第3話/再改造計画予算の壁
国会の議事堂内、衆議院本会議場はいつになくざわついていた。
「諸君、今回提出された『日本列島再改造計画』に関する予算案は……総額で30兆円を超えるものである」
財務大臣の長谷川が重々しい声で告げると、場内の議員たちの顔色が瞬時に変わった。30兆円――国家予算のほぼ半分に匹敵する額。政治生命を賭けるにも十分すぎる規模だった。
「30兆円……この国は本当に耐えられるのか?」
自由民主党のベテラン議員・高橋が小声で隣席の新人議員に囁く。
「高橋先生、これは国家の未来を見据えた計画です。老朽化インフラの維持費も含めれば、この投資は必須だと専門家が言っています」
新人議員はノートを指し示しながら反論する。しかし、高橋の眉間の皺は深まるばかりだった。
与党内でも意見は分かれていた。経済産業委員会の委員長・松田は、予算の大半が都市再開発や交通インフラに流れることに疑問を持っていた。
「この30兆円、いったいどこまで現実的なのか?都市再開発に5兆円、交通整備に15兆円……残りは上下水道や電力網の更新か。計算が甘すぎる」
「松田委員、私どもが提出したのは概算に過ぎません。専門家チームが緻密な試算を行った上での数字です」
国土交通大臣の佐々木が顔を強張らせて応じる。しかし、松田の目は冷静だった。
「いや、甘いどころか狂気の沙汰だ。30兆円もの予算を一度に通すなど前例がない」
議員たちの間でざわめきが広がる。与野党双方の議員がささやき合い、スマートフォンや資料を確認する。
一方、野党の議員・山口は、この計画を批判の材料にする絶好のチャンスと考えていた。
「皆さん、この計画は一見未来志向に見える。しかし、現実問題として我々の歳出を圧迫することは明白です。社会保障、教育、地方交付税……すべて削られる恐れがある」
山口は声を張り上げ、議場の注意を引く。賛同する野党議員が拍手を送る。
「山口議員、それは短絡的な見方です。我々は長期的視点で国家の資産を守ろうとしているのです」
与党筆頭の議員・森田が反論するが、その声にも不安が混じっていた。
審議は昼を過ぎても白熱したままだった。
「この予算案、私たちには理解できない部分が多すぎる」
地方選出の議員・村上が苦々しく呟く。
「分かります。しかし、モデル都市として神戸を選ぶのは妥当です。港湾、阪神間の動脈、都市再開発のポテンシャル……これを活かさない手はありません」
都市計画専門の与党議員・藤本が説明するも、議場の空気は冷たい。
「30兆円、30兆円って……庶民は理解できるのか?」
無党派の若手議員が口を挟むと、場内には小さな笑いとざわめきが起こった。
佐々木大臣はため息をつき、議場の空気を沈めようとする。
「諸君、確かに30兆円という金額は巨大です。しかし、我々が今手を打たなければ、老朽化したインフラは次の10年で致命的な事故を招きます。都市の動脈を復活させ、災害に備えるための投資です」
「口では分かる、だが実行できるのか?」
高橋議員の声が重く響く。
「財源は国債を活用します。段階的に実施すれば年度ごとの負担は分散され、経済にも影響は最小限です」
財務大臣が資料を指しながら説明する。
だが、議員たちの不安は消えない。30兆円という金額の桁が現実感を超えていた。
「…では、これを承認すれば、神戸がモデル都市として先行することになるのか?」
野党のベテラン議員が問いかける。
「その通りです。神戸を軸に都市再改造を進め、成功モデルを全国に展開します」
佐々木大臣の声には自信があったが、議場には沈黙が広がった。
「よし、では賛成反対の前に、委員会で詳細を精査しよう」
議長の宣言で審議は続行されることとなった。議員たちは一旦席を立ち、控室や資料室へと散っていく。
控室では議員たちの会話が止まらなかった。
「30兆円か……どうやって国民に納得させるつもりだ?」
「神戸をモデル都市にして成果を見せるしかない」
「だが、他の都市の議員は黙っていないぞ。分配の問題で揉めるに決まっている」
その頃、政権幹部の一室では佐々木大臣と長谷川財務大臣が会議をしていた。
「長谷川さん、この予算案、なんとか承認されるでしょうか」
「正直、厳しい。しかし、都市再改造の意義を丁寧に説明すれば、賛同者は増えます。時間との勝負です」
