第19話/美咲の変化
首相官邸の会議室。高杉総理、田島和樹大臣、木下官房副長官、そして神戸市長の田辺昭夫らが揃っていた。机の上には新聞の切り抜きやSNSのスクリーンショットが散乱している。
木下:「世論は真っ二つです。作業員の声に共感する層と、“あれはプロパガンダだ”と批判する層。両方がSNSで過熱して、火に油を注ぐような状態になっています」
田島:「このままでは議会内での審議どころか、神戸市内での工事準備すらままならない……」
高杉総理:「ならば正面からやろう。討論会を開く。反対派にも声を上げる場を与える。政府も現場も、全員が顔をそろえて意見をぶつけ合う。生中継でな」
田辺市長:「……本気ですか、総理。火に油を注ぐ危険もありますよ」
高杉:「いや、むしろ火の中に飛び込むべき時だ。隠れて批判を浴びるより、正面から議論を示す。それしか国民を納得させる方法はない」
こうして「公開討論会」の開催が決まった。会場は神戸国際展示場、収容人数1万人。テレビ局とネット媒体が同時中継することも合意された。
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当日。会場は午前中から長蛇の列ができ、熱気に包まれていた。入口でビラを配る反対派、市民団体の旗を掲げる人々、そして静かに会場へ入る建設労働者たち。
司会を務めるのはテレビキャスターの森田香織。壇上には推進派として高杉総理、田島大臣、技術者の山崎慎司、デザイナーの川口舞、防災専門家の宮本彩。
反対派からは黒田達也、藤原智子議員、安藤直樹、川上麻衣、そしてNPO代表の藤川悠子が座っていた。
森田:「本日は、国民的議論となっている“神戸再改造計画”について、推進派と反対派、それぞれの立場から直接議論を行います。まずは総理から開会のご挨拶をお願いします」
高杉総理:「この計画は、防災と未来の都市づくりのために必要不可欠だと考えています。しかし、その道筋を国民の皆様と共有し、異なる意見を聞く場を設けるのは当然の責務です。本日は忌憚なき意見をぶつけ合い、前進のための一歩としたい」
会場から拍手とブーイングが入り混じる。
森田:「では、反対派代表として黒田さん、一言お願いします」
黒田:「私たちは“声を聞かれない人々”の代表としてここに来ました。昨日まで暮らしてきた家を取り壊される人、歴史的景観を失う人、自然環境を守りたい人……その声が、これまで国の説明では置き去りにされてきたのです」
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森田:「まずは計画の核心、防災面について。宮本さん、防災工学の観点からお願いします」
宮本彩:「神戸は阪神・淡路大震災から30年を迎えようとしています。耐震基準を満たしていない建物は今なお多数存在し、インフラの老朽化も深刻です。次の大地震や高潮に備えなければ、多数の犠牲者が出る恐れがあります」
安藤直樹:「確かに防災は大事だ。しかし、“壊して作り直す”ばかりが解決ではない。補強や保存といった方法もあるはずです。町の歴史を守ることも命を守ることと同じくらい重要だ」
川口舞:「保存と補強、それ自体は大切です。しかし限界があります。実際に現場で調査した結果、補修では対応できない建物が数多くある。そうした現実を直視しなければ、命を危険に晒すことになる」
会場から「その通りだ!」「歴史を壊すな!」と相反する声が飛ぶ。
森田:「続いて経済面について。伊藤浩さん」
伊藤:「総事業費は100兆円規模ですが、そのうちの多くは公共投資として地域経済に還元されます。雇用は数十万人単位で生まれ、神戸はもちろん全国の景気浮揚にも寄与するでしょう」
藤原智子議員:「財政赤字をさらに膨らませるだけではないですか? 福祉や教育に回すべき資金を都市改造に使うことが正しいのか。優先順位を国民に問うべきです!」
田島大臣:「そのために計画庁を設置し、財源の透明性を確保します。教育・福祉を犠牲にするのではなく、両立を図るのです」
黒田:「きれいごとだ! 現場の声を利用して賛同を得たつもりだろうが、我々は見抜いている!」
