第20話/目に映ったもの
翌週。
神戸国際展示場での討論会からの流れを受け、全国の注目は「現場視察」に集まっていた。推進派も反対派も、メディアも市民も、神戸の街を実際に歩き、その目で判断する。そんな前例のない試みが準備されつつあった。
だがその裏側では、反対派の内部で目に見えぬひび割れが広がっていた。
美咲は、その渦中に立たされていた。
ある夜。市民会館近くのカフェで、彼女は反対派の若手メンバー数人と向かい合っていた。年配の西田らベテラン組は同席していない。テーブルの上にはコーヒーの湯気と、配られたばかりの視察日程の資料が広がっている。
「……美咲さん、正直に聞くけど」
一人が不安げに切り出す。
「この“現場視察”、私たち反対派にとって本当に得なのかな。橋やトンネルの老朽化を見せられたら、世論は一気に推進派に傾くんじゃないかって」
「でも、もし彼らの言ってることが本当なら……」
彩子が小さく反論する。
「私たちだって、危険を無視してまで“自然を守れ”とは言えない。私は……自分の子どもが通る道を、もう一度ちゃんと見てみたい」
「裏切りかよ」
別の青年が苛立ちを隠さず吐き捨てる。
「俺たちは“自然を守る”って信じてここまで来たんだ。なのに視察に乗ったら、推進派の“舞台”にされるだけだ」
美咲は拳を握りしめ、視線を落とした。
昨夜から何度も繰り返してきた問い――。
「知った上で声を上げる」ことと、「知らないまま叫ぶ」こと、その間に横たわる大きな溝。
「……私は、知りたい」
静かな声でそう告げると、仲間たちは一斉に息を呑んだ。
「誰の言葉が正しいかじゃない。現場を見て、自分の目で確かめたいの。だって、私たちが守ろうとしてるのは“市民の未来”でしょ? だったら、見ないまま決めちゃいけない」
その言葉に、彩子が力強く頷く。
一方で青年は席を立ち、吐き捨てるように言った。
「……好きにすればいい。でもな、美咲、あんたはもう“純粋な反対派”じゃなくなった。あんたの言葉は信じられない」
彼が店を出て行った後、テーブルには重苦しい沈黙が残った。
――――
数日後。
高杉総理ら政府関係者と、黒田たち反対派の代表が顔を揃え、視察の行程を詰める協議が非公開で開かれた。
老朽化した橋梁、耐震不足の学校、浸水常襲地帯。
そして反対派が強く主張する、保護対象となる森や歴史的建築群。
「隠すものは一切なし」――山崎慎司のこの言葉を条件に、両者は渋々ながらも視察の合意に至った。
報道は連日このニュースを取り上げ、街の空気は次第に緊張を帯びていった。
「神戸の未来を決める一日」――そんな見出しが新聞の一面を飾る。
その記事を、ベンチに座って読んでいた美咲の胸に、重たい鼓動が響いていた。
――私は、どこまで声を出せるんだろう。
――反対か賛成かじゃなく、“その先”を語れるだろうか。
視線の先、工事予定地の空にクレーンの影が揺れていた。
それはまるで、国全体が抱える揺らぎの象徴のように見えた。
そして、美咲は決意した。
「現場視察の場で、自分の声を出そう」と。
――――
十月の朝。神戸の空は曇りがちで、遠く六甲の稜線をかすめる雲が重たく垂れ込めていた。
午前九時、ポートライナー三宮駅前にはすでに数百人の市民と報道陣が集まり、ざわめきが空気を揺らしている。プラカードを掲げる反対派、横断幕を広げる推進派、そして好奇心に駆られた一般市民。まるで祭りのような熱気と、不穏な緊張が同居していた。
警察車両が列を組み、通行規制が敷かれている。各局のテレビカメラが三脚を立て、レポーターが実況を始めていた。
「ご覧ください。本日、神戸市内で行われる“現場視察”。これは国政史上初めての試みであり、推進派と反対派、市民団体、そして首相自らが参加します」
アナウンサーの声がスピーカーから響き、群衆の熱をさらに煽る。
その人波の中に、美咲もいた。
背中にリュックを背負い、仲間とともに立つ彼女の胸は、早鐘のように高鳴っていた。昨日の夜まで、仲間の間では「参加するべきか否か」で激しい議論が交わされ、内部は半ば分裂しかけていた。結局、参加を決めたのは半数程度。残りは「視察は推進派の舞台だ」と言い、静観を選んだ。
それでも美咲は足を止めなかった。――自分の目で見なければならない。それが、昨夜まで眠れずに繰り返した思いだった。
やがてバスの車列が到着した。警護に囲まれて降り立つのは高杉総理、田島大臣、田辺市長ら政府首脳。続いて反対派代表の黒田や藤原議員、そして市民団体の藤川悠子らが姿を現す。群衆から拍手と怒号が入り混じり、シュプレヒコールが上がった。
山崎慎司もその中にいた。作業着姿ではなくスーツに身を包み、だが靴だけは現場用のものを履いている。彼の表情は固く、しかし一点の迷いもなかった。
森田キャスターが群衆に向けてマイクを握る。
「本日の視察は、神戸市内の“現場”を推進派・反対派・市民代表が共に歩き、国民に公開される形で進められます。隠し事はなし、やらせもなし。すべては生中継されます」
その宣言に、会場がどよめく。
美咲は胸を締め付けられるように感じた。ここから先、もう後戻りはできない。