「神戸モデルで成功を見せる…確かに、結果さえ出せば野党も黙るかもしれません」
佐々木は地図を指し、神戸港湾や阪神間の主要施設の資料を広げる。
「ただし、地元選出議員の不満や、予算執行の透明性を確保しないと、直ちに反対運動が起きます」
財務大臣は厳しい表情で告げる。
その日の国会は結局、結論を出さずに閉会となった。しかし、議員たちの頭の中には既に数字と利害、思惑が渦巻いていた。30兆円――国家の未来を左右する予算は、政治家たちの権力戦と国民の生活を巻き込み、巨大な渦を作り始めていた。
ニュース速報の赤い文字が画面を横切る。
「政府提出の日本列島再改造計画、総額30兆円の巨額予算に国民の不安が広がっています」
アナウンサーの冷静な声に、スタジオのコメンテーターたちの表情は重い。
「30兆円ですよ。一般市民の感覚では理解不能な金額です」
政治評論家の田村が腕を組みながら語る。
「地方自治体への交付金は削られ、増税も避けられないという情報が漏れたことで、全国で抗議の声が上がっています」
画面には東京・大阪・神戸などの街頭でプラカードを掲げる市民たちの映像が映し出される。
「この計画、政府の言う長期的視点というのは理解できる。でも生活は目の前の現実でしかない」
街頭インタビューに答える中年男性の声は力強く、怒りが滲んでいた。
「子どもの教育費も、介護費も上がる。何より税金の重圧が増す」
横にいた女性が同意する。プラカードには「私たちの未来を踏みにじるな」「30兆円は無理!」と赤い文字が踊る。
神戸港の再開発予定地前でも、地元住民が声を上げていた。
「港湾の景観を壊さないでくれ!」
「交通網整備で騒音と渋滞が増えるだけじゃないか!」
住民たちはマイクを通して抗議の声を繰り返す。
「神戸市民はモデル都市にされるのが嫌だと言っています。市長も難しい立場ですね」
現場リポーターが映像を送る。
一方、地方紙の編集部では社内会議が白熱していた。
「特集は絶対に組むべきだ。国民の怒り、街頭の声を報道しなければ」
デスクの古川が声を張る。
「でも煽りすぎると政府批判として炎上する。バランスが必要だ」
若手記者が慎重に言う。
「バランスも大事だが、これだけ巨額の予算で暮らしが直撃するんだ。批判も事実だろ」
古川は資料を指さし、政府の予算案と市民アンケートのデータを見せる。
その夜、テレビ討論番組では与野党の議員が口論を繰り広げる。
「我々は未来への投資を行うのです!」
与党議員・佐々木が声を張る。
「未来?国民の生活が破綻してから言え!」
野党・山口議員は目を吊り上げる。
「神戸をモデル都市にする意味は理解できます。しかし、30兆円の負担を国民が受け入れられると思いますか?」
司会者が冷静に質問する。
「経済成長、災害耐性、インフラ更新……長期的には利益になる。理解してもらうしかない」
佐々木議員は資料を示す。
「理解させる?まるで国民は飼いならされる家畜ですか?」
山口議員の声には怒気が混じる。
討論は白熱し、スタジオの観客も手を叩いたりざわめいたりする。視聴率は瞬く間に全国ネットで上昇した。
翌日の新聞には、街頭デモの写真とともに見出しが踊る。
「30兆円の巨額予算に怒る国民」「再改造計画、反発必至」
一面を開くと、市民のインタビューや、与野党議員のコメントがびっしりと掲載されていた。
議員たちもこの報道を無視できなかった。与党幹部の会議室では、慎重派の議員が口を開く。
「神戸モデルの成功を強調する前に、国民の懸念をどう和らげるか策を立てるべきだ」
「それには、地元への説明会や広報キャンペーンが不可欠だ。反発を抑えつつ予算を通す」
別の幹部が資料を広げる。
「しかし、街頭デモは止まらない。我々が強行すれば、政治的打撃は避けられない」
若手議員が眉をひそめた。
その時、遠くから抗議の声が響く。議員たちは窓越しにデモ隊を見下ろす。プラカードには「庶民を犠牲にするな」「増税反対」「神戸市民を騙すな」と赤や黒の文字が踊る。
「…これは想像以上に大きな壁かもしれないな」
与党ベテラン議員の小声が室内に響いた。
「いや、ここで止まってはいけない。改革は痛みを伴うものだ。成果を見せれば国民も理解する」
財務担当幹部の声が力強く議室に響く。