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議論は数時間にわたり紛糾した。最後に、主人公の山崎慎司が口を開いた。
山崎:「言葉でいくらぶつけ合っても、平行線のままです。ならば、現場を見ていただきたい。老朽化した橋梁、崩れかけた水道管、震災時に機能しなくなる恐れのある避難路……。現場に立ち、触れて、目で見て、判断してほしい」
会場が静まり返る。
川上麻衣:「……本当に現場を見せてくれるのですか? 賛成派に都合のいい場所だけでなく、反対派が指摘する環境や歴史的建築物も含めて?」
山崎:「ええ。すべてです。推進派も反対派も、市民もメディアも。皆で現場を歩く。それが唯一の道です」
森田が深くうなずき、マイクを握った。
森田:「それでは、本日の公開討論会は“現場視察”という新たな合意をもって締めくくりたいと思います。次回は、推進派と反対派が神戸の街を共に歩き、国民の目の前で議論を続けます」
会場から大きな拍手とブーイングが同時に起こり、熱気が渦巻いた。
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こうして「公開討論会」は次なる段階――推進派と反対派が共に現場を歩き、国民全体に生の姿を見せる「現場視察」へと発展していくのだった。
居酒屋での出会いをきっかけに、美咲はそれまで「市民運動家」としての立場からしか見ていなかった世界に、もう一つの「現場からの真実」があることを知り始めていた。
第2工区で働く作業員たちは、酒の勢いも手伝って口を開いた。
「俺らもな、好きでこんな大工事に関わってるわけじゃない。正直、事故が起きれば一番危険な目に遭うのは俺たちだよ」
一人の中堅作業員がグラスを置き、語気を強める。
「でもな、美咲さん、道路も橋も、もうガタガタなんだよ。ここ十年で、現場で見てきた崩落寸前の橋、どれだけあるか……」
別の作業員が頷きながら続けた。
「この前もな、調査で古い高架の裏に潜ったら、鉄筋が錆びてボロボロだった。コンクリは剥がれ落ちて、鉄の骨だけが残ってる。あんなの、子どもたちが毎日通学で通る道の上にあるんだぞ? いつ崩れてもおかしくねぇ」
美咲は箸を持つ手を止め、言葉を失った。これまで反対運動の場で聞いてきたのは「自然を壊すな」「住民を守れ」という声だった。だが、彼らが語るのは「現場で目にする老朽化の恐怖」だった。
「俺ら、毎日そういうの見てるからな。あんたらが『計画を止めろ』って叫ぶのもわかるよ。自然は壊したくない。俺らだって、ここで働いてるからこそ川も山も大事に思ってる。でもよ、あの橋が落ちたら? トンネルが崩れたら? 誰が責任取るんだ?」
「……」
「結局、犠牲になるのは一般の人たちだ。通勤してる人、遊びに来てる子ども、何も知らない主婦……。俺らはそれを知ってるから、怖いんだよ」
美咲はグラスを両手で包み込みながら、静かに尋ねた。
「でも……それが本当に、この大規模な計画でなきゃ解決できないの?」
作業員たちは一瞬顔を見合わせ、少し苦笑いを浮かべた。
「そこが難しいとこだよな。小手先の補修で何とかすることもできる。でも限界が来てるんだ。パッチワークみたいに直しても、根本から変えないと、またすぐ危険が戻ってくる」
「それに……」
年配のベテランが、低い声で口を開いた。
「俺たちは福島の事故のあと、全国で点検に回ったことがある。あの時わかったのは、日本のインフラは『想像以上に老いてる』ってことだ。橋脚もトンネルも、水道管も……全部が限界を超えてる。正直、国が表に出してる数字なんて、氷山の一角だよ」
美咲は背筋が凍るのを感じた。
彼らの言葉には、机上の理屈ではない「現場の実感」が詰まっていた。
「だからよ、美咲さん。あんたら反対派が言ってることも間違っちゃいねぇ。だけど、俺らが守りたいのは人の命なんだ。『自然か人か』って単純な二択じゃねぇ。両方守りたい。でも、そのために“どっちを先に守るか”を決めなきゃいけないときがある」
居酒屋の空気は重く、しかし不思議な熱を帯びていた。
美咲は深く息を吸い込み、胸の内で葛藤を抱えながらも小さく呟いた。
「……私、知らなかった。そんなに限界に来てるなんて」
