第18話/現場の声
夜の神戸・灘区。商店街の端にある赤ちょうちんの灯りが、秋風に揺れていた。
暖簾をくぐると、焼き鳥の香ばしい匂いと、どこか懐かしい昭和の演歌が迎えてくれる。
美咲はその日、店じまいを早めに切り上げて、知人に誘われてこの居酒屋に足を運んでいた。
カウンター席には数人の作業員が集まり、既にジョッキを片手に賑やかに語らっている。
「お、あんた商店街の美咲さんやないか」
声をかけてきたのは、第二工区で重機を扱う作業員の一人、杉山だった。年齢は40代半ば、がっしりとした体格に、油に染みた作業着がよく似合う。
「こんばんは。たまたまこちらに寄ったんです」
美咲は軽く頭を下げ、隣の席に腰を下ろした。
「よう来たな。今日は現場の連中と一杯やっとるんや。まあ座って座って」
杉山の隣に座っていた若手の作業員・森下が、気さくに声をかけてきた。
店主がビールジョッキを置くと、自然に乾杯が始まった。
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「しかしまあ、この工事もまだ準備段階やけど、現場に立つとよう分かるわ。街の下水管、あれ、もうボロボロやな」
杉山が低い声で語り始める。
「ええ、そんなに?」美咲が驚いたように問い返す。
「そらそうや。中には50年、60年使いっぱなしの管がごろごろある。水道管も古いのはアスベスト混じりやし、ひび割れなんか普通や。こないだなんて、スコップ突っ込んだら管が割れて水柱が吹き出してもうた」
「そ、そんな……」
「表からは見えんけどな、日本のインフラはもうガタガタやで」
森下がビールを煽りながら続ける。
「道路や橋もそうや。高速道路の継ぎ目、夜間工事で補修しても補修しても追いつかん。あれ全部取り替えんと、いずれ大事故が起きる」
美咲は箸を止め、真剣に耳を傾けた。
「テレビや新聞で見ても実感が湧かないけど、現場の人が言うと重いですね」
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「ワシらはな、ただ穴掘ってコンクリ流し込んでるだけやないんや」
杉山は煙草に火をつけ、ゆっくりと煙を吐き出した。
「次の世代が安心して暮らせる街にするために、汗流しとる。それが誇りや」
「せやけどな」
今度はベテラン作業員の一人、矢野がぽつりと口を開いた。
「工事が始まると、どうしても周りの人らに迷惑かけてまう。騒音も振動も避けられん。せやから俺ら、よく罵声を浴びるんや。『うるさい!』『また道路塞いでる!』ってな」
「……」美咲は胸が痛むのを感じた。
「でもな、美咲さん」
矢野は真っ直ぐに彼女を見た。
「それでも俺らはやらなアカンのや。橋が落ちる前に、道が沈む前に、街を守らな」
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美咲はビールを置き、真剣な眼差しで語り返した。
「私は商店街を代表して説明会にも出てます。正直、店をやってる側からすると工事は負担です。人通りが減るし、騒音で客足も遠のく。それに工事が10年以上続くと聞いたら、不安になるのは当然です」
「せやな」杉山がうなずく。
「そやけど、工事を先送りにしたら街全体が持たんのや。いま手を打たな、神戸はほんまに沈んでまう」
「分かってます。でも……」
美咲は言葉を探しながら続けた。
「私は説明会で住民に寄り添う立場。でも今こうして皆さんの声を聞いて、本当に裏で支えてくれてる人がいるんだって実感しました。私も商店街の仲間に伝えます」
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若手の森下が急に笑いながら言った。
「俺の親父も土木作業員やったんや。『世の中で一番文句言われる仕事やけど、一番誰かを助けとる仕事や』ってよう言うてた」
「ええ言葉やな」矢野が笑みを浮かべる。
「ほんまその通りや」
「俺らの仕事が見えにくいのが問題やな」杉山が付け加える。
「ビルとか橋は完成して初めて感謝されるけど、その過程は『迷惑』でしか見られん。けど、美咲さんみたいに声を聞いてくれる人が一人でも増えたら、俺らも頑張れるわ」