――――
一行が最初に向かったのは、三宮駅から南へ伸びる高架道路。かつて神戸港の発展を支えた大動脈だが、築五十年を超え、老朽化が指摘されている。
現場に足を踏み入れると、まず目に飛び込んできたのは、剥がれ落ちたコンクリートの断面。錆びた鉄筋がむき出しになり、まるで骨が露出したように痛々しい。足元には崩落防止用のネットが張られているが、その下には無数の小さなコンクリ片が転がっていた。
技術者がレーザーポインタで指し示す。
「こちらをご覧ください。鉄筋の腐食は深刻で、内部まで進行しています。補修を繰り返しても数年しか持たず、地震時には倒壊の危険が高い」
モニターに映し出された内部調査の画像。錆が進行し、空洞化した断面。
会場がどよめき、反対派の一部は顔をしかめる。
藤川悠子が声を張り上げた。
「確かに危険だ。でも、それは“管理の怠慢”ではありませんか? 予算をけちって定期補修を怠り、放置してきたのは国の責任でしょう。今さら“壊して作り直すしかない”なんて、あまりに身勝手です!」
その声に拍手が起こる。
一方で、山崎が静かに答えた。
「おっしゃる通りです。管理が十分でなかったのは否定できません。でも、現実に危険が目の前にある以上、私たちは次の犠牲を出さないために決断しなければならない」
群衆の中で、美咲は息を飲んでいた。昨日まで「大げさな脅しだ」と思っていた光景が、今まさに目の前にある。剥き出しの鉄筋、崩れかけた橋脚。自分が毎日通る道が、こんなに脆いのか――。
彼女の隣で、彩子が小さく呟いた。
「もし……この下を子どもが通ってたら……」
――――
次に向かったのは、神戸市西部の低地帯。過去、台風や豪雨で幾度も浸水被害を受けた地区だ。
堤防の上に立った一行の前で、防災専門家・宮本彩が説明する。
「この地区は地盤沈下が進んでおり、高潮や豪雨の際には市街地全体が水没する恐れがあります。排水ポンプも老朽化しており、十分な機能を発揮できません」
モニターに映し出されるシミュレーション映像。豪雨によって市街が一瞬で濁流に飲まれる様子がリアルに再現される。
市民の間から悲鳴が漏れた。
安藤直樹が叫ぶ。
「だからといって、自然の川を全部コンクリートで固めるんですか! 人間の都合で川を殺し、湿地を潰せば、生態系は壊滅します。人と自然の共存こそ目指すべき未来でしょう!」
その言葉に大きな拍手が広がる。
川口舞が即座に反論した。
「では、浸水で命を落とした人々はどうなるのですか? 自然と共存することは大切です。でも、命を守ることと両立させる方法を探らなければ、また同じ悲劇が繰り返される!」
群衆は賛否で二分され、怒号と拍手が入り混じる。
その中で、美咲の胸は再び揺れていた。
自然を守りたい。でも、このままでは人が死ぬ。両方を守るにはどうすれば――。
――――
午後。最後の視察地は、神戸の古い町並みが残る一角だった。明治期のレンガ造りの倉庫群、木造の商家。反対派が「絶対に壊させない」と主張する歴史的景観である。
黒田がここぞとばかりに声を張り上げる。
「ここは神戸の魂だ! これを壊してしまえば、町はただの“新しい箱”になる。私たちは文化を失ってまで、防災を口実にした開発を認めるわけにはいかない!」
市民から大きな拍手と歓声が上がる。
確かに、この景観には人を惹きつける魅力があった。古い煉瓦の赤、軒を連ねる木造の建物、路地に響く人々の生活音。美咲の胸にも「壊したくない」という思いが込み上げる。
だが山崎は静かに言った。
「私も、この町並みを壊したくはありません。だからこそ、残すための工事を提案したい。全てを壊すのではなく、補強し、保存し、未来へ受け継ぐ。壊すか守るかの二択ではなく、“残しながら守る”道を探りたいんです」
黒田が鼻で笑う。
「都合のいい言葉だ。結局は破壊が先に来る!」
その言葉に、美咲の胸に怒りが灯った。
昨夜までの迷いが、突き動かすような衝動に変わる。
「違う!」
気づけば、美咲は声を張り上げていた。マイクを持たぬ彼女の声が、群衆のざわめきを突き破る。
反対派も推進派も、一斉に振り向いた。
「私は……反対運動に加わってきた。でも、現場を見て気づいたの。壊すだけが正解じゃない、守るだけが正解でもない。命も自然も、両方をどう守るか――その答えを探すために、私たちはここにいるんじゃないの?」
沈黙が走った。
彼女の言葉は素朴で未熟かもしれない。だが、熱と真実を帯びていた。
報道カメラが一斉に美咲を映し出す。
群衆がざわめき、やがて一部から拍手が広がった。
黒田の顔は怒りに染まっていた。
一方で、山崎の表情にはわずかな安堵と希望の色が浮かんでいた。
――――
視察の終わり、夕暮れの街に沈む太陽が、瓦屋根とレンガを赤く染めていた。
その光景を前に、美咲は確信した。
――私は、もう「反対派の一人」じゃない。
――これからは、“橋渡し役”として歩くしかない。
その決意が、彼女の胸に静かに芽生えていた。
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