作業員たちは少し安心したように笑い、また酒を口にした。
「知ってくれりゃいいんだよ。知らないまま声を上げるより、知ったうえで悩んでくれりゃな。それで十分だ」
その夜、美咲は初めて「反対か賛成か」という二元論の外にある、複雑で重たい現実を突きつけられた。
居酒屋の灯りの下で交わされた会話は、彼女の心に深い影を落としながらも、新たな問いを芽生えさせていた。
――私は、どう向き合うべきなのか。
彼女の視線は、グラスの向こうの揺れる灯りの中に沈み込んでいった。
翌日、美咲は市民会館の小さな会議室に顔を出した。
机を囲むのは、いつもの運動仲間たち――チラシ配りや署名活動で共に汗を流してきた面々だ。空気はいつもと同じように熱っぽく、誰もが「次の説明会でどう追及するか」を真剣に議論していた。
だが、美咲の胸の中には昨夜の居酒屋で交わされた言葉が重くのしかかっていた。
「……あの、ちょっといいかな」
彼女が手を挙げると、数人の仲間が「どうしたの?」と目を向ける。
美咲は一呼吸おき、ゆっくりと話し始めた。
「昨日ね、近所の居酒屋で第2工区で働いている作業員さんたちと一緒になったの。最初は正直、警戒してたんだけど……話を聞いてみたら、全然違った。彼らも事故が怖いし、自然を壊したくないって思ってた。でも――」
言葉を選びながら、美咲は一人ひとりの顔を見渡した。
「……でも、現場で見てるらしいの。老朽化した橋やトンネル、もう限界を超えてるって。子どもが毎日通る道の上の橋が、いつ崩れてもおかしくない状態だって。そういうのを目にしてるから、彼らは命を守るために、この大工事も必要なんじゃないかって……」
会議室に一瞬、重苦しい沈黙が落ちた。
やがて年配の活動家・西田が眉をひそめ、低い声で口を開いた。
「美咲さん、それは業者側の“口車”ってやつじゃないのか? 彼らだって仕事を守るために言うことはある。老朽化なんて大げさに言って、結局は新しい利権を作りたいだけだ」
「そうだよ。国も業界も、危機を煽って大規模事業を正当化するのが常套手段だ」
若手の一人も同調する。
しかし、美咲は首を横に振った。
「ううん……そういう可能性は考えた。でも、あの人たちの目を見て思ったの。嘘をついてる目じゃなかった。『命を守りたい』って言葉に、すごく重みがあったの。私たちは自然を守るって叫んでるけど、彼らは人の命を守るために必死なんだよ」
「……」
仲間の一人、子育て中の主婦・彩子が、ふと声を落とした。
「私、ちょっと気になる。もし本当に橋やトンネルが限界だっていうなら……自分の子どもが通学中に事故に遭うかもしれないってことだよね。そう考えると、胸がざわつく」
この一言で、場の空気は揺らいだ。
それまで「推進=悪」「反対=正義」と信じて疑わなかった仲間たちの心に、微かな迷いが生まれる。
「でも……」
西田はなおも強い口調で言った。
「だからといって、自然を犠牲にしていい理由にはならない。工事が進めば、川は汚れ、森は削られる。インフラの補修は他の方法でできるはずだ」
美咲は真っ直ぐに彼を見つめ、声を震わせながら答えた。
「私だって自然を守りたい。ここで活動してきた思いは本物。でも……“現場の人の声”を、私たちは今まで一度でもちゃんと聞いたことあった? 机の上で国の資料や新聞記事を読み込んで、それをもとに議論してきたけど、実際に工事をする人たちの想いは、無視してきたんじゃない?」
仲間たちは返す言葉を失った。
彼らの視線は机の上の資料に落ち、沈黙が流れる。
「私は……」
美咲は静かに言葉を継いだ。
「反対か賛成かって単純に決めるんじゃなくて、もっと真剣に、全部の声を集めて考えたい。『自然を守る』『命を守る』――両方をどう両立できるかを」
その場にいた誰も、即答はできなかった。
だが、彼女の言葉は確実に波紋を広げ、仲間たちの心に「揺らぎ」を刻んだ。
会議の終わり、美咲は一人で会場を出た。秋風が頬を撫で、彼女の胸には苦い葛藤が渦巻いていた。
――自分は、仲間の中で“裏切り者”と見られるかもしれない。
だが同時に、彼女は直感していた。
この夜の議論が、反対派の中に「新しい対立の芽」を生み出したのだ、と。