しかし、議員たちの心中には、30兆円という数字が突きつける現実と、民意の圧力が影を落としていた。
テレビ、新聞、街頭デモ――国民の怒りと不安は日に日に高まり、政治家たちは計画の遂行に向けて、これまで以上に緻密な戦略と説得を迫られることになる。
神戸の港湾、阪神間の都市部、街頭デモ、国会の審議室……あらゆる場所が、この国家プロジェクトの成否を左右する舞台となったのだった。
神戸市中央区の喫茶店。「再改造計画」のニュースが流れるテレビの音に、店内の客たちの表情が少しずつ曇っていく。
「これ、本当に現実になるのかしら…?」
60代の女性、田中絵里子が小声で言う。横に座る夫の正則は新聞を握りしめながら眉をひそめる。
「現実だろうな。新聞にも出ていた。港の再開発、交通網の整備、30兆円って数字が現実感を通り越してる」
正則は新聞の紙面をめくりながら言う。見出しには「神戸モデル都市 巨額予算30兆円」と赤字で書かれていた。
隣の席では若いサラリーマンたちもテレビに釘付けだった。
「まじか…また増税くるのか」
「しかも神戸がモデル都市だぞ?住民説明会って本当に役に立つのか?」
「俺らがデモやっても、国会には届かないんじゃないか」
別の青年がため息をつく。
その頃、神戸港近くの住宅街では、主婦たちが集まり井戸端会議をしていた。
「港湾整備でうちの前の通りが工事されるのかしら」
「騒音と交通規制、子どもたちの通学も大変になるわよ」
「でも、再開発で雇用が増えるって話もあるんでしょ?」
「でも、30兆円も使って国民負担が増えるんでしょう?税金はどうなるのよ」
高齢の女性が眉をひそめ、若い母親がうなずく。
「神戸市はモデル都市だっていうけど、私たちが実際に暮らす生活はどうなるのかしら」
別の主婦が声を落とす。周囲も同意の空気に包まれる。
その夜、街頭では数百人規模の市民デモが行われた。
「再改造計画反対!」「庶民を犠牲にするな!」
プラカードを掲げ、笛を鳴らす市民たちの声が港湾沿いにこだまする。
中年男性がマイクを握り、群衆に呼びかける。
「我々神戸市民の声を、政府は聞くべきだ!子どもたちの未来を犠牲にするわけにはいかない!」
「そうだ!税金をこれ以上上げるな!」
別の市民が声を張り上げる。若者たちもプラカードを掲げながら拳を突き上げる。
デモの一角では、学生たちがスマートフォンでSNSライブ配信を行っていた。
「神戸市民の本当の声を全国に届ける!皆、見てくれ!」
「コメントもすぐに入るぞ。やっぱり反応が多いな」
配信している学生の興奮気味の声が、冷たい夜風にかき消される。
一方、港湾再開発予定地近くの工場街では労働者たちが休憩を取りながら議論していた。
「この計画、俺たちの仕事どうなるんだろうな」
「再開発で新しい仕事が増えるって話もあるけど、俺らのスキルじゃ足りないかもしれない」
「ま、建設とか物流で短期的には稼げるだろ。でも増税で生活は厳しくなる」
年配の作業員がふうっと息をつく。
「政治家は遠い話ばかりだ。俺たちは毎日働いて飯食ってるだけだのに」
若者がうなずく。
夜も更け、神戸港の高層マンションから街を見下ろす家族の団らんにも不安が漂っていた。
「パパ、再改造計画って私たちに関係あるの?」
小学生の娘が父親に尋ねる。
「うーん…街が変わるんだ。でもお前らの生活も変わるかもしれないな」
父親はテレビ画面のデモ映像を見つめながら答える。
「えー!怖い!」
娘がベッドに飛び乗り、母親に抱きつく。
「でも、新しい道路とか便利になるのもあるかもしれないよ」
弟がつぶやくと、母親が微笑む。しかしその目はどこか不安げだった。
市民の声、家庭の不安、街頭デモ、港湾の変化。神戸の夜は、市民たちの複雑な思いで満ちていた。
翌朝、新聞の一面にはデモの様子が大きく掲載され、タイトルには「モデル都市神戸に波紋」と赤文字が踊った。
「我々はどうなるんだ…」
高齢の住民が駅前でつぶやく。
「生活費が増えるかもしれない。税金が上がるかもしれない。けど、この街は未来のモデル都市になるんだ」
青年が遠くのビルを見上げ、空に浮かぶクレーンの先端を指差す。
それぞれの思惑、希望、不安が入り混じる神戸の街。市民たちは、未曾有の再改造計画の渦中で、自分たちの未来を手探りで見つめていた。