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居酒屋の暖簾の外では、港の夜風が冷たく吹き始めていた。
美咲は帰り際、作業員たちに深々と頭を下げた。
「今日は本当に勉強になりました。私は商店街を守るために、皆さんの努力を無駄にしないよう声を届けます」
「ありがとうな、美咲さん」
杉山が肩を叩き、矢野も笑顔で送り出した。
港町の夜景を見上げながら、美咲は心の奥で小さな決意を固めていた。
――街を守るのは、市民も、作業員も、政治家も、同じ立場のはずだ。
その思いが、次の説明会で彼女の発言を変えていくことになる。
翌朝、美咲は居酒屋での会話を思い返していた。机の上には、昨夜慌ただしくメモした手帳が広がっている。そこには「壊れる前に守れ」「現場の声を伝える」「犠牲者を出さないために」という言葉が並んでいた。作業員たちが真剣な目で語った表情が脳裏から離れない。
彼女は意を決し、その日のうちに計画推進本部の会議で発言した。
「すみません、私から一つ提案があります」
議場が静まり返る。年配の議員や官僚たちの鋭い視線が美咲に向けられる。
「昨日、現場の作業員の方々から直接お話を伺いました。彼らは工事を請け負う立場でありながら、ただ仕事のためではなく、“将来の犠牲者を出さないため”という想いで汗を流していると語っていました」
数人の議員が顔を見合わせる。美咲は続けた。
「資料や数字では伝わらない説得力があります。説明会や国会での答弁の際、ぜひ現場の声を映像や証言の形で取り入れるべきだと思います。反対派の方々にとっても、“机上の計画”ではなく、“人の想い”があることを知っていただく必要があります」
静寂が数秒続いた。やがて、一人の幹部議員が口を開いた。
「ふむ……確かに、数字や安全基準ばかりでは国民の心には届かん。我々はつい専門的な説明に偏ってしまう。だが“人の声”となれば話は別だ」
同調する声が次々に上がった。
「現場の証言を映像にまとめ、次回の説明会で流そう」
「記者クラブにも公開すればいい。批判も浴びるだろうが、それ以上に共感が得られるはずだ」
その方針はすぐに具体化され、次の国会答弁でも使われることとなった。
――数日後。
国会の予算委員会。総理が登壇し、質疑応答が続く中、野党の議員が声を荒らげた。
「結局、この計画は業者に儲けさせるだけだろう!国民には負担ばかり押しつけて!」
議場がざわつく。その瞬間、総理が静かに答弁した。
「……では、こちらをご覧いただきたい」
議場のスクリーンに、居酒屋で美咲が聞いた作業員たちの証言映像が映し出された。泥だらけの作業服に身を包んだ男が、真っ直ぐカメラを見据えて言う。
「俺たちはな、将来の犠牲者を出さないためにやってるんだ。橋やトンネルは人の命を預かってる。壊れてからじゃ遅いんだよ」
別の若い作業員も続く。
「反対の声も分かります。でも現場で崩れかけの基礎を見ると、背筋が凍るんです。あの上を何千台も車が走ってるって思うと……夜も眠れない」
映像が終わると、議場はしんと静まり返った。野党議員たちの顔にも、さすがに押し黙らざるを得ない様子が浮かぶ。総理はゆっくりと口を開いた。
「この計画は、ただの公共事業ではありません。未来の安全を守るためのものです。机上の理屈ではなく、現場で働く人々の想いをどうか受け止めていただきたい」
拍手が与党席から湧き起こり、野党側も言葉を失った。
そして夜、美咲はニュース番組を見ていた。コメンテーターたちは一様に「現場の声を映すことで議論の質が変わった」と口にしていた。SNSでも「やっと人間の言葉が聞けた」「説得力が違う」と拡散されている。
美咲は安堵の息をつきながら思った。
――あの居酒屋での出会いがなければ、この一歩はなかったかもしれない。
けれども同時に、彼女の胸には新たな覚悟が芽生えていた。
人々を動かすのは数字でも理屈でもない。“現場の声”を拾い続けることこそ、自分の使命なのだと。
国会で映し出された作業員たちの映像は大きな反響を呼んだ。だが、それを黙って受け入れるほど反対派は甘くはなかった。
