守備面での失態を補えなくなった時、彼の野球人生は終わったのである。
引退後は雑誌社の派遣記者として日本を訪れたこともあるが、ほどなく失職しニューヨークでルンペン同様の生活を送っていたと聞く。
グラウンドのストーンフィンガー(不器用な男)は、実社会でも不器用な生き方しかできなかった。
ひと頃は下関にフランチャイズがあった大洋ホエールズは金満球団だったが、捕鯨の衰退に伴い弱体化し、ユニフォームもださくなっていったのを覚えている。今はベイスターズと洒落たチーム名になったが、再びマルハニチロが買い戻して下関に戻ってくれば、人口減少が著しい山陽、北九州地方のカンフル剤になるのだが。