翌日、神戸市役所前の広場に、反対派のリーダー黒田達也や古建築保存団体代表の安藤直樹、環境保護団体の川上麻衣らが記者会見を開いた。テレビ局や新聞社のマイクが並び、群衆のざわめきが響く。
黒田:「みなさん、昨日の国会中継をご覧になったでしょう。作業員の方々の“声”を流していました。しかし、あれは誰が撮影したのか、誰が編集したのか。政府やゼネコンが自分たちに都合のいい言葉を切り取って流したのではないか?」
記者:「つまり、演出された映像だとお考えですか?」
黒田:「その通りです。働く方々が真剣に現場で取り組んでいることは否定しません。しかし、それを政府が利用し、あたかも“全ての現場が賛同している”かのように見せるのはプロパガンダに他なりません!」
群衆の中からも拍手と賛同の声が上がる。
安藤:「私たちは現場の声を無視しているわけではありません。ただ、声なき人々――取り壊される町並みに暮らす住民や、失われる歴史的建築物はどうなるのか。カメラの前に立つ作業員の言葉だけで都市の未来を決めていいのか、ということです」
川上:「さらに言えば、環境面への影響も語られていない。10年以上続く再開発で、どれだけの資源が使われ、どれだけの自然が破壊されるのか。現場の声は重要ですが、環境の声、歴史の声、暮らしの声も同じくらい重要なのです」
記者たちは矢継ぎ早に質問を浴びせる。
記者:「では、反対派としてはどういった対案を出されるのですか?」
黒田:「拙速に進めるべきではない、というのが我々の立場です。まずは既存インフラの“最低限の補修”で急場をしのぎ、その間に市民的合意を得るべきでしょう」
この会見は全国に報道され、SNSでも「プロパガンダだ」「でも現場の声も大事だ」という激しい論争が巻き起こった。
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一方、国会でも火花が散っていた。
藤原智子(野党議員・市民派):「総理、昨日の答弁で流した作業員の映像ですが、撮影や編集の過程を明らかにしてください。あのように涙ながらに訴える姿は、確かに人々の心を動かしました。しかし、政治利用されたとしたら深刻な問題です」
総理・高杉康之:「藤原議員、ご懸念は理解いたします。映像はゼネコンのJVが無償提供したものです。内容に恣意的な編集はないと確認しております。現場の労働者の真摯な声を国民に伝えるためのものでした」
藤原:「ですが、他の意見、例えば“再開発に疑問を持つ作業員の声”は含まれていませんね? それでは公平性を欠くのではありませんか?」
田島大臣:「……確かに、賛成の声ばかりに偏ってはいけません。我々は今後、幅広い現場の意見を収録し、賛否を含めて公にしていくことを検討いたします」
議場はざわめき、記者席からもペンの走る音が響いた。
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さらに、テレビ討論番組でも激しいやり取りが繰り広げられる。
司会の森田香織:「政府は現場の声を前面に出していますが、反対派からは“プロパガンダ”との批判が出ています。本日は推進派の建築デザイナー川口舞さん、反対派の古建築保存団体代表の安藤直樹さんにお越しいただきました」
川口舞:「私は現場で老朽化したインフラを見てきました。危険を放置すれば、災害時に取り返しのつかないことになる。その危機感を伝えた作業員たちの声は真実です」
安藤:「真実かどうかではなく、それを“誰がどのように伝えるか”が問題です。政府が都合よく利用すれば、どんな言葉も正当化の材料になります」
川口:「では、歴史的建物を守ることと、人命を守ること、どちらを優先すべきだとお考えですか?」
安藤:「両立させるべきです。その議論の時間すら与えず、感情的な映像で押し切るのは許されません!」
スタジオの空気は緊張で張り詰め、視聴者からも賛否のメールが殺到していた。
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こうして「現場の声」をめぐる攻防は、新たな火種となり、世論をさらに二分していった。




